バッハのフーガやパッサカリアを弾いていると、よく思う。
自分は単純な人間なのではなかろうか、と。
一つの旋律が繰り返し登場する、
あるいは同じ低音がひたすら繰り返される、
私の好きな曲は、大抵、繰り返しがある。
そして、繰り返されるのは、シンプルな旋律である。
自分が弾く曲に限らない。聴く曲も、同様。
例えば、陳腐な例だが、パッヘルベルのカノン。
カノンだから、3本の主旋律が追いかけっこをするのは当然だが、
伴奏も、2小節ごとに同じ組み合わせを繰り返す。
また、マラン・マレーなんかは分かりやすい。
彼の場合、「パッサカリア」よりも「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」の方が、露骨に繰り返しの連続。
人間の嗜好というのは、ある程度は、繰り返しによって形成される部分があるのではないかと思う。
あまりに単調に繰り返し過ぎたらうんざりするし、
そもそもつまらないものは、わずかでも繰り返されるとうんざりする。
2年前、nanacoカード導入当初のセブンイレブンでバイトしていて、
一日中「ナナコで買お買おセブンイレブン」の宣伝をエンドレスで聞いていたら、
気が変になるかと思った。
しかし、良い繰り返しというのは、非常に効果的。
何度も何度も聴くうちに、味わいが出てくる。
そして、それだけでなく、
繰り返しを聴き続けることによって、
頭の中で自動的にその旋律が再生され、
自らが音楽の一部になるかのように思えてくる。
恐らく、聴き手の脳内再生機能をうまく使ったのが、
バッハの「シャコンヌ」ではないかと思う。
本当は、途中で繰り返しの旋律が抜けている部分があるが、
それを聴き手の脳内再生が補って、
シャコンヌという形式を完成させている。
ブゾーニのピアノ編曲版は、
実音を補って、楽譜上で完全なシャコンヌ形式にしているが、
それによって、却ってバッハの趣向を損ねているのではないか、
という話を聞いたことがある。
となると、やはり、単純な形式美だけではない何かが、繰り返しにあるような気がする。
自分は単純な人間なのではなかろうか、と。
一つの旋律が繰り返し登場する、
あるいは同じ低音がひたすら繰り返される、
私の好きな曲は、大抵、繰り返しがある。
そして、繰り返されるのは、シンプルな旋律である。
自分が弾く曲に限らない。聴く曲も、同様。
例えば、陳腐な例だが、パッヘルベルのカノン。
カノンだから、3本の主旋律が追いかけっこをするのは当然だが、
伴奏も、2小節ごとに同じ組み合わせを繰り返す。
また、マラン・マレーなんかは分かりやすい。
彼の場合、「パッサカリア」よりも「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」の方が、露骨に繰り返しの連続。
人間の嗜好というのは、ある程度は、繰り返しによって形成される部分があるのではないかと思う。
あまりに単調に繰り返し過ぎたらうんざりするし、
そもそもつまらないものは、わずかでも繰り返されるとうんざりする。
2年前、nanacoカード導入当初のセブンイレブンでバイトしていて、
一日中「ナナコで買お買おセブンイレブン」の宣伝をエンドレスで聞いていたら、
気が変になるかと思った。
しかし、良い繰り返しというのは、非常に効果的。
何度も何度も聴くうちに、味わいが出てくる。
そして、それだけでなく、
繰り返しを聴き続けることによって、
頭の中で自動的にその旋律が再生され、
自らが音楽の一部になるかのように思えてくる。
恐らく、聴き手の脳内再生機能をうまく使ったのが、
バッハの「シャコンヌ」ではないかと思う。
本当は、途中で繰り返しの旋律が抜けている部分があるが、
それを聴き手の脳内再生が補って、
シャコンヌという形式を完成させている。
ブゾーニのピアノ編曲版は、
実音を補って、楽譜上で完全なシャコンヌ形式にしているが、
それによって、却ってバッハの趣向を損ねているのではないか、
という話を聞いたことがある。
となると、やはり、単純な形式美だけではない何かが、繰り返しにあるような気がする。