墨汁日記

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徒然草 第四十三段

2005-09-06 19:51:05 | 徒然草
 春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。

<口語訳>
 春の暮つかた(春の暮れる頃・晩春)、のどかに艶なる(えんなる・風情があり美しい)空に、賤しくはない家(立派な造りの家)の、奥深く、木立もの古びて(ものは“もの珍しい”の“もの”。接頭語)、庭に散り萎(しお)れている花(花びら)見過しがたく、さし入りて(“さし”は接頭語。中に入るという意味)見れば、南面(みなみおもて)の格子(しとみとも言う。上に押し上げて開くタイプの戸。つり上げてかけ金で固定しておいた。角材を格子に組んで作り、家の内側になるほうに板を貼ってある。日中は開けたままにしておく事が多い)は皆おろしてさみしげなようなのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)がよい程度にあいている、御簾(みす・すだれのこと)の破れより見れば、かたち清げなる(美しい)男で、年廿(年はたち)ばかりにて、うちとけて(くつろいで)はいるが、心にくく(心引かれる)、のどかなる様子をして、机の上に文(書)をくりひろげて見ている。
 いかなる人であろうか、尋ね聞きたい。

<意訳>
 春が終わる頃かな。
 のどかに豊かな色を含んだ空。そんな空の下に古びたお屋敷があった。屋敷は広く、古木が生い茂っている。庭には桜の花びらが散って萎れている。これは、なんとも見過ごせない雰囲気の屋敷だ。
 屋敷に立ち入ってみると、南側正面の戸は全て閉じられ、人気がない。東側にまわると妻戸が良い具合に開き、部屋には破れた御簾がかけられていた。
 その破れめから見える男がいた。
 年は二十歳ほどの美しい男。くつろぎのどかに本など読んでいる様子さえ心憎い。
 このお屋敷の青年は何者であったのだろう。誰か教えてはくれないか。

<感想>
 あーぁ。またもや、覗き趣味のはなしだ。兼好はストーカーまがいの覗きをするような人間であろうか、いや、あるまいと、肩をもっていたのに、またこりずにこんな話しなんである。
 前に、ある人のつきそいで月見した途中に女の家に立ち寄った時、ある人が帰った後も女の様子を覗いていたと言う兼好に対して、そんな事はあるまいと肩を持って助け舟したのに。まったく兼好は懲りてない様子だ。
 本気で覗きが趣味だったのかもしれない。
 この段を素直に読むなら、兼好は貴族の屋敷に人がいないのを良い事に、無断侵入したうえ、若い男が読書する様子を覗いていた事になる。兼好は覗き趣味の不審者だ。
 だがもちろん。そんなもんは現代の価値観にすぎない。「見ても減らない」こそが、この国のまっとうな価値観であり、いつ見られても恥ずかしくない格好でいる事ことが素晴らしいのだ。これが、この国の伝統的価値観であったのではなかろうか。「もうすべてがどうでもいいや」というほどには暑さが続かないがゆえに生まれた価値観だ。
 もちろん、この段は、兼好の想像の話しである場合もありえる。散歩の途中で、素敵なお屋敷を見つけたんだけど、この屋敷の主はどんな人かなと想像をたくましゅうして書いたのかもしれない。よくわからんというのが本音だ。


















原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫


徒然草 第四十二段

2005-09-06 09:09:31 | 徒然草
 唐橋中将といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。気の上る病ありて、年のやうやう闌くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面のやうに見えけるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
 かかる病もある事にこそありけれ。

<口語訳>
唐橋中将(からはしのちゅうじゃう)という人の子に、行雅僧都(ぎゃうがそうづ・僧都は、坊主の位で、僧正に次ぐ)といって、教相の人(仏教の教理を学ぶ人々)の師(教師・先生)をする僧がいました。気の上る病(のぼせあがる病気)があって、年(年齢)のようよう闌つ程(だんだんとたっていくほど)に、鼻の中ふさがって、息も出にくくなれば、さまざまにつくろい(治療)したけれど、わずらわしくなりて(病気は進行して)、目・眉・額なども腫れまどって、うちおおえ(上から覆いかぶさって)ば、物も見えず、二の舞の面のように見えたが、ただ恐ろしく、鬼の顔になって、目は頂の方につき、額のほどが鼻になりなどして、後は、坊の内の人(寺の中の人)にも見えず(会わず)こもり居り、年久しく(長い年月)居たら、なおわずらわしくなって(病状が重くなり)、死にました。
かかる(こんな)病もある事があるのだ。

<意訳>
 唐橋中将という人の子に、行雅僧都という僧がおりました。
 この人は、仏の教えを学ぶ人達に、教理を教えるほどの偉い坊さんだったが、気の上がる病を患っていた。
 年をとるほどに、この病はだんだんと悪くなり、さまざまな治療もしたが、やがては鼻の中がふさがり、息も満足に出来なくなってしまった。その次に、目、眉、額が腫れ上がり覆いかぶさって目すら開けられない状態となる。その顔は、まるで二の舞の面のようにも見えたが、ついにはただ恐ろしいだけの鬼のような顔に変わり果て、目は頭につき、鼻は額についてしまったそうだ。
 その後、寺の中の誰とも会わずにしばらく引き籠って養生していたが、さらに病が悪化して亡くなられてしまった。
 このような病もあるのである。

<感想>
 怖い。「気の上がる病」って、どんな病気なんだ。高血圧みたいなものなんだろうか。文章から想像するに、のぼせあがる病気であるらしいが、最後には鼻から膿がわきでて、顔中が腫れ上がり、目鼻の位置すらわからなくなった末に、呼吸困難で目も見えないまま死んでしまうのだ。
 怖い、怖いぞ。「気の上がる病」。正体が不明な点がますます怖い。正体がわからないから予防の仕方すらわからない。とりあえず、「気の上がる病」にかかりませんようにと祈るしかない。
 
 
 








原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