スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
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新庄剛志監督のこと

2024-06-24 01:25:06 | 考えてみたこと
パ・リーグで日本ハムが強い。首位は断トツでソフトバンクであるが、女性問題でもめた山川(前西武)をはじめ、お金に物を言わせて選手をかき集めた印象が強い。日本ハムはあまり恵まれない戦力で2位に食い込んでおり、それでも現役ドラフトで獲得した水谷瞬(前ソフトバンク)が交流戦MVPに輝くなど、選手の使い方が上手い印象である。水谷は前の年までプロ通算0安打の選手だったのだ。抑えの田中正義はソフトバンクでは6年間で通算0セーブだったのが、トレードで加入して昨季25セーブ、今季も既に11セーブ。郡司裕也は中日では鳴かず飛ばずの捕手であったのが、トレードでやってきて三塁手に転向、今やレギュラーをつかもうとしている。生え抜きでは捕手の田宮裕涼が急成長し、我慢に我慢を重ねて使ってきた万波中正は中軸打者に成長した。また起用は実力主義を貫いており、昨年まで中軸だった清宮幸太郎や野村佑希は調子が上がらないと容赦なく2軍に落としている。選手のモチベーションは上がりやすいだろう。また相手の意表を突く「奇策」をしばしば用い、攪乱している。重盗やスクイズなどの作戦をしばしば使い、この辺りは師事した野村克也監督の影響を指摘する声もある。
Wikipedia「新庄剛志」
Wikipedia「水谷瞬」
Wikipedia「田中正義」
Wikipedia「郡司裕也」
Wikipedia「田宮裕涼」
自分は古いファンなので、現役時代の新庄監督も知っている。意外性のあるバッティングと強肩を生かした外野守備で有名な選手であった。新庄監督自身で言っているのが、「俺が1軍定着のきっかけになったのは、オマリーが怪我をしたために、やったこともない三塁手で試合に出て、そこでプロ初本塁打を打ったから」ということで、そこから「努力は一生。本番は一回。チャンスは一瞬」ということを若手選手に繰り返し言っているのだという。彼の選手生活はずっと順風満帆という訳ではなかった。あまり今では着目されなくなったエピソードもいくつか紹介したい。
1)阪神在籍時、まだ若手だったころに藤田平監督時代に「自分にはセンスがないから現役を引退する」と言い出す騒動を起こしている。元々は2軍監督であった藤田に遅刻をとがめられて正座させられたが、その時に足を痛めていたこともあり、「この監督とは野球観が合わない」と思っていたのだという。藤田は今でいう「昭和」な上司であったようで、かなり選手に厳しい態度をとる監督であったようである。
2)1999年、野村克也監督が阪神監督に就任し、数年間指導を受けた。この時に行われたのが「投手挑戦」である。オープン戦までで、実戦で行われることはなかったが、野村監督は「投手の心理を理解させるため」と発言していた。同時に野村監督は新庄を「何を考えているのか分からない」ことから「宇宙人」と評していた(新庄本人はこの名称を不快に思っていたらしい)。
3)2001年からメジャーリーグに挑戦、ニューヨーク・メッツを始めとして数球団に所属した。MLBでの3年間の通算成績は打率.245 で20本塁打、1流と言える成績とは言えなかったが、それでも守備ではファンを沸かせ、またワールドシリーズにも出場している。マイナーリーグへの降格も経験し、メジャー昇格を夢見る若者たちと一緒にプレーしていたりもしている。
4)MLBから2004年に日本ハムに移籍、日本ハムは当時東京から北海道に移転する元年であり、集客に全力を挙げていた。新庄は「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」という2つの目標を掲げ、在籍中に2つとも実現させている。頭にかぶりものをするパフォーマンスや札幌ドームの天井から降りてくるパフォーマンスで有名になった。
- ‐ と書いていると、結局新庄監督もまた、自分自身の体験をもとに若手選手を指導していることが分かる。ただ中日の立浪監督との大きな違いは「現役時代の試行錯誤・チャレンジの数」と「味わった挫折の数」ではないかと思われる。藤田平監督とのいざこざはその後彼なりに咀嚼して、反面教師として今の監督業に生かされている感がある。野村監督は「再生工場」と称して田畑一也、山﨑武司など他球団から放出された選手を活躍させることに長けていたが、その方法論を選手として観察していたのであろう。今や「再生工場」は先の水谷瞬、田中正義、郡司裕也の他にもアリエル・マルティネス(前中日)など日本ハムが一番得意とするところとなった。MLB挑戦の経験も何等かの形で今の監督業に生きているのであろうし、パフォーマンスについては監督になってからも各種行っている。インスタグラムなどの「今風の」コミュニケーションツールを駆使しており、これは新しいものへの好奇心を失わないことの現れと思われる。結局、現役時代からの「試行錯誤の数」が多いことが立浪監督との「引き出しの多さ」の違いになっているのだと思われる。もしも新庄監督が立浪監督のごとく、阪神一筋でスター選手をずっと続けていたら、おそらく今のような監督としての成果は出せていなかったのではないか。自分で経験してみないと見えないものというのは絶対にあるのである。
立浪和義監督のこと
Wikipedia「田畑一也」
Wikipedia「山崎武司」
となってくると、自分もまた同じことに気づく。「これまで味わった挫折の数」「チャレンジの数」が指導に生かされるのだと思うし、新しいものへの好奇心を失わないことも重要なポイントになってくる。好奇心を失わないようにしながら、新しい世代と仕事をして結果を出していかなくてはならぬ。新庄監督にできるのなら自分でもやればできるはず、そう思いたい。また頑張ろう。
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