墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

三倍という呪縛

2005-09-19 20:14:04 | 駄目
 シャーのザクは通常の兵士の操るザクの三倍である。だが、これは平均値であろう。平均的に並のザクより三倍なのだ。調子の悪い時は1・5倍かもしれないし、絶好調なら5倍かもしれない。平均的にみて並のザクの三倍なのだ。比較される相手のいる不幸である。
 だが、アムロのガンダムには比較対象がない。並のガンダムよりすごいと誉められる事は絶対ないし、ジムのよりすごいと誉められても、機体性能のことかもと思ってしまう。アムロの比較対象は昨日のアムロの他にはいない。昨日のアムロを超えない限り、アムロはすごくないのだ。平均的に並の兵士より三割増のスコアを誇っていれば良いシャーとはアムロは根本から違うのだ。


下らない自信

2005-09-19 19:47:45 | 駄目
 俺、以外に自信家だから、もう誰も読んでないクソブログだとか自分のブログの事を言わない。マジで読むなら、あきらかに、俺の文章は意志の弱い人間を浸食するだけの力を持った文章だ。忠告する。シャレで書いてるので、ビタいち本気にせぬように。俺本人は、あなた以上、それ以下に下らない人間だ。
 まぁ、誰もマジで読んでないか。


徒然草 第五十八段

2005-09-19 19:16:55 | 徒然草
 「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を願みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。
 その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羹、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいえど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。
 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。

<口語訳>
 「道心(仏の道を求める心)あれば、住む所に必ずしもよらない。家に居り、人に交わるとも、後世(ごせ・死んだ後の世。極楽。来世とも言う)を願うのに難かしい事があるか」と言うのは、全く、後世を知らない人だ。実に、この世を儚み、必ず、生死を出ようと思うのに(生死の迷いを脱出しようと考えるのに)、何の興あってか(何が面白くて)、朝夕君(主人)に仕え、家を顧みる営み(一族を盛り上げる営み)は勇ましい(やる気まんまんだ)から。(「。」でなく「、」でなかろうか?)心は「縁(えん)」にひかれて移るものなので、閑か(心しずか)でないなら、道は行い難い。
 その器、昔の人に及ばない、山林に入っても、餓(飢え)を助け、嵐を防ぐよすが(縁)なくてはおられぬ技(ありさま)ならば、自ら、世を貪るに似た事も、たよりにすれば、などはなかろうか。そうだろうと、「(世を)背いた甲斐なし。そればかりならば、何故捨てた」など言うのは、無下の事だ。さすがに、一度、道に入って世を厭う人は、たとえ望みありとも、勢いある人の貪欲多いのに似るべきもない。紙の衾(紙の布団)、麻の衣、一鉢のまうけ(一杯の飯)、藜の羹(藜の汁)、いくばくか(どれだけ)人の費え(出費)になろう。求める所は得やすく、その心は早く足りるはず。かたちに恥じる所もあるが、そうは言えども、悪には疎く、善には近づく事のみが多い。
 人と生れたしるしには、いかにしても世を遁(のが)れることこそ、望みである。ひたすら貪る事につとめて、菩提に趣かないのは、よろずの畜類に変る所あるまじきや。

<意訳>
 仏の教えを学び、生死の迷いを捨て去ろうと考えるなら、やはり出家が手っ取り早いようだ。
「仏の道を学ぶのに場所や方法など関係あるか」と出家せず、家にいて人に交わって暮らすのは、やはり愚かだ。他人に仕え、家族を思って生活するのは勇ましいけれど、心は人との縁に流されるもの。他人に干渉を受け心を静かに保てない環境では、仏の道は遠い。
 人の器など昔の人には及ばない。山奥に一人こもり。飢えをしのぎ雨風をしのぐ他者との縁が切れたなら、あさましく今日の糧の事のみを考えて貪り暮らすしか手はなくなる。一人では満足に生きられない。山にこもり修行する者が「こんな生活なら、世を背いてまで出家した甲斐なし」と無下に嘆く事もあろうが、さすがに、一度は仏の道を志した者。例え望みあろうと、貪欲な者の望みには遠く及ばない。紙の布団に、麻の着物、一杯の飯に、藜の汁。こんなもの金に換算したらどれだけの出費だろうか。遁世者の求める物はささいで、その心はたやすく満ちる。ろくに着る物もないので、見た目に恥じるところもあるがその生活は、欲に疎く、仏に近い。
 人として生まれたからには、いかに死を乗り切るかが肝心である。ただ貪る事につとめて、死を見つめない者は畜生と変わる所あるのか。

原作 兼好法師


徒然草 第五十七段

2005-09-19 11:32:04 | 徒然草
 人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
 すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。

<口語訳>
 人の語り出した歌物語の、歌が悪いのこそ、本意ないな(不本意だ)。少しはその道知る人なら、いみじ(すごい)と思っては語らない。
 すべて(において)、それほど知らない道の物語するのは、かたはらいたく(あえて口出し出来ない気の毒な気持ちを意味する。ここではハラハラして)、聞きにくい。

<意訳>
 悪い和歌を例に出して歌の話題を持ち出されても困る。少しでも和歌を知っている人なら、すごいとは思わないだろう。
 なんであれ、良く知らない事を語る人ってのは、なんかお気の毒で聞いていられない。

<感想>
 特殊技能をもつ職業に就く人なら、素人に語りかけられて、こういう気持ちになった事があるのではないだろうか。
 兼好は「和歌」の専門家、歌人である。あんまり和歌を良く知らない人に和歌の話しを持ちかけられて閉口したという話しである。

原作 兼好法師