教科書に載るほど『徒然草』は有名だ。
だが、その成立や、作者の吉田兼好については謎が多い。
例えば、『徒然草』というタイトルでさえ、誰がつけたのかわからない。
「つれづれなるままに」と始まるから、『徒然草』なのであるが、過去には、「つれづれ種」とか「つれづれ草」、あるいは「津禮々々草」とか「寂莫草」だったりしたらしい。
いつのまにか、漢字で『徒然草』がタイトルとして定着したが、「徒然」は漢語(中国語)で、中国から輸入された言葉だ。最初は「トゼン」と読まれていたらしい。
漢語である「徒然」が「つれづれ」と読まれるようになった歴史は古く、いつから「つれづれ」に「徒然」の漢字が当てられるになったのかは定かではない。だが、江戸時代にはすでに「つれつれ草」でなく、「徒然草」が慣用となっていたそうだ。
また、実を言うと『徒然草』の読みじたいも、「つれつれくさ」だか「つれづれぐさ」だか、実のところ本当は良くわからない。昔の人は濁音を表記しないからね。でも、たぶん「つれづれ」は、「つれづれ」で良いのだ。
そんな「つれづれ」で有名な、『徒然草』の「序段」であるが、それでは「つれづれ」とはどういう意味だろうか? 「つれづれ」は「連れ連れ」が語源だそうで、長々と続くことを表す言葉だそうである。現代語に置き換えると、「長々と」とか「連続した」とかいった意味に近い。コント55号の次郎さん風に言うなら、「続きます! 続きます!」みたいなかんじだ。
辞書に「つれづれ」の良い説明を見つけたので引用させていただこう。
「つれづれ【徒然】[名][形動ナリ][副]
語源は『連れ連れ』で、同じ状態が長く連続することをいうのが原義。変化にとぼしい環境で、単調であることを表す。また、なすこともなく、気の晴れないことや、所在なく、ふさぎこむこと、さらに、孤独で満たされない、寂しい気持ちをもいう。退屈、無聊(ぶりょう)という意と説明されることもあるが、それらの言葉では表しきれない、鬱屈した感情を伴う。漢語「徒然(とぜん)」は、中世において「つれづれ」とも読まれるようになった。
1、手もちぶさたな事。所在ないこと。
2、孤独でもの寂しいこと。ひとり寂しく物思いに沈むこと。
3、つくづく、しみじみ。」
(三省堂『全訳読解 古語辞典』)
辞書の説明にもあるように、あくまで「つれづれ」の本意は、「長く続く状態」にある。
その長く続く状態の末に、手持ちぶさただったり退屈だったり、とかいう状況になる時もあるが、そうとばかりも言い切れない。
だから「つれづれ」を、単純に「手もちぶさた」とか「所在ない」と解釈すると、意味がやや違ってきてしまう。
ましてや、さらに発展させて「手持ちぶさた」だから「退屈」、「所在ない」から「ひま」なんて解釈すると、「つれづれ」の本意とかけ離れてしまう。
あえて「つれづれ」を、退屈なことであると解釈するのなら、「ながながと続く、さしてやる事もない毎日」が「退屈で手持ち無沙汰」と解するのが良いだろう。
「つれづれ」は、長々と同じ事が連続する日々のことである。
という事だけは「つれづれ」を理解する為に忘れちゃいけない。
それでは、『徒然草』の作者の「吉田兼好」は、どういった気分で、どんな日常を送っていて、「つれづれなるままに」と、書き出したのだろうか?
そんな事は、序段を読んだだけでは分からないので、『徒然草』を続けて読んでみよう。なにか分かるかもしれない。