墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

☆おいし占い☆

2006-03-12 22:00:57 | こうさぎ

テレビ運絶好調

 梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、テレビ様に偲ばるべくもなからん人は、ただ、色好まざらんには如かじ。

☆愛のアドバイス☆

 ちわー。いや~と、マダムです。
 今日はお休みで、家で色々ゴロゴロしてたんですが、気がつくとお部屋に食い物も酒もない。こりゃ買い出しだなと、お買い物にでかけます。
 おもてに出たら、強い風が吹き荒れている。かぶっていた帽子も吹き飛びそう。
 でも、暖かい風だ。
 風の吹いてくる方向を確かめると、南からゴーゴーとGOサイン。
 暖かい南風か。

 もうすぐ春ですね。

*これはBlogPetおいしによる今日の占いです。
占い監修:マダムprotozoa


近いうちに

2006-03-12 21:49:06 | 徒然草
 まー。徒然草は終わっちゃったんだけど、近いうちに、<口語訳>と<意訳>をやり直した、『protozoa版 完全版 徒然草』をお送りする予定。つれづれリローテッドみたいなかんじで、リメンバーパールハーバーとつれづれなのだ。

 まぁ、実際、あまりに訳が拙すぎて、自分で嫌なんで書き直したいというのが本音だ。本から吸収したウンチクの数々もご披露したいし。

 ま、そんなで、近いうちに、もしかしたら場所を変えて『徒然草』に再挑戦するかもしれない。


徒然草 第二百四十三段

2006-03-12 21:12:50 | 徒然草

 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教え候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

<口語訳>
 八つになった年、父に問いて言う事、「仏は如何なるものでございますか」と言う。父が言う事、「仏には、人が成ったのである」と。また問う、「人は何として仏には成りましたのか」と。父また、「仏の教によって成るのである」と答えた。また問う、「教えましたその仏を、何が教えました」と。また答える、「それもまた、先の仏の教えによって成られたのである」と。また問う、「その教え始めました、第一の仏は、如何なる仏にございますか」と言う時、父、「空より降ったか。土より湧いたか」と言って笑う。「問い詰められて、答え得なくなりました」と、諸人に語って興じた。

<意訳>
 八つになった年に、父に質問した。

「仏は、いかなるものでございますか?」

 と聞くと、父が言う事には、「仏とは、人が悟りをひらいて成ったものだ」と。

 また問う、

「人はどうして仏に成れたのですか?」

 父また、「仏の教によって成るのである」と答えた。

 また問う、

「その教えた仏を、なにが教えました?」

 また父は答える、「その仏もまた、前の仏の教えによって成られたのだ」と。

 また問う、

「その教えをはじめました第一の仏は、いかなる仏にございますか?」

 と聞けば、父は、「空より降ったか。土より湧いたか」と言って笑った。

「問い詰められて、答えられなくなりましたよ」と、父はみんなに語って面白がっていた。

<感想>
 まず、父は、8才の兼好がした最初の質問にちゃんと答えていない。
 兼好は「仏とは、如何なるものなのですか?」と聞いているのに、父の答えは「仏は、人が(悟りをひらいて)なるものだ」という答え。
 8才の兼好が父に聞いているのは、「仏とはなんなのか?」というもっと根本的な質問なのであるが、父は、仏の前身は人であるとしか答えていない。
 言い換えれば、子供に「ニワトリってなんなの?」と聞かれて、「ニワトリさんは卵から産まれたんだよ」と答えているようなものだ。
 まー、兼好の父も8才の子供に、そんな根本的で深い質問をされるとは思わなかったのだろう。
 その為に、話題はすり替わり、会話の方向はあさってへ行くが、最終的に、父は兼好の質問に答える事が出来なくなる。だが、そんな兼好の小賢しさをも父は許容して愛している。
 この段は、そういったお話だ。

 この段を書いたときの兼好の年齢を正確に推定する事は不能だが、40才をはるかに超えていた事は間違いない。
 兼好は、何十年も昔の、遠い過去を懐かしく思い出している。

 ところで、この段で『徒然草』は終わる。
 なんで、兼好はこの話を『徒然草』の最後に書いたのだろう。

 兼好法師は、父に「仏とは如何なるものか?」なんて、小賢しい質問をするような子供だった。理屈っぽくて可愛くないガキだったのだろう。
 そして、ガキの頃には、吉田神社の一族の、その息子である自分が、異教であるはずの仏教の僧として出家するなんてことは、夢にも思わなかっただろう。だが今、確かに出家して「兼好法師」である自分がここにいる。
 今になって思い出すと、理屈っぽくて小賢しい自分には、以外と「法師」はお似合いだったのかもしれない。
 自分は出家した事を悔やんではいないよ。自分には法師はお似合いだったのさと、兼好は自分の過去を容認して『徒然草』を終わらせている。

