予想通り?今日も中止となったのでまたまた暇ネタを。
連日,真面目な野球ファンの方々を憤らせるようなネタとなりそうですが・・・。多少毒がある(ような気がする)のでご注意を
表題に上げたとおり,珍しく高校野球について語ってみたいと思います。
ただ最初に言っておくと,私は最近高校野球はテレビではほとんど見ておりません。
小学生のころまでは,甲子園球場の近くに住んでいたこともあり,それこそ毎日アルプススタンドのチケットを買って,朝から晩まで試合を眺めているようなある種熱狂高校野球ファンだったんですが。あのころは,高い金属音を残してラッキーゾーン(古っ)に飛び込んでいく打球の美しさの虜になってました。
なんというか,自分が野球やっているお兄さんよりも年下だったころは,素直に憧れというか,熱っぽさというか,野球に入り込めたんですよ。それが,どうも自分が歳をとるにつれて遠ざかっていくというのは,ひょっとして高校野球にノスタルジアを感じる方々とは真逆なのかもしれません。
高校野球のいいところと言えば,これは一つ間違いないでしょう,まさしく真夏の風物詩。若い子には夢を与え,年寄りには若い頃を思い出させ,全国民(あんまりこういう言い方は好きではないですが)の一体感を醸成し,何かに打ち込むことの素晴らしさを思い出させてくれる,ひたむきなプレーの数々。
なんといってもプロ野球よりも古い歴史を持つ伝統ある競技(あえてスポーツとは書かない)なわけですしね。多くのファンの心をつかむのもある意味当然かと思います。それと、何より、出身校、あるいは出身県に対する愛着をかきたててくれるというのはとても楽しいことです。なんだかんだ言っても、私も昔自分が住んでた県の代表はこっそりと新聞を見て応援してしまいますので
一方で,大人になって,足が遠ざかる原因の大きな一つであり,常々問題やなーと思っているのが,その
過剰なまでの物語消費主義
スポーツに物語を求めるのは決して悪いことではありません。それがあるゆえに単なるプレー1つ1つにもその背景にある思いや努力を想像することができて,何倍にもそのプレーを楽しむことが出来るわけですから。
ただ一方で,その物語作成が,まさしく年中行事のごとく春夏と繰り返され,しかもそのストーリーが常に
朝日新聞とNHK
というメディア界のまさしく二大強者によってつむがれているという事実がどうも,感動を強要されているというか,私にある種の気持ち悪さを感じさせるんですよね・・・。特待生問題でわずかな一端は垣間見えたものの,まだまだ大きな闇に包まれておりますが,結局,主催者たちにとっては,現実の高校生よりも
あるべき高校生の姿(ほんまにあるとは思えんけど)
の方が常に優先するんですよね。毎年のように繰り広げられる過剰なまでの出場辞退騒動は,その最たるものといえるでしょう。正直言って,本人ならともかく,チームのわずかな一人,下手すると同じ高校の全然関係ないヤンキーが喧嘩とかしたらチーム全体に累が及ぶのか,未だに私には全く理解できていません。
そして,もう一つ言っておくと,正直言って一番いかがなものかと思っているのが,その物語消費が,弱冠17,8歳というおよそ成熟した判断能力とは縁遠い位置にある若き高校生の犠牲の上に成り立っているという事実。
もうね,まさしく日本人のガンバリズムを体現したような,限界まで,あるいは限界を超えた戦いを要求することは勘弁してやりませんかね!?
