墨汁日記

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徒然草 第一段 いでや

2006-03-16 21:47:25 | 新訳 徒然草

 いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ。
 御門の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つかたは、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちおし。
 法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀ひじりのいひけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨て人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
 人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生まれつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なく成りぬれば、品くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意なきわざなれ。
 ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、菅絃の道。また、有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかくして拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ。

<口語訳>

 いやぁ、この世に生まれては、願わしくあるべき事こそ多いよ。
 御門の位はとてもかしこく。竹の園生の末葉まで、人間の種でないぞ、やんごとない。一位の人の御有様は更である。ただの貴族も、舎人などいただく身分は、すごいと見える。その子・孫までは、はぶれても、なお輝く。それより低流あたりは、程度につけつつ、時に合い、したり顔であるも、自らはすごいと思うけれど、とても口惜しい。
 法師ばかり羨ましくないものあるまい。「人には木の端のように思われてるよ」 と清少納言が書くのも、まことそのとうりだぞ。勢いまくに、大騒ぎするにつけて、すごいとは見えない。増賀聖の言ったように、名声くるしく、仏の教えに違ってるぞと思える。ひたすらの世捨て人なら、なかなかあるよ望ましいところもあるよな。
 人は、かたち・有様の優れているのこそ、望みであるはずだ。物うち語る、聞きにくくない、愛敬あって、言葉多くないこそ、飽きず向い会いたい。めでたいと思う人の、心劣りさせられる本性見えるのこそ、口惜しくなるはず。身分・かたちこそ生まれつきだろ、心は、どうか、賢きより賢きにも、移せば移らないか。かたち・心ざま良い人も、才なくなれば、身分下る、顔憎げな人にも立ち交じって、かけずり落とされるこそ、本意ない技である。
 ありたい事は、正式学問、漢文、和歌、菅絃の道。また、有職に公事のほう、人の鏡なれるこそすごいはず。手など拙くなく走り書き、声おかしくして拍子とり、おとなしくしながら、下戸ならないこそ、男は良かろう。

<意訳> 

 オギャーとこの世に生まれれば、願い事ばかり多すぎる。

 天皇は畏れ多く、皇族すら並の人間じゃない。
 それにつき従う摂政とか関白だってそれなりにすごい。ただの貴族だって朝廷から護衛の役人とかつけてもらえる身分ならすごいよ。このような身分ある方々の子供や孫まであたりまでは、たとえ落ちぶれようとも、それなりに気品もある。

 だけど、それより下の連中が身分に応じて出世して得意満面。なんて場面も、あるにゃあるけど、それはなんだかかっこ悪い。

 坊主ほど、うらやましくないものはない。
「坊主なんか、木の端みたいに思われてんのよ」なんて清少納言に書きつづられちゃたりするのも当然かもね。
 鐘と木魚叩いて大騒ぎしながら念仏となえてみても、さほどありがたく見えないしな。
 増賀上人の言われるように、坊主の名声や出世なんて、そもそもが仏の教えに背いている。まだ、なにも持たない乞食坊主のほうがなんぼかマシだ。

 人間は、見た目が美しいのが理想だ。
 美しくて、話し方も明瞭で愛敬がある。それでいて無駄な事を言わない人間なら、ぜひお友達になりたい。でも、素敵と思った人が、たまにがっかりするような本性をあらわにしたりすると残念になる。

 身分とか、親の財産とか、容姿なんかは、生まれつきで変えようもないけど、心の中身は変えられるはず。
 心を美しくしようと思えばできるはずだ。

 でも、心も容姿もすごく美しい人が、心も見栄えも悪い、恐ろしげな顔した人たちに取り囲まれてパシリにされているのは見ていてつらい。

 せめて身につけておきたい教養は、本格的な学問。
 漢詩や和歌に楽器の演奏。
 それと、朝廷の役人として、朝廷の諸儀式の知識。
 こんなことで人の手本になれたらすごいもんだ。

