道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

二酸化炭素排出月間

2007-11-30 14:41:49 | 街中
昨日、渋谷の道玄坂で撮った写真である。
ご覧のように、すでにクリスマス向けの電飾が灯っている。

東京のクリスマス商戦は極めて早い。
多くのデパートでは、11月前半に既に飾りつけが始まっている。
そして、街中でも、11月末には電飾が灯る。
今年の待降節の開始は12月2日なのだから、
11月29日に電飾の点灯を行う渋谷は、
キリスト教諸国よりも、クリスマスの灯りを点ける時期は早いわけである。

友人曰く、
「日本ではサンクスギビングをやらないから、
 ハロウィンが終わると、すぐにクリスマスになっちゃう」と。
なるほど、然り。

「超暴君ハバネロ」

2007-11-27 23:31:33 | その他雑記
先日は「大魔王ジョロキア」を食べたが、今回は「超暴君ハバネロ」を食す。
例によって例の如く、そこまで激辛というほどでもない。
まぁ、あんまり辛くすると、事故が起きた時に大変なのだから、仕方がない。
蒟蒻ゼリーが問題になる今日に於いて、消費者側の自己管理がしっかりしていない以上、メーカーの方が、余計なことをして問題を起こさないようにしなければならない。
無難に、無難に、の御時世なのである。

ところで、「暴君ハバネロ」の辛さが足りない、というのはかなりの指摘があるようで、公式ブログでは、島とうがらしをかけるという食べ方も紹介されている
――なるほど、自己責任でどんどん辛くすれば良いのである。

オルガニスト・ラプソディー

2007-11-20 22:43:05 | 音楽
オルガンは神秘性をもって語られることがあるのだが、
しばしば、オルガニストの側から、いとも軽々と、そのイメージを台無しにしてくれる。
以下は先日の演奏会の懇親会で聞いた話である:

ヨーロッパでは、教会での演奏に、カジュアルな服装で来る奏者も多いらしい。
なぜなら、演奏者はパイプの陰になって、客席からは姿を見られないからである。
だから、Tシャツであろうとジーパンであろうと、音さえ良ければ一向に構わない。
――なるほど、道理である。

しかし、それに留まらず、暑いし、足が動きにくいし、と言って、
演奏台に座った途端に、服を脱ぐオルガニストもいるとか。
フランスの某有名な大聖堂では、カメラで奏者の様子をスクリーンに映すのだが、奏者がそれを知らずにズボンを脱ぎ始め、関係者が慌てて止めたという話、
ある教会で、上半身裸で演奏していたのを神父に目撃され、出入り禁止をくらったオルガニストの話、
そんな奇談も多いという。

荘厳なパイプオルガンの中で、幻想的な音楽を奏でるオルガニスト、
それがズボンを穿いていなかったり、上半身裸だったりする、
そう思えば、幻滅したり憤慨したりする人と、人間の面白さを感じる人がいると思われるが、
ちなみに、私は後者である。

天の声、海の波

2007-11-19 14:34:11 | 音楽
一台のパイプオルガンには数多くの音の種類があり、そのうちのどの音を鳴らすかは、「ストップ」という装置を動かすことで決定する。
一種類だけで鳴らしてその音色をシンプルに味わうも良し、多くの音色を同時に出して重厚に迫るも良し、
ストップの組み合わせをいろいろ試すのは、オルガニストの楽しみである。


オルガンの中には、"Vox Celeste"、"Unda Maris"という音色を持つものがある。
これは、その他の音とほんの少しだけ音程をずらすことで、弾いた時に唸りを生じさせるというものである。
他のパイプとピッチがきっちりあっては意味がないし、ずれ過ぎても気持ち悪い音になったり音が乖離してしまったりする。
このように調律に細心の注意を要するのだが、
うまくいくと、合唱のような美しい響きがする。

そして、音色だけでなく、名前の響きも素晴らしい。
他のパイプより音程が少しだけ高いのが"Vox Celeste(天の声)"、
他のパイプより音程が少しだけ低いのが"Unda Maris(海の波)"、
何とも幻想的で、素敵な命名である。