今年こういう記事を書こうと思ったのは,やっぱり菊池君の怪我を押しての投球があったわけなんですが,あれを感動の一言で済ませるのが,高校野球にとって,日本野球にとって,あるいは日本全体にとっていいこととは私にはとても思えないんですよね・・・。
怪我があってもまず隠す,隠せなくなったら痛み止めを打ってまで投げることを(ある種)強要する。本人は選択したと思おうとしてるかもしれませんし,世間も若い彼の選択を美談にしたいところなんでしょうが,発覚した直後ならともかく,背中の激痛が明らかになった決勝戦まで投げさせるなんてほとんど犯罪行為でしょう。といっても監督だけが悪いわけでは有りません。監督も,まさしくそういう雰囲気に飲み込まれた被害者の一人とすら言えるかもしれませんしね(敗退する可能性の高いピッチャーに一瞬とはいえ投げさせたのはなんともいえない「雰囲気」の産物だと思ってます)。
最近は多少試合間隔もあいたものの,それでも夏のくそ暑いさなかに連投・連続出場を強いられる選手たち。その全てが
この一瞬は今しかない
で正当化されるというのはどうもねえ・・・。むしろ我々大人の教えるべきことは
これで終わりではない
ということのような気がするんですが
感動も結構,賞賛も結構。ただ我々の得ている感動は,それこそ怪我で野球そのものを断念することを余儀なくされた若い子たちの多くの血肉の上に成り立っているということは,頭の片隅においておきたいなあとは思っています。そうでないと,きっと何も変わりませんからね・・・。
さてさて,元々なんで我がチームと関係ないこんなネタをあえて拾ったかというと,そのきっかけは,この時期になると当たり前のように繰り返される,特に負けが込んでいるとより激しくなる
高校野球を見習え
というフレーズ。
確かに怠慢プレーを繰り返す(ように見える)選手たちに熱い気持ちを思いだせ!と呼びかける気持ちは分からんでもないんですが,正直お金を稼いで家族も養っているプロ野球選手たちに,こういうことを言うのは筋違いというか失礼では・・・という気持ちがどっかしらぬぐえないんですよね。
少なくとも,私ゃ,18歳の受験の時の気持ちを思い出せ!とか言われたら一瞬で切れるか,へっ?と面食らうかのどちらかしか(つまりまともに受け止める気にならんということで),リアクションが取れないと思ってます。
明日なき戦いに身を投じる高校球児と違って,1年のうち半年は,毎日毎年延々と「お仕事」にいそしむプロ野球選手たち。そこで求められる役割や意識は違って当然と思ってますし,少なくとも私はプロとして大事なことは
結果を出し続けること
この1点に尽きると思ってます。もちろん結果を出せない時には批判を受けるというリスク込みで。その批判の中で,より結果を出すことにつながりやすい全力疾走や真剣な捕球などを怠ることについての意見があってもいいと思ってます。ただ,まあ,思い出すというのは毎年機械的に強いられてやることではなく,それこそ疲れた選手が何年かに一度,ふっとテレビあるいは球場で若い子の姿を見て自発的にやることだと思いますのでね・・・。たまには思い出してほしい選手がいることまでは否定しませんが
最後に書いておきたいのは,ある種異常な雰囲気で行われる高校野球が日本野球の原型を形作っているようでは,いつまで経っても
野球がスポーツになれない
ということです。なんかベースボールVS野球の不毛な論争に代表されるように,野球をスポーツたるベースボールと全く違うものとして考え続けることは,いまひとつ野球の楽しさや可能性を限定してしまっているような気がしてなりません。どうもこのご時勢で未だにスポーツが文部科学省の「教育の一環」としてなされているというのもねえ。
投手は全力で完投を目指し,打者はお作法のようにランナーを進めて,4番の一振りで勝負を決める。ミスをした選手はベンチで説教されて,二度と同じミスをしないように常に戒められる。野球の楽しさって,本当にそういうことなんですかねえというのが,私の素直な疑問です。実際子供の頃の私が一番楽しかったのは,やはり
