椿も下手すりゃまだ咲いているのに、梅に桜に花だらけだ。
椿も下手すりゃまだ咲いているのに、梅に桜に花だらけだ。
万にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵の当なきここちぞすべき。
露霜にしほたれて、所さだめずまどひ歩き、親の諌め、世の謗りをつつむに心の暇なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。
<口語訳>
すべてにすごくとも、色好まない男は、ひどくつまらなく、玉のさかずきの底ない心地するはずだぞ。
露霜にしたたれて、所さだめず迷い歩き、親のいましめ、世のそしりを包むのに心の隙なく、あれさこれさに思い乱れ、然るは、独り寝がちに、まどろむ夜ないこそおかしかった。
さりとて、ひたすらたわぶれる方ではないと、女にたやすくなく思われるのこそ、あぁ望むべき技だろう。
<意訳>
どんなに完璧でも、恋愛経験のない奴はつまらない。
言うなれば、せっかく高価な宝石を削ってさかずきを造ったのに、最後に手元が狂って底が抜けちゃったみたいなかんじだ。
夜露に濡れつつ、行き先も定まらないまま一晩中ほっつき歩く。
親の小言や世間の評判なんか受けとめる心の隙もなく、あれやこれやと思い乱れ、独り寝で悶々とするばかりの夜。
そんな夜こそおかしいもんだよ。
しかし、こんなふざけた男でも、思う女に並大抵の男ではなさそうだと思われたなら、まぁそれが望みだよね。
<感想>
兼好は以外に「恋愛至上主義者」なのである。
法師のくせして恋する心は美しいという姿勢を『徒然草』の最後までつらぬき通した。
兼好が「恋愛至上主義者」なんてのは、あまりに『徒然草』の「吉田兼好」のイメージからかけ離れすぎていて、こいつマジかよ、ナニ言ってんだよ、アタマ悪いんじゃねーのと、突っ込みたくなる気分も分かるけど、これは以外に本当だ。
兼好は、『徒然草』のかなり最後の方まで、恋は哀れで美しいと言っている。
兼好の言う「恋」とは相手を恋いこがれること。相手を思いながらも忍ぶ恋こそ美しいと兼好は言う。
まぁ、こんな事は、恋愛依存症ぎみの人にはいくら説明してもわからないだろうけど、恋は異性とイチャイチャする事ではない。
会いたくて会いたくて仕方ないのにどうしても会えない、身悶えする程に相手を求めているのに会う事が出来ない。相手を求めて燃えるように恋焦がれる心。それこそが兼好に言わせりゃ「恋」なのである。
だが、この第3段は「恋心」が主題ではない。
主題は、前段から引き続き、生まれついて持つ「望み」である。
恋する心も、所詮は「望み」であるよなぁ。と、少々納得いかないまま兼好は、この段を結んでいる。
いにしへのひじりの御代の政をも忘れ、民の愁、国のそこなはるるをも知らず、万にきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ九条殿の逝誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせた給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。
<口語訳>
古の聖の時代の政(まつりごと)をも忘れ、民の愁い、国が損なわれるをも知らず、全てに究極の美しさを尽くしてすごいと思い、ところせまい様子してる人こそ、いたって、思うところなく見える。
「衣装かんむりより馬・車にいたるまで、あるにしたがって用いよ。美麗を求める事なくせ」と九条殿の訓戒にもありますぞ。順徳院が、宮中の事など書かれられたのにも、「天皇のお召し物は、おろそかなるをもって良しとする」と こそ あります。
<意訳>
古い時代の聖人が行った善政を忘れて、人心や国の行く末にも知らんぷり。
自分の身の回りだけが優雅なら良いと思い、狭い場所に閉じこもっている施政者は考えが足りなく見える。
「着物に冠、馬や牛車にいたるまで、あるもので間に合わせよ。美しく贅沢な物を求めてはいけない」
と、九条殿の書き残した子孫への家訓書にも書いてありますぞ。
順徳院様が、宮中の事などを書かれた書物にも 、「天皇の着物は、おろそかなぐらいでちょうど良い」と、書かれて御座います。
<感想>
第1段で、人間として生まれちゃった以上は、なんだか「望み」が多いよねと兼好は語った。
この第2段では、人の上に立つ人間が贅沢に気をとられて本業の政(まつりごと)を怠るようじゃ駄目だよと言っている。
ところで、贅沢は素敵だ。
でかいお屋敷に住んで、おしゃれして、おいしい物を食べて、それでいて太らずに毎日を過ごせれば、ほぼ無敵に素敵で最高だ。
でも、なんで人は贅沢をしたいのだろう?
そんな贅沢な生活があると知っているから、それを望むのだ。
知ってしまえば、望むのは人の性である。
コカ・コーラも iPod もクーラーもホッカイロも、それがあると知っているから望む。
知らない物は、いくら金があっても欲しいとは思わない。
ようするに、人は贅沢があると知っているから、贅沢を望むのだ。
『徒然草』、第2段の原文を引用する。
『いにしへのひじりの御代の政をも忘れ、民の愁、国のそこなはるるをも知らず、万にきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人』
これが、第2段で、兼好に「贅沢は駄目だよ」とダメ出しされている人たちである。では、このダメ出しされている『人たち』は具体的に誰のことなのか?
今度は、第1段の原文を引用してみよう。
『御門の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし』
第1段で、こうまで書いて持ち上げた人達こそ、この第2段で批判している相手なのである。
第1段で望ましい事の「究極の極み」のように書いた人達に対して、兼好は、この第2段でダメ出ししている。
天皇、皇族、そして関白などの上流貴族。
それ以外の人間が、『ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔』で、自分で自分をすごいと思っても、このような方々に比べれば少しもすごくないんだよと、第1段でさんざ持ち上げておきながら、この第2段では、無下に批判している。
なんたる前言撤回ぶりだろう!
だが、実は筋は通っている。
ようするに、第1段と第2段で兼好が問題にしているのは、人間が生まれながらに持つ『望み』のことなのである。
人として生まれた以上、全ての人間は、必要以上に『望み』を抱いてしまうと兼好は言っている。
それは身分の上下なんて関係がない。
必要以上の望みは、尊い人も、卑しい人も、同様に持っている人間の根本であると兼好は言いたいのだ。
そんな人間の本性っぽい、欲深い根本をくつがえせるのは、
『まことしき文の道、作文、和歌、菅絃の道』
ようするに、「知性」なんでなかろうかと、とりあえず兼好は言ってみたりしているが、どうなのだろう?