墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

鼻毛

2005-09-29 06:08:50 | 携帯から
今朝は曇ってはいるけれど、空はやや明るい。ところで、すごい鼻毛を抜いた夢をみた。夢の中、毛抜きでブチってやったら7~8センチはありそうな鼻毛が、鼻から抜けでてきた。太くてすごい剛毛でささりそう。夢の中でたいしたもんだとホレボレしてしまった。何かの吉夢かもしれない。


徒然草 第六十八段

2005-09-28 20:26:36 | 徒然草
 筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。
 或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失せにけり。
 深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。

<口語訳>
 筑紫に、某(なにがし)の押領使(おんりょうし)などというような者がおりましたが、土大根(つちおおね)を万(よろず)にすごい薬として、朝ごとに二つづつ焼いて食います事が、年久しくなった。
 或時、館の内に人が無かった隙をはかって、敵襲い来て、囲み攻めましたら、館の中に兵(つわもの)二人出て来て、命を惜しまず戦って、皆追い返しちまった。いと不思議に思って、「日頃ここにおられるとも見えぬ人々の、かくも戦われたのは、いかなる人だよ」と問いましたらば、「年来(長年)頼んで(頼りにして)、朝に朝に召した土大根等に候(そうろう)」と言って、失せました。
 ふかく「信」を致しませば、こんな徳もあるだろう。

<意訳>
 九州の筑紫に、押領使の役職おおせつかった大名が御座いました。この方、大根を何にでも効く良い薬だと信じ、長年にわたり毎朝二本ずつ焼いて食べ続けておりました。
ですが、ある日。押領使ばかりを残して、館の中に兵がいない隙を見計らい、敵が襲ってまいりました。すっかり取り囲まれ窮地に追い込まれました時、館の中に兵が二人現れ、命も惜しまず戦い、敵を皆、追い返してしまいました。
押領使はとても不思議に思い、二人が何者であるのか尋ねます。
「日頃、この館で見ない者共だが、かくも戦うとは、どなたでごわすか?」
すると。
「あなたが何年信じて、毎朝召し上がった大根めにごわす」
そう言うと、二人の兵は消えてしまった。
 信じれば、深くだよ。こんな徳もある。

<感想>
 大根は毎朝、二本は食えません。煮ても焼いても無理です。
 現代の関東人である俺が想像する「大根」は「練馬大根」。では、兼好が言うところの「土大根」とはいかなる物か。
 どうやら、京都の人達は、丸くてカブっぽいものを大根と呼んでいたらしい。カブなら頑張れば二本食える。そういう訳です。
リンク: e京都ねっと・大根焚き 千本釈迦堂 了徳寺 三宝院.
 「押領使」とは、横領して使う人の事ではなく、朝廷から領を押し頂いて使役の人とかいう意味の役職でして、もともとは違ったのですが、要するに地方の軍事司令官なのです。師団長アンド県警署長アンド地方裁判官みたいのが兼好の時代の「押領使」という役職です。だけど、この時代には鎌倉幕府から任命される地方行政官みたいな役職もありますし、いろいろややこしいのです。
 「押領使」は、戦国大名の元祖である。ぐらいに想像しておけば良いのではないでしょうか。武力を持ち、その地方の軍事を朝廷からまかされるほどの人物が「押領使」だったのです。
 『押領使(おうりょうし)とは、平安時代の律令に規定をもたない令外官で軍事的官職。延暦14年(795年)、防人の移動に携わっていた任務が文献に初めて登場している。このときの職務は兵を率いたのみで、実際の戦闘には服役していないが、やがて押領使の職務内容は、移動させる兵の戦闘等の指揮官へと変化していく。押領使は、基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、主として現代でいう地方警察のような一国内の治安の維持にあたった。中には、一国に限らず一郡を兼務していた者や、一時は東海道・東山道といった道という広範囲に渡っての軍事を担当した者もある。 いずれにしても、地元密着型の職務であることから、押領使には土地の豪族を任命することが主流となり、彼らが現地において所有する私的武力がその軍事力の中心となった。下野国押領使として天慶の乱にて平将門を滅ぼした藤原秀郷などが有名。なお荘園にも押領使は存在し、荘園内の治安の維持にあたったと思われる。(Wikipediaより引用)』
リンク: ♪おみそしるパーティー♪:「徒然草」 第六十八段 あなたのピンチを救う食べ物は?.
 俺のピンチを救ってくれるものはなんだろう。黒ラベルとドラフトワンなら毎晩2本づつ飲んでる。朝限定ならバナナだ。バナナは滋養強壮に良い。あとは「木村」かな。木村は「助けてー」と呼ぶと一応は助けに来てくれる。「木村タスケテー」ピンチを救う食べ物はナニ?
 木村以外は助ける人もなし。やれやれ困った。


