春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。
<口語訳>
春の暮つかた(春の暮れる頃・晩春)、のどかに艶なる(えんなる・風情があり美しい)空に、賤しくはない家(立派な造りの家)の、奥深く、木立もの古びて(ものは“もの珍しい”の“もの”。接頭語)、庭に散り萎(しお)れている花(花びら)見過しがたく、さし入りて(“さし”は接頭語。中に入るという意味)見れば、南面(みなみおもて)の格子(しとみとも言う。上に押し上げて開くタイプの戸。つり上げてかけ金で固定しておいた。角材を格子に組んで作り、家の内側になるほうに板を貼ってある。日中は開けたままにしておく事が多い)は皆おろしてさみしげなようなのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)がよい程度にあいている、御簾(みす・すだれのこと)の破れより見れば、かたち清げなる(美しい)男で、年廿(年はたち)ばかりにて、うちとけて(くつろいで)はいるが、心にくく(心引かれる)、のどかなる様子をして、机の上に文(書)をくりひろげて見ている。
いかなる人であろうか、尋ね聞きたい。
<意訳>
春が終わる頃かな。
のどかに豊かな色を含んだ空。そんな空の下に古びたお屋敷があった。屋敷は広く、古木が生い茂っている。庭には桜の花びらが散って萎れている。これは、なんとも見過ごせない雰囲気の屋敷だ。
屋敷に立ち入ってみると、南側正面の戸は全て閉じられ、人気がない。東側にまわると妻戸が良い具合に開き、部屋には破れた御簾がかけられていた。
その破れめから見える男がいた。
年は二十歳ほどの美しい男。くつろぎのどかに本など読んでいる様子さえ心憎い。
このお屋敷の青年は何者であったのだろう。誰か教えてはくれないか。
<感想>
あーぁ。またもや、覗き趣味のはなしだ。兼好はストーカーまがいの覗きをするような人間であろうか、いや、あるまいと、肩をもっていたのに、またこりずにこんな話しなんである。
前に、ある人のつきそいで月見した途中に女の家に立ち寄った時、ある人が帰った後も女の様子を覗いていたと言う兼好に対して、そんな事はあるまいと肩を持って助け舟したのに。まったく兼好は懲りてない様子だ。
本気で覗きが趣味だったのかもしれない。
この段を素直に読むなら、兼好は貴族の屋敷に人がいないのを良い事に、無断侵入したうえ、若い男が読書する様子を覗いていた事になる。兼好は覗き趣味の不審者だ。
だがもちろん。そんなもんは現代の価値観にすぎない。「見ても減らない」こそが、この国のまっとうな価値観であり、いつ見られても恥ずかしくない格好でいる事ことが素晴らしいのだ。これが、この国の伝統的価値観であったのではなかろうか。「もうすべてがどうでもいいや」というほどには暑さが続かないがゆえに生まれた価値観だ。
もちろん、この段は、兼好の想像の話しである場合もありえる。散歩の途中で、素敵なお屋敷を見つけたんだけど、この屋敷の主はどんな人かなと想像をたくましゅうして書いたのかもしれない。よくわからんというのが本音だ。
原作 兼好法師
現代語訳 protozoa
参考図書
「徒然草」吉澤貞人 中道館
「絵本徒然草」橋本治 河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫
いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。
<口語訳>
春の暮つかた(春の暮れる頃・晩春)、のどかに艶なる(えんなる・風情があり美しい)空に、賤しくはない家(立派な造りの家)の、奥深く、木立もの古びて(ものは“もの珍しい”の“もの”。接頭語)、庭に散り萎(しお)れている花(花びら)見過しがたく、さし入りて(“さし”は接頭語。中に入るという意味)見れば、南面(みなみおもて)の格子(しとみとも言う。上に押し上げて開くタイプの戸。つり上げてかけ金で固定しておいた。角材を格子に組んで作り、家の内側になるほうに板を貼ってある。日中は開けたままにしておく事が多い)は皆おろしてさみしげなようなのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)がよい程度にあいている、御簾(みす・すだれのこと)の破れより見れば、かたち清げなる(美しい)男で、年廿(年はたち)ばかりにて、うちとけて(くつろいで)はいるが、心にくく(心引かれる)、のどかなる様子をして、机の上に文(書)をくりひろげて見ている。
いかなる人であろうか、尋ね聞きたい。
<意訳>
春が終わる頃かな。
のどかに豊かな色を含んだ空。そんな空の下に古びたお屋敷があった。屋敷は広く、古木が生い茂っている。庭には桜の花びらが散って萎れている。これは、なんとも見過ごせない雰囲気の屋敷だ。
屋敷に立ち入ってみると、南側正面の戸は全て閉じられ、人気がない。東側にまわると妻戸が良い具合に開き、部屋には破れた御簾がかけられていた。
その破れめから見える男がいた。
年は二十歳ほどの美しい男。くつろぎのどかに本など読んでいる様子さえ心憎い。
このお屋敷の青年は何者であったのだろう。誰か教えてはくれないか。
<感想>
あーぁ。またもや、覗き趣味のはなしだ。兼好はストーカーまがいの覗きをするような人間であろうか、いや、あるまいと、肩をもっていたのに、またこりずにこんな話しなんである。
前に、ある人のつきそいで月見した途中に女の家に立ち寄った時、ある人が帰った後も女の様子を覗いていたと言う兼好に対して、そんな事はあるまいと肩を持って助け舟したのに。まったく兼好は懲りてない様子だ。
本気で覗きが趣味だったのかもしれない。
この段を素直に読むなら、兼好は貴族の屋敷に人がいないのを良い事に、無断侵入したうえ、若い男が読書する様子を覗いていた事になる。兼好は覗き趣味の不審者だ。
だがもちろん。そんなもんは現代の価値観にすぎない。「見ても減らない」こそが、この国のまっとうな価値観であり、いつ見られても恥ずかしくない格好でいる事ことが素晴らしいのだ。これが、この国の伝統的価値観であったのではなかろうか。「もうすべてがどうでもいいや」というほどには暑さが続かないがゆえに生まれた価値観だ。
もちろん、この段は、兼好の想像の話しである場合もありえる。散歩の途中で、素敵なお屋敷を見つけたんだけど、この屋敷の主はどんな人かなと想像をたくましゅうして書いたのかもしれない。よくわからんというのが本音だ。
原作 兼好法師
現代語訳 protozoa
参考図書
「徒然草」吉澤貞人 中道館
「絵本徒然草」橋本治 河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