墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

DVDもらった

2005-09-22 20:56:02 | 駄目
 新聞配達の帰り。見知った人の乗るカブに出会った。カブの彼は腕に入れ墨を入れた20代前半の若人。俺は細胞の隅々までヤニとアルコールの廻った35才。今年の冬には36才になる蠍座の11月13日生まれのフリーターなのだ。ちなみにO型だ。

「内山クンち。DVD観れる?」

「うん、観れる」
(見事なラ抜き言葉の応酬)

「DVDあげる」

「なんで?」

「売りに行こうとおもってたけど、カードあげちゃった。観れば?」
(勧誘で、新聞読者をゲットしたボーナスがもらえるので、DVDを売って得られる小銭にはもう用がないから。君にDVDをみせてあげる。アンドDVDごとお前にやる)

「売りゃいいのに」

「いいよ」

「ありがとう。じゃね」

 こうして、俺はDVDをもらった。
 ウラの箱書きを読む。
「隣のきれいなおねいさんに恋したボク。
 隣に越して来た、きれいでセクシーなお姉さんはなんとAV女優。たまたま作品を見てしまったボクは、、、、。
 懸命にがんばる女の子と、彼女に惚れた一途な青年のラブ・ストーリー」
 あー。週末にチンコでも握りしめながら観よう。
 でも俺って、金髪苦手なんだよな。大丈夫だろうか。



書く事がなくなる

2005-09-22 20:21:14 | 駄目
 ネットを「公」と思うなら書く事なんていずれはなくなるさとは思うよ。はっきり言って、ブログを一年以上続けられた人は偉い。よく書き続けたと誉めてあげたい。俺には無理だ。
 俺のやってるコレは「独り言」でブツブツしている。こんなもんなら二三百年だって平気で続けられる。俺のやってる事は単なる己の個人情報(有害物質)の垂れ流しで規制もクソもない。クソそのものだ。
 自分の流す情報に規制を設け、その範囲内で個人情報の操作を行いながら意見を発表する事を「対話」と言うのなら、正にそれって「対話」だなと思う。それに対して「フルチン」は、あくまで「独り言」なのだ。
 パンツを脱いだ時点でそれは「個」となる。「フルチン」を世界発表しても「対話」はできない。だが、「表現」はパンツをはいているはいていないにかかわらず、人目に触れた時点で「表現」となりうる。「表現」に「対話」は必要だが、不可欠な物ではない。
 己の肉体そのものがすでに「表現」なのだ。ロビンソン・クルーソーののろしの跡さえ表現だ。存在そのものが「表現」であり、表現者の意識、無意識にかかわらずそこにいて、誰かに見られる可能性そのものが「表現」なのである。
 表現の主体は常に受け手にある。だからこそ、表現者は愛されねばいけないのだ。愛される為の「対話」なら必要だと思う。


徒然草 第六十一段

2005-09-22 19:43:52 | 徒然草
 御産の時、甑落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣とどこほる時のまじなひなり。とどこおらせ給はねば、この事なし。
 下ざまより事起りて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。

<口語訳>
 お産の時、 甑(こしき)を落す事は(屋根の棟から甑を落とす事は)定まった事ではない。御胞衣(おんえな・胞衣。胎児を包む膜。羊膜)とどこおる時(後産が滞る時の)のまじないである。とどこおらせ給わねば、この事はなし。
 下ざま(下層)より事が起こって、させる(それほど)本説(根拠)ない。大原の里の甑を召す(取り寄せる)のだ。(大腹で安産! だから大原の甑)古い宝蔵の絵に、卑しい人が子を産んでいる所に、甑を落しているのが書いてある。

<意訳>
 お産のときに、屋根の上から甑を落とす風習は別に決まった事ではない。後産がとどこおらなければ、やる必要もないし、庶民のはじめた事なのでたいした根拠もない。大原の甑を取り寄せるのが、特に縁起が良いそうである。
 古い蔵に宝蔵されていた絵巻に、貧しい者が子を産む場面の横に、屋根から甑を落とす絵が描かれていた。

<感想>
 兼好は古くて尊い物が好きなんである。最新の流行とか嫌いなんである。
 最近は貴族もやるようになった屋根から甑を落とすマジナイは、もともと身分の低い人間のやるマジナイだったんだよと言っている。
 甑(こしき)とは、土器の蒸し器の事。底に穴が開いており、ここから蒸気を取り入れ上にふたをして米とか蒸した。セイロにやや使い方が似ているが、やっぱりセイロとは違う。甑は甑で納得していただきたい。
 
 原作 兼好法師