皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

枠を設けることは誰のため

2010-11-02 23:03:53 | アスペルガー症候群
この記事を書くことを、実はすごーく悩みました。
なぜ悩むのか、を考えた時、ワタシ自身としても今なおズーッと悩んでいるからだと思います。

ワタシは、一応『患者』という立場で、定期的に反省部屋にお世話になっている。
が、週1もしくは隔週1時間の対話の本筋は、ワタシが今抱えている物事の解決なり、ワタシ自身が生きていく、ということは脇のほうにおいて、精神医学、心理学、教育関連、児童福祉云々の分野における、ワタシという個人サンプルの思考回路から抽出される情報を、一般論に昇華することが主眼として置かれている。

このことに関して、かれこれ4年以上お世話になっている、ある臨床心理士さんから率直な思いを何年か前に投げかけられた。

「私は数年間あなたと接してきて、あなたが変化してきていることを実感しています。私は嬉しく思うと同時に、その変化は私の力によるものとはどうしても思えません。正直に私はあなたを通して『発達障害者』、『アスペルガー症候群(氏的には“アスペルガータイプ”)』と呼ばれるヒトの思考回路を知りたい。」 と

ワタシは、心の奥底ではやっぱり「ワタシが持つ苦悩なり悩みなりに対する光明となりうる糸口を自分なりに束みたい」と思っている。と同時に「深く関わりたくない」という思いを持っていることも事実である。


精神医療、心理、福祉、教育などの方面では、『発達障害という概念が存在する』ということは、多くのところでは前提条件になっていることを感じる。
どういうところに言っても、大抵『フツウに育った私達(定型)』と『あなた達発達障害者(非定型)』という線引きの元での会話となる。

ワタシはその事に大きな違和感を感じているのだろう、と思う。
『定型』とか『非定型』とかそういう線引きに関して、ワタシ自身が釈然としないモノを抱えていることが大きいのだろう。

それは、ワタシ自身がそう言う概念を認められていなかったり、そういう線引きがあるからこその弊害が少なからずある、と思っている部分があるからなのだろう、と思う。

概念の定義とか、個人がどう解釈してどのように選択していくか、とかの突っこんだ話は、また話が脱線するのでここでは書かないとして、ここからが今日の本題。

現状のワタシのことを置いておいて、「児童、学生、未成年への接し方、支援についての見解」ということをよく尋ねられる。
基本的には「モンダイ行為、行動、言動、所作を起こす未成年に対して、どの様に支援していけばいいか」ということが主眼になっている印象を個人的には受けている。

ワタシがその「モンダイ行為」とか「モンダイ行動」とか諸々が、具体的にどういうことなのかも知らないし、『モンダイ』と取る側が『どうモンダイ』と思っているのか、当事者が『モンダイ』と思っているのか、そういう行為に走る経緯や素因は全く持って知らないが、当事者側が他者から指摘される『モンダイ』の根本を地道に観察し、考え、アドバイス、指摘、橋渡しをする、ということを行っている方は、稀である、と感じる。
職業としての範疇を外れた行為、とかではなく、『職業』、『職域』、『職務権限』などの枠を超えられない大人が非常に多い、という何とも言えない社会情勢も影響しているだろうし、それに対して強く言及することは、ムズカシイ。

ワタシは、大小問わず社会というのは『枠』であると思っている。家庭という空間の中で『枠』。自分が今諸臆しているしている場での『枠』。お隣の『枠』。関連を持つ社会の『枠』。日本という国が保有する『枠』。他の国が形成する『枠』。人種、民族、宗教的『枠』。世界という『枠』。地球という『枠』。


ヒトは自分自身が生涯に渡ってお付き合いをする環境内の『枠』の中に入ることに安心感を覚えるし、入ろうと努力もする。そのこと自体に固執するヒトも居るだろう。その『枠』を容易に共有することが出来るヒトにとっては非常に安定した日常を営めるだろうし、その中での居心地の良さを享受することも可能だろう。



では、その『枠』とかけ離れた位置に存在するヒトにとって、その環境の「枠」に填ることは並大抵ではない。
努力が足りない。適応力がない。協調性がない。仲間の意を汲み取れないetc・・・・・・
そういう風に言われたり、態度で示されたりで、『その場』で孤立する、ということは大いにあるだろう。

それは、一面的には確かにそうである。そしてそういうことで苦い思いをするのはやはり『枠』から外れたヒトになるだろう。そういうことを自分の不徳の致すところ、と受け止めて「合わせに向かう態度を示し続ける」とか、「チームで喜びを分かち合うことが第一」と徹底できるヒトは、もの凄く尊敬できる対象ではあるが、ワタシみたいな半端モノではそういう域には残念ながら到達出来ない。


ではその枠とは何か。
反省部屋での話の中であがるのは、「そういうヒトをどう導くか(支援という言葉になるのですが)」ということに大抵行き着く。
ワタシは言う。
「導こうとする側には、そのヒト個人の信念や理念、考え方のベースに『こうあるべき』というものが往々にして存在する。そしてなにかしらの意図を持って指導をするのでしょう。それ自体に良い悪いはないと思います。」
「ただし、それらを受け取る側の解釈は、ヒトそれぞれであり、そのことは個々に委ねるモノであると思う。」

「社会で生きていくという上で、枠はある程度必要であるが、導く側の『意図という枠』によって、解釈や考え方や感じ方を一つの方向に向けようとすることは、極論としては大人の側の傲慢でもあると思う。」

先人の発言なりから、自分自身勉強し学習していくということは、とても大切なこと。
社会とは唯一個の形態ではない。そのことに気付くことが大切なような気がする。


ジョウシキが身を守ることもあれば、ジョウシキという偏見に縛られることもある。

ワタシ個人は、『我々』という縛りを他者から投げかけられることに、非常に違和感を感じる。
「我々日本人」、「我々○○系」、「我々社員」、「我々男」、「我々家族」、「我々ASD者」、「我々精神疾患者」etc・・・
なぜその枠が必要か? 少なくともワタシにとって、考え方等に関しては『我々ではない』と感じる。


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2 コメント

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Unknown (ぴーまん)
2010-11-03 06:40:34
個があっての枠なのか?
枠があっての個なのか?
枠は誰がどのような根拠により設定しているのか?
枠から外れることを選択することは良くないことなのか?

そういうところに、「?」を感じるときが多々ありますね。特にASDの世界で枠があると吹っ飛びそうになります。

反省部屋で支援のことについて尋ねられるは、苦しいですね。「その前にわたしのことを支援してくださいませ。そのために来ているのですけど…」とわたしなら言ってしまいそう。なので、plutoさんは優しいなぁ、と思いました。

しかし、枠は何のために必要なのでしょうかね…。枠を生かす前に、個を生かすことをしたいなぁ、わたしは。なので、鉄格子の枠ではなく、ゴム製の枠が好きです。
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Unknown (pluto)
2010-11-05 23:28:53
>ぴーまんさん
こんばんは。
なんか、あかん感じが文章にも出てるよなあ、と反省しきりです。

あああ、今ワタシ鉄格子に囲まれた感が満載なんで・・・

自分で息苦しくしてるんだよなあ。
言葉に角があるっていうか、可愛げとか、遊びがないって言うか。

あああ、あしたまた反省部屋だ。
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