金属バットの快音
でした。抜けるような青空の下,甲高い音とともに白球がスタンドに吸い込まれていく様。そのパワーや逆転に次ぐ逆転というスリルが実は高校野球の大きな魅力でないかと思っているんですが,まあ楽しみ方は人それぞれということにしておきます。
何はともあれ,物語を楽しむことも大事なことではありますが,若いうちから燃え尽きることを過度に強要しないように,全ての感動の元でもある「人間」というものをもう少し大事にしながら楽しめるといいなあと思う今日この頃です
それではおやすみなさい
最後に押していただければ励みになります
連日,真面目な野球ファンの方々を憤らせるようなネタとなりそうですが・・・。多少毒がある(ような気がする)のでご注意を
表題に上げたとおり,珍しく高校野球について語ってみたいと思います。
ただ最初に言っておくと,私は最近高校野球はテレビではほとんど見ておりません。
小学生のころまでは,甲子園球場の近くに住んでいたこともあり,それこそ毎日アルプススタンドのチケットを買って,朝から晩まで試合を眺めているようなある種熱狂高校野球ファンだったんですが。あのころは,高い金属音を残してラッキーゾーン(古っ)に飛び込んでいく打球の美しさの虜になってました。
なんというか,自分が野球やっているお兄さんよりも年下だったころは,素直に憧れというか,熱っぽさというか,野球に入り込めたんですよ。それが,どうも自分が歳をとるにつれて遠ざかっていくというのは,ひょっとして高校野球にノスタルジアを感じる方々とは真逆なのかもしれません。
高校野球のいいところと言えば,これは一つ間違いないでしょう,まさしく真夏の風物詩。若い子には夢を与え,年寄りには若い頃を思い出させ,全国民(あんまりこういう言い方は好きではないですが)の一体感を醸成し,何かに打ち込むことの素晴らしさを思い出させてくれる,ひたむきなプレーの数々。
なんといってもプロ野球よりも古い歴史を持つ伝統ある競技(あえてスポーツとは書かない)なわけですしね。多くのファンの心をつかむのもある意味当然かと思います。それと、何より、出身校、あるいは出身県に対する愛着をかきたててくれるというのはとても楽しいことです。なんだかんだ言っても、私も昔自分が住んでた県の代表はこっそりと新聞を見て応援してしまいますので
一方で,大人になって,足が遠ざかる原因の大きな一つであり,常々問題やなーと思っているのが,その
過剰なまでの物語消費主義
スポーツに物語を求めるのは決して悪いことではありません。それがあるゆえに単なるプレー1つ1つにもその背景にある思いや努力を想像することができて,何倍にもそのプレーを楽しむことが出来るわけですから。
ただ一方で,その物語作成が,まさしく年中行事のごとく春夏と繰り返され,しかもそのストーリーが常に
朝日新聞とNHK
というメディア界のまさしく二大強者によってつむがれているという事実がどうも,感動を強要されているというか,私にある種の気持ち悪さを感じさせるんですよね・・・。特待生問題でわずかな一端は垣間見えたものの,まだまだ大きな闇に包まれておりますが,結局,主催者たちにとっては,現実の高校生よりも
あるべき高校生の姿(ほんまにあるとは思えんけど)
の方が常に優先するんですよね。毎年のように繰り広げられる過剰なまでの出場辞退騒動は,その最たるものといえるでしょう。正直言って,本人ならともかく,チームのわずかな一人,下手すると同じ高校の全然関係ないヤンキーが喧嘩とかしたらチーム全体に累が及ぶのか,未だに私には全く理解できていません。
そして,もう一つ言っておくと,正直言って一番いかがなものかと思っているのが,その物語消費が,弱冠17,8歳というおよそ成熟した判断能力とは縁遠い位置にある若き高校生の犠牲の上に成り立っているという事実。
もうね,まさしく日本人のガンバリズムを体現したような,限界まで,あるいは限界を超えた戦いを要求することは勘弁してやりませんかね!?