寒い

2005-09-28 06:12:50 | 携帯から
今朝はくもりで寒い。もう、肌寒いを超えた。Tシャツの上にもう一枚シャツをはおって家を出たが、まだ寒い。どこに行くのか改札の前に、近所の女子体育大学の生徒達が、ジャージ姿でたむろして群がっていた。あの中に飛び込んで、おしくらまんじゅうでもしてもらえば、身も心も暖まるだろうにと想像したら、少しだけ熱くなった。


徒然草 第六十七段

2005-09-27 21:33:02 | 徒然草
 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ紛へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚の、
  月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はここにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられたり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。

<口語訳>
上賀茂神社の岩本社と橋本社は、 在原業平藤原実方である。人は常に言いまちがいますので、ある年に参って、老いた宮司(神官)が過ぎるのを呼び止めて、尋ねましたら、「実方は、御手洗に影の映りました所で御座いますれば、橋本は、なお水に近かったと思います。吉水和尚が、
『月をめで 花を眺めし いにしへの
        やさしき人は ここにありはら』
と詠みましたのは、岩本の社とこそ承っておいておりますが、我れらよりは、なかなか、御存知などでございますのでは」と、とてもうやうやしく言ったりしたのこそ、すごく思いました。
 今出川院近衛(出川院に仕えた近衛という名の女で歌人。鷹司伊平の娘。前段の『鷹飼い』からの連想であろうか。兼好と面識のあった可能性もある。ちなみに兼好は、清少納言と紫式部以外の女はめったに誉めない)という、歌集などにもあまた入っている人は、若かりし時、常に百首の歌を詠み、かの二つの社の御前の水にて書いて、手向けられました。まことにすごい誉れがあって、人の口にのぼる歌多し。作文や詞序なども、すごく書く人だ。

<意訳>
 上賀茂神社の、岩本の社と橋本の社は業平と実方だ。
 業平と実方は共に歌仙で、和歌の神様なんだが、どっちにどっちの社に祀られているのか由縁はすでにわからない、人によって言う事も違う。ある年、上賀茂神社を詣でた折り、神社にいた年老いた宮司を呼び止めて、その事について尋ねてみた。
「藤原実方を祀る社は、御手洗の水面に影が映る社と聞き及んでおります。それでしたら、橋本の社の方が御手洗に近いと思います。それに、歌人の吉水和尚が『月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら』と詠んだのは、岩本の社の前であったと聞いております。ですが、どうも。こういう事は、我らより歌人の方々の方がくわしいのではないでしょうか」
 宮司はこのように親切に答えて下さった。
 ところで、今出河院近衛という歌人は、あまたの歌集にも歌を選ばれた才女であり、若い頃から常に百首の歌を詠む強者で、岩本と橋本の社の前の水で墨をすって歌を詠み奉納して和歌の上達を念じた。さすがに歌仙のご利益高く、人の口にのぼる歌を多く詠み、漢詩などにも優れていた。

<感想>
 上賀茂神社の境内には、岩本社と橋本社という末社がある。祀られているのは平安時代初期の歌人在原業平と、平安時代中期の歌人藤原実方である。
 ところが、どちらの社にどちらの歌人が祀られているのか、由縁が良くわからなくなってしまっている。兼好がその事について上賀茂神社の宮司に尋ねてみると、宮司の答えは「御手洗に近い橋本が実方で、歌人の吉水和尚がその前で、歌を詠んだ岩本が業平だろう」という答え。すでに神社の人も確実に由縁を知っているわけではないようである。
 ちなみに『月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら』という歌は「ここにありはら」と「在原業平」をかけている。

原作 兼好法師