今日、バイトでレジを打っていると、商品を買った人が、
「レシートを下さい」と言う。
「レシートはさっき渡しましたよ」
「もっと下さい」
「……じゃあ、領収書はいかがですか?」
「ハンコの付いてるのはいらない」
「んー、でも、押してしまいましたしー」
「じゃあ、外にあるヤツを下さい」
……外? 外に領収書なんかないのだが。。
よく見れば、その人、話し方、目つき、振る舞いが少し変である。
分からないし、忙しいので、
「外に領収書なんかありませんよ」「外の領収書って何ですか?」とは言わず、
「すみません、外のはお渡しするわけにはいかないんですよ」
「そうなの?」
「はい。私ではお渡しできないのです」
「ああ、そうか。じゃあ仕方ないね。ありがと」
「はい。申し訳有りませんでした。またのお越しをお待ちしております」
と言って、帰した。
お互い考えていることはまったく分からず、不思議な会話であるが、
内容について考えず表面のやり取りだけを聞けば、かみ合ってはいる。
「精神異常」というのは、いわゆる「正常」に対して異なるというだけであり、
本人の中では論理が成り立っており、ただ、その論理が他人に理解できないというだけなのだと思う。
それは、我々が夢の中で、奇怪なできごとを経験しても、それを必然として受け止め、
さらに必然の論理の中で奇怪な行動を取るのと同じである。
しかし、ここで考えなければならないのは、
「正常」な人同士でも、果たしてその思考の論理は同じと言えるのであろうか。
相手の頭の中を覗き見ることができない以上、お互いの知覚・認識・思考を取り出して対照することはできず、
「同じ」であることの証明は不可能である。
ただ、行動や言葉といった表象によって帰納する他無い。
その際、上に挙げた会話のように、表面上ではかみ合っていても、
心の中では全く理解しあっていないということもありえる。
今回は私が「外にレシートはない」という認識を対照させ、
「相手と自分の事実認識の論理にずれがある」ということを意識し、
相手をいわゆる「異常者」として扱った。
しかし、事実認識の論理のずれが著しく意識されず、
お互いに会話も行動も終始かみあっていれば、
自然に相手を「正常」と見なすのであるが、
果たして、本当に相手が「異常」でないと言えるのだろうか。
あるいは、自分が「異常」でないと言えるのであろうか。
「正常」という観念すら危うくなってきたが、
こんなことを考える私は、「異常」であろう。
私自身、表向きはいたって当たり前の振る舞いをしながら、
頭の中ではかなり異常な思考をしているのではないかと最近思う。
「レシートを下さい」と言う。
「レシートはさっき渡しましたよ」
「もっと下さい」
「……じゃあ、領収書はいかがですか?」
「ハンコの付いてるのはいらない」
「んー、でも、押してしまいましたしー」
「じゃあ、外にあるヤツを下さい」
……外? 外に領収書なんかないのだが。。
よく見れば、その人、話し方、目つき、振る舞いが少し変である。
分からないし、忙しいので、
「外に領収書なんかありませんよ」「外の領収書って何ですか?」とは言わず、
「すみません、外のはお渡しするわけにはいかないんですよ」
「そうなの?」
「はい。私ではお渡しできないのです」
「ああ、そうか。じゃあ仕方ないね。ありがと」
「はい。申し訳有りませんでした。またのお越しをお待ちしております」
と言って、帰した。
お互い考えていることはまったく分からず、不思議な会話であるが、
内容について考えず表面のやり取りだけを聞けば、かみ合ってはいる。
「精神異常」というのは、いわゆる「正常」に対して異なるというだけであり、
本人の中では論理が成り立っており、ただ、その論理が他人に理解できないというだけなのだと思う。
それは、我々が夢の中で、奇怪なできごとを経験しても、それを必然として受け止め、
さらに必然の論理の中で奇怪な行動を取るのと同じである。
しかし、ここで考えなければならないのは、
「正常」な人同士でも、果たしてその思考の論理は同じと言えるのであろうか。
相手の頭の中を覗き見ることができない以上、お互いの知覚・認識・思考を取り出して対照することはできず、
「同じ」であることの証明は不可能である。
ただ、行動や言葉といった表象によって帰納する他無い。
その際、上に挙げた会話のように、表面上ではかみ合っていても、
心の中では全く理解しあっていないということもありえる。
今回は私が「外にレシートはない」という認識を対照させ、
「相手と自分の事実認識の論理にずれがある」ということを意識し、
相手をいわゆる「異常者」として扱った。
しかし、事実認識の論理のずれが著しく意識されず、
お互いに会話も行動も終始かみあっていれば、
自然に相手を「正常」と見なすのであるが、
果たして、本当に相手が「異常」でないと言えるのだろうか。
あるいは、自分が「異常」でないと言えるのであろうか。
「正常」という観念すら危うくなってきたが、
こんなことを考える私は、「異常」であろう。
私自身、表向きはいたって当たり前の振る舞いをしながら、
頭の中ではかなり異常な思考をしているのではないかと最近思う。
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