「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を願みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。
その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羹、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいえど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。
<口語訳>
「道心(仏の道を求める心)あれば、住む所に必ずしもよらない。家に居り、人に交わるとも、後世(ごせ・死んだ後の世。極楽。来世とも言う)を願うのに難かしい事があるか」と言うのは、全く、後世を知らない人だ。実に、この世を儚み、必ず、生死を出ようと思うのに(生死の迷いを脱出しようと考えるのに)、何の興あってか(何が面白くて)、朝夕君(主人)に仕え、家を顧みる営み(一族を盛り上げる営み)は勇ましい(やる気まんまんだ)から。(「。」でなく「、」でなかろうか?)心は「縁(えん)」にひかれて移るものなので、閑か(心しずか)でないなら、道は行い難い。
その器、昔の人に及ばない、山林に入っても、餓(飢え)を助け、嵐を防ぐよすが(縁)なくてはおられぬ技(ありさま)ならば、自ら、世を貪るに似た事も、たよりにすれば、などはなかろうか。そうだろうと、「(世を)背いた甲斐なし。そればかりならば、何故捨てた」など言うのは、無下の事だ。さすがに、一度、道に入って世を厭う人は、たとえ望みありとも、勢いある人の貪欲多いのに似るべきもない。紙の衾(紙の布団)、麻の衣、一鉢のまうけ(一杯の飯)、藜の羹(藜の汁)、いくばくか(どれだけ)人の費え(出費)になろう。求める所は得やすく、その心は早く足りるはず。かたちに恥じる所もあるが、そうは言えども、悪には疎く、善には近づく事のみが多い。
人と生れたしるしには、いかにしても世を遁(のが)れることこそ、望みである。ひたすら貪る事につとめて、菩提に趣かないのは、よろずの畜類に変る所あるまじきや。
<意訳>
仏の教えを学び、生死の迷いを捨て去ろうと考えるなら、やはり出家が手っ取り早いようだ。
「仏の道を学ぶのに場所や方法など関係あるか」と出家せず、家にいて人に交わって暮らすのは、やはり愚かだ。他人に仕え、家族を思って生活するのは勇ましいけれど、心は人との縁に流されるもの。他人に干渉を受け心を静かに保てない環境では、仏の道は遠い。
人の器など昔の人には及ばない。山奥に一人こもり。飢えをしのぎ雨風をしのぐ他者との縁が切れたなら、あさましく今日の糧の事のみを考えて貪り暮らすしか手はなくなる。一人では満足に生きられない。山にこもり修行する者が「こんな生活なら、世を背いてまで出家した甲斐なし」と無下に嘆く事もあろうが、さすがに、一度は仏の道を志した者。例え望みあろうと、貪欲な者の望みには遠く及ばない。紙の布団に、麻の着物、一杯の飯に、藜の汁。こんなもの金に換算したらどれだけの出費だろうか。遁世者の求める物はささいで、その心はたやすく満ちる。ろくに着る物もないので、見た目に恥じるところもあるがその生活は、欲に疎く、仏に近い。
人として生まれたからには、いかに死を乗り切るかが肝心である。ただ貪る事につとめて、死を見つめない者は畜生と変わる所あるのか。
原作 兼好法師