 字は下手でなくてサラサラと流れるように。
 声良く拍子をとって、遠慮なんかしつつも下戸じゃない。
 なんてのが、男としての理想だ。

<感想>

 この『徒然草』の作者である「吉田兼好」の生きた時代は鎌倉時代の末期。

 兼好が産まれたのは2度目の元寇の終わったあと。 
 兼好の生きた晩年は、南北朝の争いを経て室町時代へと続く乱世の時代だ。

 兼好や、その当時を生きた人々にとって、鎌倉時代末期は、なんだかんだで、以外や以外に『末世』であった。

 この第1段で、兼好は「いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ」と文章をはじめた。この世に生まれちゃった以上は、当然に望み事が多いよなと言っている。

 まず、天皇とか上級貴族とかいった中央の特権階級でもない、ただの貴族が、それなりの出世で「我が世の春」みたいな顔して偉そうにしているのはみっともないよと兼好は言っている。

 次に、普通の人から見れば、坊主なんか「木の端」だと言う。
 「木の端」が、出世を望むのはあつかましい。望みなんかない乞食坊主の方が、むしろかっこいい。なんの希望も抱かない生き方ってかっこいいんじゃないと言っている。

 その次に、容姿が美しくて、心も美しいのは理想だけど、きれいなだけで頭の中身が空っぽだと、渡る世間の鬼ばかりの下らない連中に押しつぶされて、パシリにされちゃうよと言っている。

 最後に兼行は「手など拙からず走り書き、声をかくして拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ」とむすんでいる。

 ようは、勉強して賢くなろうということだ。
 知恵と教養は生まれつきに「自分」が持っている、家柄とか容姿とかいった、限定された「自分」を超える力を与えてくれるかもと言いたいらしい。

 その上で、字もうまくて、宴会で拍子をうまくとれて、お酒なんか飲めませんというフリしながらも下戸じゃないのが、男として理想である。と、兼好は言っている。 

 ようするに、兼好はこの第一段で、
「この世に望む事は多いが、
 下級貴族が多少の出世でいばるのは馬鹿丸出し。
 坊主が現世で出世しようと願うのは仏の教えにすら背いた大馬鹿野郎。
 見た目と、心根が美しくても内容がない奴は死んで良い馬鹿。
 馬鹿呼ばわりされたくなけりゃ内面を磨け。
 知識や知恵が自分を超える糧となる。
 勉強しよう。
 ついでに字もうまくて、酒が飲めりゃ男として最高!」
 と言いいらしい。

 自分には学問があってイケてる奴という自信がなけりゃここまでは言い切れないし、お前は何様だとも思うが、いっそ清々しく好ましい。

 兼行は、出家する以前は朝廷に使えていたことがあった。
 だが、兼行の身分では出世できるところまで出世したとして、せいぜい中流官僚どまりだ。
 兼行には、朝廷の役人としての自分の人生の行き先が見えちゃったのかもしれない。だから、わずかに羨ましく思いつつも、ささやかな出世を喜ぶ中流貴族をみっともないと感じたのだろう。

 また、そういった世俗の欲望を捨てて出家したはずの法師が、出世とか望むのをみっともないとも感じた。

 そして、容姿や心がきれいなだけじゃ世間につぶされる。頭が良くなきゃ駄目だとも思った。

 ところで、ちなみに、兼行には2人の兄弟がいる。

 1人は「慈遍」という坊主。歴史書を記し、大僧正まで出世した。
 2人めは「兼雄」という貴族。兼好の父のあとを継いで、朝廷の神祇官として、宮中につかえる中流貴族だった。
 こんな2人の兄弟の生き方も、もしかしたら、この段を書かせた一つのきっかけかもしれない。


木曜の朝

2006-03-16 05:59:20 | 携帯から
今朝も晴れた。駅までの道筋で、ビルとビルの間に月を見つけた。最近は、あんな位置に月は出ていたのかと思う。南西の方向は駅に向かって自転車をこいで行くと、進行方向と逆になって目が行きにくい。そんなに低い高さにあるわけではないが、目隠しになるマンションなどの建物も多くて見つけにくい。結局、今朝月を見たのは、その時と、国分寺駅の連絡通路からだけだった。