しかし、思うに、
音程の不一致によって合唱が再現できる、というのは、
なかなか皮肉なアイデアでもある。

「流れよ、我が涙」

2007-11-18 21:17:50 | 音楽
ジョン・ダウランド(John Dowland, 1563-1626)には、「私の女が泣いている」(”I Saw My Lady Weep”)、「乞い求めるべきか?」(”Shall I Sue?”)、「カエルのガリヤード」(The Frog Galliard)など、数多くの優れた作品があるが、その中でも最も人気があるのがリュート独奏曲「涙のパヴァーヌ」(Pavan Lachrimae)であろう。
曲調は素朴で冗長、何ともいえない物悲しさが漂う。
この曲はダウランドの生前からヨーロッパ中に知られていたらしく、また、本人も気に入っていたためか、芳名帳に”Jo.dolande de Lachrimae(ラクリメのダウランド)”と書くこともあった。

「涙のパヴァーヌ」をダウランド自身が編曲して、詞を付けたものが、
「流れよ、我が涙」(”Flow My Tears”)である。
その歌詞は、はっきり言って、暗い。ネクラ。
甘美なまでに絶望的である。

これほどの曲と歌詞を作るダウランドというのはどんな人物であろうかと言えば、性格は明るく、朗らかであった、というのが周囲の評である。
人付き合いの良さという外面の明るさは、創作の根源となる内面の暗さの反映、とも言えるが、あるいは内面が明るいからこそ、悲劇をより暗く映し出せたのかもしれない。
ほぼ同じ時期のイギリスに生きた、シェークスピアと比較して考えてみるべきであろうか。

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Flow my tears fall from your springs,
Exil’d for ever: let me moum
Where night’s black bird her sad infamy sings,
There let me live forlorn.

Down vain lights shine you no more,
No nights are dark enough for those,
That in despair their last fortunes deplore,
Light doth but shame disclose.

Never may my woes be relieved,
Since pity is fled,
And tears, and sighs, and groans my weary days,
Of all joys have deprived.

From the highest spire of contentment,
My fortune is thrown,
And fear, and grief, and pain for my deserts,
Are my hopes since hope is gone.

Hark you shadows that in darkness dwell,
Learn to contemn light,
Happy, happy they that in hell,
Feel not the world’s despite.


流れよ、我が涙 泉より
永遠に追放され、私は嘆きに沈む
夜の黒い鳥が、悲しい辱めを歌うところで
私はひとりぼっちになっている

失せよ、むなしい光よ もう輝くな
夜の闇は、深すぎることはない
絶望の内に、末期の運命を嘆く者には
光はただ辱めを暴くだけなのだ

我が悲しみは、決して癒されはしない
なぜなら、憐れみは消え失せ
涙と、ため息と、呻きにより 私の疎ましい日々は
あらゆる喜びを失ってしまったのだから

幸せの最高の絶頂から
我が運命は転げ落ち
恐れと、嘆きと、苦痛が 私の不毛な日々にて
望みが消え失せた後は、我が望みとなる

聞け、暗闇に住む影たちよ
光を軽蔑するがよい
幸いなるかな、幸いなるかな 地獄に在りて
この世の侮蔑を、感ずることなかれ

「大魔王ジョロキア」

2007-11-14 11:50:18 | その他雑記
世界一辛い唐辛子、と言えばかつてはハバネロであったのだが、
最近、ギネスブックには「バフット・ジョロキア」なるインドの唐辛子が、新たに世界一辛い唐辛子に認定されたという。

ということで、東ハトの「暴君ハバネロ」シリーズには、
早速「大魔王ジョロキア」が登場し、
更に負けずに「超暴君ハバネロ」が出たとか。

悪の道も大変である。


そこで、まずは、ジョロキアから試食。
一袋買って、食す。
すぐに食べ終わる。
水も飲まなかった。
……あれれ、大したことないぞ。

袋の裏を見て納得。
「ジョロキアペースト」は原材料の中のほんのごくわずか、
辛味のほとんどは、普通のチリペーストで出しているようである。
コストを考えれば当然といえば当然のことであるが、
少しがっかり。