今年こういう記事を書こうと思ったのは,やっぱり菊池君の怪我を押しての投球があったわけなんですが,あれを感動の一言で済ませるのが,高校野球にとって,日本野球にとって,あるいは日本全体にとっていいこととは私にはとても思えないんですよね・・・。
怪我があってもまず隠す,隠せなくなったら痛み止めを打ってまで投げることを(ある種)強要する。本人は選択したと思おうとしてるかもしれませんし,世間も若い彼の選択を美談にしたいところなんでしょうが,発覚した直後ならともかく,背中の激痛が明らかになった決勝戦まで投げさせるなんてほとんど犯罪行為でしょう。といっても監督だけが悪いわけでは有りません。監督も,まさしくそういう雰囲気に飲み込まれた被害者の一人とすら言えるかもしれませんしね(敗退する可能性の高いピッチャーに一瞬とはいえ投げさせたのはなんともいえない「雰囲気」の産物だと思ってます)。
最近は多少試合間隔もあいたものの,それでも夏のくそ暑いさなかに連投・連続出場を強いられる選手たち。その全てが
この一瞬は今しかない
で正当化されるというのはどうもねえ・・・。むしろ我々大人の教えるべきことは
これで終わりではない
ということのような気がするんですが
感動も結構,賞賛も結構。ただ我々の得ている感動は,それこそ怪我で野球そのものを断念することを余儀なくされた若い子たちの多くの血肉の上に成り立っているということは,頭の片隅においておきたいなあとは思っています。そうでないと,きっと何も変わりませんからね・・・。
さてさて,元々なんで我がチームと関係ないこんなネタをあえて拾ったかというと,そのきっかけは,この時期になると当たり前のように繰り返される,特に負けが込んでいるとより激しくなる
高校野球を見習え
というフレーズ。
確かに怠慢プレーを繰り返す(ように見える)選手たちに熱い気持ちを思いだせ!と呼びかける気持ちは分からんでもないんですが,正直お金を稼いで家族も養っているプロ野球選手たちに,こういうことを言うのは筋違いというか失礼では・・・という気持ちがどっかしらぬぐえないんですよね。
少なくとも,私ゃ,18歳の受験の時の気持ちを思い出せ!とか言われたら一瞬で切れるか,へっ?と面食らうかのどちらかしか(つまりまともに受け止める気にならんということで),リアクションが取れないと思ってます。
明日なき戦いに身を投じる高校球児と違って,1年のうち半年は,毎日毎年延々と「お仕事」にいそしむプロ野球選手たち。そこで求められる役割や意識は違って当然と思ってますし,少なくとも私はプロとして大事なことは
結果を出し続けること
この1点に尽きると思ってます。もちろん結果を出せない時には批判を受けるというリスク込みで。その批判の中で,より結果を出すことにつながりやすい全力疾走や真剣な捕球などを怠ることについての意見があってもいいと思ってます。ただ,まあ,思い出すというのは毎年機械的に強いられてやることではなく,それこそ疲れた選手が何年かに一度,ふっとテレビあるいは球場で若い子の姿を見て自発的にやることだと思いますのでね・・・。たまには思い出してほしい選手がいることまでは否定しませんが
最後に書いておきたいのは,ある種異常な雰囲気で行われる高校野球が日本野球の原型を形作っているようでは,いつまで経っても
野球がスポーツになれない
ということです。なんかベースボールVS野球の不毛な論争に代表されるように,野球をスポーツたるベースボールと全く違うものとして考え続けることは,いまひとつ野球の楽しさや可能性を限定してしまっているような気がしてなりません。どうもこのご時勢で未だにスポーツが文部科学省の「教育の一環」としてなされているというのもねえ。
投手は全力で完投を目指し,打者はお作法のようにランナーを進めて,4番の一振りで勝負を決める。ミスをした選手はベンチで説教されて,二度と同じミスをしないように常に戒められる。野球の楽しさって,本当にそういうことなんですかねえというのが,私の素直な疑問です。実際子供の頃の私が一番楽しかったのは,やはり
金属バットの快音
でした。抜けるような青空の下,甲高い音とともに白球がスタンドに吸い込まれていく様。そのパワーや逆転に次ぐ逆転というスリルが実は高校野球の大きな魅力でないかと思っているんですが,まあ楽しみ方は人それぞれということにしておきます。
何はともあれ,物語を楽しむことも大事なことではありますが,若いうちから燃え尽きることを過度に強要しないように,全ての感動の元でもある「人間」というものをもう少し大事にしながら楽しめるといいなあと思う今日この頃です
それではおやすみなさい
最後に押していただければ励みになります