墨汁日記

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つれづれ

2006-03-14 21:24:05 | 新訳 徒然草

 教科書に載るほど『徒然草』は有名だ。
 だが、その成立や、作者の吉田兼好については謎が多い。

 例えば、『徒然草』というタイトルでさえ、誰がつけたのかわからない。
「つれづれなるままに」と始まるから、『徒然草』なのであるが、過去には、「つれづれ種」とか「つれづれ草」、あるいは「津禮々々草」とか「寂莫草」だったりしたらしい。
 いつのまにか、漢字で『徒然草』がタイトルとして定着したが、「徒然」は漢語(中国語)で、中国から輸入された言葉だ。最初は「トゼン」と読まれていたらしい。
 漢語である「徒然」が「つれづれ」と読まれるようになった歴史は古く、いつから「つれづれ」に「徒然」の漢字が当てられるになったのかは定かではない。だが、江戸時代にはすでに「つれつれ草」でなく、「徒然草」が慣用となっていたそうだ。
 また、実を言うと『徒然草』の読みじたいも、「つれつれくさ」だか「つれづれぐさ」だか、実のところ本当は良くわからない。昔の人は濁音を表記しないからね。でも、たぶん「つれづれ」は、「つれづれ」で良いのだ。

 そんな「つれづれ」で有名な、『徒然草』の「序段」であるが、それでは「つれづれ」とはどういう意味だろうか? 「つれづれ」は「連れ連れ」が語源だそうで、長々と続くことを表す言葉だそうである。現代語に置き換えると、「長々と」とか「連続した」とかいった意味に近い。コント55号の次郎さん風に言うなら、「続きます! 続きます!」みたいなかんじだ。

 辞書に「つれづれ」の良い説明を見つけたので引用させていただこう。

「つれづれ【徒然】[名][形動ナリ][副]
 語源は『連れ連れ』で、同じ状態が長く連続することをいうのが原義。変化にとぼしい環境で、単調であることを表す。また、なすこともなく、気の晴れないことや、所在なく、ふさぎこむこと、さらに、孤独で満たされない、寂しい気持ちをもいう。退屈、無聊(ぶりょう)という意と説明されることもあるが、それらの言葉では表しきれない、鬱屈した感情を伴う。漢語「徒然(とぜん)」は、中世において「つれづれ」とも読まれるようになった。

1、手もちぶさたな事。所在ないこと。

2、孤独でもの寂しいこと。ひとり寂しく物思いに沈むこと。

3、つくづく、しみじみ。」

(三省堂『全訳読解 古語辞典』)

 辞書の説明にもあるように、あくまで「つれづれ」の本意は、「長く続く状態」にある。
 その長く続く状態の末に、手持ちぶさただったり退屈だったり、とかいう状況になる時もあるが、そうとばかりも言い切れない。
 だから「つれづれ」を、単純に「手もちぶさた」とか「所在ない」と解釈すると、意味がやや違ってきてしまう。
 ましてや、さらに発展させて「手持ちぶさた」だから「退屈」、「所在ない」から「ひま」なんて解釈すると、「つれづれ」の本意とかけ離れてしまう。

 あえて「つれづれ」を、退屈なことであると解釈するのなら、「ながながと続く、さしてやる事もない毎日」が「退屈で手持ち無沙汰」と解するのが良いだろう。

 「つれづれ」は、長々と同じ事が連続する日々のことである。 
 という事だけは「つれづれ」を理解する為に忘れちゃいけない。

 それでは、『徒然草』の作者の「吉田兼好」は、どういった気分で、どんな日常を送っていて、「つれづれなるままに」と、書き出したのだろうか?

 そんな事は、序段を読んだだけでは分からないので、『徒然草』を続けて読んでみよう。なにか分かるかもしれない。


火曜の朝

2006-03-14 05:59:32 | 携帯から
1時間ほど寝直そうと思ったが、寝つけなかった。携帯を開いて時間を確認すると5時。携帯の液晶パネルの明かりが目に焼き付いた。暗闇の中に四角く黒い残像が浮かぶ。目を閉じれば残像は反転して、まぶたの中に白く四角い像が浮かぶ。

今朝は晴れた。まだ夜明け前の街を駅に向かう。

そういえば、昨日の帰りに丸い月を見た。昨夜は満月だったかな。今朝の空に月を探すが、見当たらない。もう沈んでしまったのだろうか。月を求めているうちに、昨日見た月の残像が空に現れた。


若き兼好

2006-03-14 04:05:10 | 新訳 徒然草

 『徒然草』の作者である「吉田兼好」は、長生きした。
 そして、歌人として認められて活躍したのも晩年であるため、老人のイメージが強い。
 だが、けして生まれついてのジジイではない。

 現在、『徒然草』は、兼好の若い頃から何十年にも渡って書きためていたものを晩年に編集したものであろうと言われている。また、その説によれば『徒然草』の序段から30段ぐらいまでは、かなり若い兼好が書いた物ではないかとも言われる。たしかに、『徒然草』の初期の章段は、かなり若い感覚で書かれている。

 とりあえず、「吉田兼好」は老人というイメージを捨ててみよう。

 縁側で書物をくり広げてる老人なんてイメージは捨てて、薄暗い部屋で、若い情熱をぶつける場所も相手もなく、一人、硯の前に座る孤独な青年をイメージしてみよう。
 そんなのが、『徒然草』を書きはじめた頃の兼好ではないかと思うのだ。

 『徒然草』は、兼好の精神的な成長の物語でもあると、俺は思う。

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徒然草 序段 つれづれ

2006-03-14 03:21:23 | 新訳 徒然草

 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

<口語訳>

 つれづれなままに、一日暮らし、硯にむかって心に移りゆく由ない事を、そこはかとなく書きつければ、怪しく こそ もの狂おしくなる。

<意訳> 

 つれづれなまんま今日を過ごし、硯にむかって、心の中に現れたり消えたりする良いことや悪いことを、なんとなく書いているうちに、怪しいぐらいおかしくなる。

<感想>

 これは、有名な「吉田兼好」作『徒然草』の「序段」である。
 ようするに、この段で吉田兼好こと兼好の言いたい事は、
「ヒマだったので一日じゅう硯の前に座っていました。そんでもって、なんとなく机に向かってなにかを書こうとしているうちに、なんだか怪しいぐらい狂いそうになりました」
 というようなコトだ。

 おそろしく現代的な感覚で兼行は『徒然草』を書きはじめている。
 現代風のシュチエーション及びロケーションに置き換えるなら、こんなかんじだろうか。

<超現代語訳>

 今日もまたつまんない一日を過ごした。
 パソコンのモニターに向かって、心の中のつまらないことを、思いつくままにタイピングしているうちに、自分がわからなくなって、なんだか狂いそう。