皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

言語化できない情報の入力

2009-10-19 22:11:33 | アスペルガー症候群

コミュニケーションの道具としての言語の重要性は、なんとなく分かるような気がするのだが、ヒトはヒジョーに言語化しづらい情報や、言語として今のところ存在しない情報や、言語化すると意味合いがガラッと変わってしまう情報や、そもそも言語に変換できない情報を入力していることなどなど、霊長類ヒト科から徐々に失われつつある能力の一つではないのだろうか、と個人的に妄想している。

ワタシ、ガッチガチの理系おっちゃんなのだが、どうも科学科学しない部分を感じたりなんかする。
極端に走りすぎると、神秘主義とかオカルトとか言われる領域に入っていくのかも知れないが、科学というのは全然万能なものでもなく、ヒトの意識下で形作られた体系の一つでしかないと思っている(こういうこと言うと理系おっちゃんとしてはかなりマズイ場面などがあるのだが。

ワタシ個人の本質を探っていくと、かなりリアリスティックな部類にはいるのだろうが、ワタシの能力が圧倒的に足りないことも相まって、脳みそちゃんでは解明出来ないことが非常に多い。
というか、そもそも脳みそちゃんで解明できる範囲というのは、世の中の極々ほんの一部分のうち、さらに小さな己の意識という世界が切り取った幻想にすぎない、と思うこともある。

書けば書くほど泥沼にハマルかも知れないが、ワタシは自分自身が到底言語化できない情報を日々体内に取り入れているということが、直感的というか本能的というかそういう領域で感知しているなあ、と現時点では思っている。

無意識の領域で感じ取るとでも言うのだろうか。
自我とか感情とか意識とかをそぎ取ったトキ、ワタシの中で何かのスイッチが入った状態になることがあると思っている。
今現在、そのスイッチのON/OFFを意図的に操作することは非常にムズカシイが、総合的に判断すると、どうやらというかやはりというか、拾っている情報の質が他人様と異なることが多いような気がする。

単純に情報の取捨選択が出来づらい、という面ももちろん存在するみたいであるが、それだけでは片づけがたいだろうというのは、解析屋の本能がそう言っていたりする。
ここで比喩的表現で例題を出すと、それこそ言語によって本質が変わってしまうような情報であったりする。

どこぞの業界用語的“共感覚”というものに個人的に興味があり、すこーしづつ自分なりにまとめ上げていたりするのだが、実は現代用語的“共感覚”は過去の霊長類ヒト科にとっては“ふつう”に存在したモノではないか、というのは一つの論説として探りを入れている。

ヒトというのは意外と環境に適応する。環境適応能力というのはイキモノ全体にとって生きていく上で重要なものであり、ヒトはその時代時代の社会風土に応じて適応していく。そこには空間という概念と時間という概念が存在し、ヒト的には生活環境という空間的条件と社会環境という時間的条件によってある程度傾向的に変容する。

しかしそれには当然個体差が存在し、クロックの早いヒトもいればのんびり屋さんもいる。
それどころか、前時代的であったり、時代を先取りしているようなヒト、時間軸を超越するようなヒトも存在する。
急速な社会的変容に対してヒトの変容がついていけない、という事態も当然想定される。
大原則に戻ると、ヒトは必ずしも一般的社会変容に適応しなければならない、というわけではないということ。そのことはある面では不具合を生じたりするのかも知れないが、それによって知らないうちに失っているものも存在すると思う。

ワタシはどちらかというと、前時代的な感覚を持ったヒトであると個人的には思っている。今現在の社会にはついて行けていない、というかついていく気もヒジョーに希薄だったりする。
もっともっと深く探っていく必要を感じているのだが、今の多くのヒトは言語や科学的要素に頼りすぎるがあまり、気付いていないというか消え去ってしまった能力みたいなものが存在するのではないだろうか、と思う。
それが良い悪いとは言わないし、ワタシに特殊な何かがあると主張するつもりもないし、現にワタシは結構浮いた存在であることは事実なのだが、ワタシは自分自身を無理をしてまで変える必要の無い部分が意外と多いのではないかと妄想していたりする。

ここでそれらを言語化するには、ワタシ自身にまだまだ能力が足りないので下手に書くことは出来ないが、そういう部分を大切にしていきたいと思っている。
このカテゴリの領域に暮らすヒトビトと接する機会が多くなるにつれ、そのような考え方というより感じ方の面で大きく共振するようなことが増えたのは事実である。これはワタシの中の閉じた系での出来事で、開いた世界の全てに通用するモノではないだろうが、その閉じた世界を有するヒト共通の開いた世界なるものが存在するだろうな、と思う。

自己の生活領域に適応しようと言う方向に力を注ごうとするがあまり、そういう部分を削いでしまうのは、ワタシ個人としては勿体ないとさえ思える何か。

もしそれを何らかの形で表現することができれば、人生というものの可能性は大幅に広がると思う。



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2 コメント

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Unknown (はるぼん)
2009-10-22 18:18:08
言語でものを考えるかどうか・・・?
多くの人は言語で思考するらしいですね。

言語外のもので思考する・・・
取り入れる・・・
感じる・・・

一日の内、できるだけ意識して言語から離れてみる時間をとるのも、なんかね、身体にいいような気がするんですよ。。。

心に余裕ができるというか、表現できないけど、別の扉が開くと言うか・・・
キャパが広がると言うか(ああ全然違うな)
・・・
書けませんわ。

最近は金木犀の香りが扉を開いてくれます。
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Unknown (pluto)
2009-10-25 20:10:17
>はるぼんさん
こんばんは。
硬い文章で書いてるのにコメントありがとうございます。

どう表現したらいいのか未だに悩んでるんですが、風の匂いとか、大地の鼓動とか、空の声とか、そういうのを感じる時間を日常生活に取り入れるのって、色んな方面に良いんじゃないかなぁて思ってます。

金木犀、いいですねー。扉開きますねー。
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