主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるなり。
また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざまし。
<口語訳>
主いる家には、無関係な人、心のままに入って来る事ない。主ない所には、道行く人みだりに立ち入り、狐・梟ようの物も、人気に塞がれねば、ところ得た顔に入り棲み、木霊(こだま)など言う、けしからぬ形も現われるのである。
また、鏡には、色・像ない故に、すべての影来て映る。鏡に色・像ありませば、映るまい。
虚空(からっぽな空間)よく物を容れる。我等が心に念々がほしいままに来て浮ぶも、心というものの無いからだろうか。心に主ありませば、胸の内に、若干の事は入って来れまい。
<意訳>
主人がいる家には、無関係な人が気ままに入って来る事はない。
主人いない家には、道行く人もむやみに立ち入る。
狐やフクロウみたいな動物も、人気がないと、すみかを得た顔して入り棲む。
しまいにゃ木霊なんていう怪しいもんまで現われる。
鏡には、色も模様もないからこそ、すべての影が映る。
鏡に色や模様があれば、なにも映るまい。
虚空はよく物を容れる。
心に浮かぶ思念の数々は気ままに浮かんでは消える。これは心というものが虚空だからであろうか。
心に主人あるなら、胸の内に、若干の事も入って来れないはずだ。
☆愛の感想☆
ちす、どーも。
マダムです。
私にも作風というか、文体みたいなもんがあるんです。
できれば、そういうものは壊したくない。私らしい文体で「私の文章」を書いていきたいと私はノゾノゾと望んでいます。ノゾノゾとノゾです。
これは自負ですが、私の文章の面白さは「はぐらかし」にあると思うんですよ。わざと本題と無関係な方向に話を持って行ってワケわかんないまんまで終了させる。突っ込みようもない、どっちつかずな文章。これが私の文体で芸風なんです。
言うなれば、お茶を濁したような文章が私のスタイルです。
チャッポ、チャッポとお茶を濁した上に結論は遠回しで後回し。最終的には皿回しのあたりまで持って行くのが私の理想です。
お茶を濁す為だったら、どんな苦労も厭いません。むしろ買ってでもお茶を濁す所存なのです。
沸き立ての熱湯でいれたお茶にだって平気で指を突っ込んで、グリングリンとお茶を濁す覚悟があります。
その上で、
「あー、手前の爪のあかが煎じられててうめぇや!」
ぐらいの事を言ってのける魂胆なのです。
(ここまで書いた文章を自分で読み直す)
あーっ。
なんだかやっぱし気真面目でかたくなな私がいる。お茶を濁すという事に必死になりすぎて、自分のスタイルを変える事を怖れている。
そんなで、「ただのprotozoa」から怒られてしまいました。
「真面目にやれ」
と。
真面目に「徒然草」の感想を書いていない私にお怒りのようです。
でも、私は真面目に私のスタイルを貫きたい。
そんなで、そろそろお布団が呼んでいるので退却~ぅ!(byラレコ)
ちゅーわけにもいかなないんで、今夜だけは真面目のマジメでゴマメに煮豆で解説いたします。
兼好さんは、人の心はもともと虚空。ようするに空っぽなんじゃなかろうと言っています。
喜怒哀楽。
そういった感情は自ら心に生まれる物ではないのです。ウジ虫が自然と湧くのではないように、感情は常に対象があってはじめて生まれます。
他人や環境があるからこそ、それに対する快・不快として感情が生まれます。イエスかノー。好きか嫌い。なんにしろ人間の感情の基本は2ビットです。
ただ一人きりでいるなら、自分の体調の異変以外ではなんの感情も湧き上がりません。
感情は、世の中の状況を、自分の心に投射したさいに自分の心に生まれる、好き嫌いの反応にすぎません。
人の心は、単なる受信機である。そう兼好さんは言いたいのです。
人の心は受信機で、発信元が世間です。
そう考えると、価値基準こそが自分であるともいえます。
なんにしろ、自分が信じているほどには、自分なんか確かな物じゃないということです。
原作 兼好法師
意訳 マダムprotozoa