おくび

2007-11-08 00:59:43 | 言葉
「"おくびにも出さない"の"おくび"って何?」
と訊かれ、辞書を引いてみると、
「げっぷのこと」
と出ていた。

なるほど、げっぷにも出ないほど、まったくその気配を感じさせない、ということだったのか。


しかし、驚いたのは、「おくび」の漢字が、
「噯」と書くことである。
「口」に「愛」である。
「口」から「愛」が出ると「噯」、
これすなわち、げっぷ。

――口より出づる愛の言葉とは、げっぷ、なのである。

「亡国の都」

2007-11-07 01:07:23 | 精神文化
先日の日記で、「南京重慶成都」という句を紹介したが、
芸術度の高いアクロバティックな対聯にも関わらず、その後の国共内戦での国民党の敗北により、1949年には北京を首都とする中華人民共和国が成立し、わずか4年で遷都となった。

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思うに、南京はついていない。
三国時代の呉以来、南京に都を置く政権は数多かったが、いずれも振るわなかった。

呉は北方の魏に押され続けたし、東晋・宋・斉・梁は中原を異民族から奪回できず、陳代には隋に滅ぼされた。

まともに全土を統一していた政権といえば、洪武帝が元を追い出して建てた明であるが、その次の建文帝は、即位後まもなく北から攻めて来た永楽帝によって打ち負かされ、永楽帝は北京に遷都。南京を首都としていたのは30年余りに過ぎなかった。明朝の残骸、南明は、清からの圧迫を逃れて南京を首都として成立したが、一年で南京から撤退。

次に南京を首都とした国と言えば、太平天国であるが、これは論外。

1912年、辛亥革命を成功させ、希望に燃えた孫文たちが南京を首都として中華民国成立を宣言するが、北京に居座る袁世凱と、後の軍閥時代で台無し。
それでも後に、蒋介石が北伐でかなりの国土を南京政府の下に収めたが、共産党の抵抗・満州事変で統一までには行かず。
1937年には日本軍に占領され、大虐殺。

そして、1945年にようやく政権が帰って来たと思いきや、1949年に北京遷都。

南京を称して「亡国之都」と言う人もいるが、まぁ、その通りである。

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何故これほど、南京を首都とした政権はことごとく失敗するのか。
人口密度、面積、交通の便、などなど様々な理由が考えられるが、ある説に曰く、
「南京は、とっても居心地が良いから、満足してしまう」
から、とか。
悠々自適に満足してしまうから、北方の厳しい気候に鍛えられた、ハングリー精神剥き出しの勢力に負け、全土を支配するに至らないとか。

なるほど、「江南好」である。

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ところで、上で、安易に「1949年に北京遷都」と書いてしまったが、解釈によっては、南京は、今でも或る国の首都である。
――それは、「中華民国」である。

国共内戦に敗れた国民党は、台湾に逃れ、台北に本拠を置いたが、
そこで、
台北を「臨時政府所在地」とし、南京を「首都」とする「中華民国」
を存続させたのである。
すなわち、南京を実効支配していないのにも関わらず、台湾政府の首都は南京、なのである。

南京は今も首都なのである!
国都南京、健在なり!!
――と言えないこともないが、言ったところで、あまり威張れない。

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思うに、南京は、首都は向いていない。
江南の一有力都市として、優雅に振舞っていてこそ、その魅力が活きるというものであろう。
そして、ほんの少しだけ、「かつての都」というスパイスがあれば良いのだと思う。

――朱雀橋辺野草花、烏衣巷口夕陽斜。

南京の小道を、今日も夕日が照らすのである。

対得很好!

2007-11-02 21:15:28 | 言葉
1945年、日本は連合軍に無条件降伏した。
中国はこの戦争で首都南京を失い、重慶に遷都して徹底抗戦していたのだが、
その苦労がついに実り、中国政府は再び首都南京に帰還した。

その時に掲げられたのが、
「中国捷克日本(中国、日本に快勝せり)」
という対聯。
「中国」「日本」は勿論国名だが、「快勝」の意味で用いられている「捷克」も、
実はよく見ると国名(チェコ)なのである。

さて、対聯というのは、二句で一つの作品なのだが、
これは一句しか掲げられておらず、不完全である。
「さぁ、これとうまく釣り合う二句目を書いてみろ」
というわけなのだ。
国名のみでちゃんとした文章を書いた一句目に、
同じように対句となる二句目を合わせるのは至難の業に思われた。

しかし、ある人がおもむろに、二句目を書いた。
「南京重慶成都(南京、都と成れるを再び祝う)」
「南京」「重慶」「成都」という三つの都市名が登場し、
見事に対を為した。


「中国捷克日本、南京重慶成都」
――対得很好!