 こうして、未完成でぶっちゃけで、適当でいいかげんの書きなぐり、思いつきの鋭さでつれづれとした『徒然草』は幕を閉じる。

原作 兼好法師


徒然草 第二百四十二段

2006-03-12 14:24:03 | 徒然草

 とこしなへに違順に使はるる事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲する所、一つには名なり。名は二種あり。行跡と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味ひなり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒の想より起りて、若干の煩ひあり。求めざらんには如かじ。

<口語訳>
 永久に違順に使われる事は、ひとえに苦楽のためである。楽と言うは、好み愛する事である。これを求めること、止む時ない。楽欲するところ、一つには名である。名は二種ある。行跡と才芸との誉である。二つには色欲、三つには味わいである。万の願い、この三つには及ばない。これ、本末転倒の想いより起こって、若干の煩いある。求めないのには及ばないだろう。

<意訳>
 人が死ぬまで、幸せ、不幸せにこだわる。
 これは、苦しみと楽しみのためだ。

 なぜ楽しいのか?
 楽しい事を、好み愛しているから楽しいのだ。
 楽しさを求める事をやめる事はできない。

 楽しさを求める心は「欲望」である。

 求める欲望は、三つある。

『誉められたい』

『ご飯食べたい』

『気持ちよくなりたい』

 ようするに、心とおなかと体が満たされると、幸せな気分になれる。

 だが、快楽を重視しすぎると、図に乗ったり、お腹をこわしたり、身の破滅だったりして本末転倒する。
 求めないでいられるなら、それがいい。

<感想>
 人間はラジオと同じく、感受装置にすぎないけど、視聴者でもある。
 出来れば楽しい放送ばかりを受信したい。

 だが、楽しいばっかりじゃ、楽 くくく苦ってなもんで、いずれ破綻してしまう。

 楽しくも苦しくもないなら、それで充分じゃん。
 他人の電波が届かないところ、アンテナの一本も立たないところが、実は安住スポットだったりするよと兼好は言っている。

原作 兼好法師


徒然草 第二百四十一段

2006-03-12 12:01:06 | 徒然草

 望月の円かなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様の見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、まだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事も成せず。言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
 所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄信迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、触りなく、所作なくて、心身永く閑かなり。

<口語訳>
 望月の円かな事は、しばらくもとどまらなく、やがて欠ける。心とめない人は、一夜のうちにそれまで変る様子が見えないにあるまいか。病の重さも、とどまる隙なくて、死期すでに近い。されども、まだ病い急ならない、死に赴かない程は、常住平生の念に習って、生の中に多くの事を成した後、閑かに道を修めようと思ううちに、病を受けて死門に臨む時、願い一事も成せてない。言う甲斐なくて、年月の懈怠を悔いて、この度、もし立ち直って命を全うすれば、夜を日に継いで、この事、あの事、怠りなく成したいと願いを起こすけど、やがて重くなれば、我にもなく取り乱して果てる。この類いのみこそあろう。この事、まず、人々、急ぎ心に置くべき。
 願いを成して後、暇あって道に向かおうとすれば、願い尽きるはずない。幻のごとき生の中に、何事をか成せる。すべて、願いみな妄想である。願いこころに来たらば、妄信 迷乱すると知って、一事をも成すべきでない。すぐに万事を放下して道に向う時、障害なく、する事なくて、心身永く閑かである。

<意訳>
 満月の丸さは少しもとどまらなくて、やがて欠ける。
 月に心とめない人には、一夜のうちに満月がそんなにも変わっているのに、見えてないのだろう。

 病いの重さも、とどまる隙なく死期はすぐ。
 けれども、まだ病気も重くなくて死なない程度のうちは、誰しも「ずっと平穏人生」の心だ。

 もっと一杯いろんな事をした後、老後にでも静かに仏道を修めようかなとか思っていると、病いを受けて死に臨む時。

 願いなんか一つも成せてない!

 語るもむなしく、年月の怠惰を悔やみ、

「この度、もし病いが治って命を全うできるなら、昼夜を問わずに、この事、あの事、すべて怠りなく行います!」

 とか願うけど、やがて病気は重くなり、我をなくし取り乱して果てる。
 こんな例ばかりだ。この事をまず人々は急いで心に刻むべき。

 俗世での願いを果たした後に、暇があったら出家したいじゃ、願いが尽きるはずもない。
 幻のごとき人生に、何が成せるか。すべての願いは、みな妄想である。
 願いが心に浮かんだら、それは妄信を生み、心を惑わすものだと知って、なにもするべきでない。
 すぐに全てを放りだして仏道に向えば、なんの障害もなくて、する事もないから、身も心も末永く静かである。

<感想>
 もうすぐ『徒然草』は終わる。兼好は総まとめに入ったようだ。

 この段は、いますぐ俗世を捨てて仏門に入る事をすすめる文章で、今まで何度も『徒然草』の中で繰り返された話であるが、最終まとめとして、また少し論点を変えて切り出している。
 この段では、仏門の僧として、兼好ではなく兼好法師として語っている。

 まぁ、兼好としては、「自讃の事」の238段から、すでに『徒然草』のまとめに入っていたようにも読める。

原作 兼好法師