道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

夏は夕暮れ

2007-07-16 16:30:47 | 精神文化
――夏は夜。
ご存知、清少納言女史の名文句である。続いて、月に蛍に雨まで、夏の夜を演出するものを挙げている。
現代でも、花火に怪談に盆踊り、夏の風物詩と言えばやはり夜のものが多い。
今も昔も、夏は夜、なのである。

私も夏の夜は好きである。
昼間のような照りつける暑さはないが、じわじわとうだるような暑さ。
暗闇がエネルギーを持ってゆらゆらと揺れ、異界との境が曖昧になる。何か異形のものが物陰で跋扈していそうな気配がする。
そんな危うい雰囲気の中で、外を出歩く気分というのは、実に楽しい。わくわくして来て、いくらでも歩けそうである。

しかし、夏の夕暮れというのも、夜とはまた違った良さがある。
何やら美しく、寂しげで、人をして感傷的な気分にさせる。
それは「秋は夕暮れ」と同じものかもしれないが、少しだけ違う。
頭の中に漠然としたイメージはあるのだが、言葉にしがたいものである。

思うにそれは、幼い時の原体験ではないだろうか。
夏休み、一日中外で遊びまわった後、日が落ちて、まもなく家に帰らなければならない時。
今日もまた一日が終わり、楽しい夏の終わりが近づいて来ることを実感する時。
あるいは、子ども心に、いつか今の友人たちと遊び回る日々も終わるということを思う時。
そんな時に見るのが、夕暮れであった。
何かの終わりが刻々とせまる、その寂しさが、夕暮れに伴う原体験として記憶に残り、今でも私を感傷的な気分にさせるのではないだろうか。

平安時代に夏休みはなかっただろうし、貴族の子女は外で一日中遊び回ることもなかったであろう。
清少納言には、この寂しさは分からない。

「国民の皆様に誤解を与えたことを反省し……」

2007-07-10 00:15:39 | 政事
ほぼ一週間前、久間氏が辞任した。
辞任の理由は、アメリカによる広島・長崎への原爆使用について「しょうがない」と発言し、「国民の皆様に誤解を与え」たためという。

そういえば、柳沢氏の「産む機械」発言も、やはり、「不適切な表現」によって「誤解を与えた」というような説明がなされていた気がする。

「誤解を与えた」のならば、
何故自分の本意をきっちり説明しないのか、
正々堂々国民の「誤解」を解いたらどうなのか、
我々をしてこのように思わせることは多い。
しかし、彼らが「誤解を与えたことを反省」したのみで済ませてしまうのは、そういった「失言」を問題化する意識構造の問題でもあると思う。


この手の「失言」が問題になる際、通常、発言の文脈や全体的な主旨は無視されて、ある部分のみが取り上げられる。
何故なら、不適切なのはその「失言」だけであり、彼らの言おうとした本旨ではないからである。
しかし、ある表現の意図というのは、文脈と論旨によって捉えられるべきであり、
仮に文脈や論旨から切り離して、それだけを取り出せば、180度異なる解釈も可能である。
それなのに、彼らの「失言」は、「失言」の箇所だけが取り出され、問題化する。

それは何故か。
思うにそれは、「失言」が問題となるのは、その文意ではなく、その表現が社会的な禁止コードに引っかかるからではないだろうか。
文意に関わらず、言ってはいけない言葉というものがあり、それを口に出すこと自体に問題があるということである。
TV放送に例えてみれば、ある番組の内容がまっとうな性教育や犯罪の抑止を目的としたものでも、ヌードや過激な暴力映像を映してはいけないようなものである。

社会通念として、各個人で理由付けは異なるが、とにかく結論は共有されている倫理的了解がある。
どんな文脈であれ、如何に断りを入れようと、それに反する言葉を公的な場で言うと、その発言の論旨ではなく、本人の品格が問題視される。
それは、議論を超越した共通了解を崩しかねないものとして、危機感混じりに嫌悪されるからかもしれない。

「原爆投下容認」発言についての非難も、「広島・長崎」という個別的問題、「原爆使用」一般の問題など、いろんな視点から集中砲火を浴びせてるが、問題とする論理は統一されていない。
それは、論理を超えて共有されるべき「原爆使用を容認してはいけない」という社会通念があって、彼の発言がその通念に抵触したことを問題視して、その道義的異分子を排除するための運動なのである。
ゆえに、反論不可能である。
用いた言葉が禁止コードに触れたことが問題なのだから、如何に本意を「誤解」なく伝えたところで、彼の道義的信用は回復しない。
どんな文脈であれ、
あの発言をすることができる発想自体、
そのようなことに思考が及ぶ内心自体、
が許されないのだから。

このような様々な理屈付けによる非難の集合体に直面する時、反論も説明も無意味である。
反論すればするほど、その言葉は社会通念としての禁止コードに触れ、問題は広がる。そもそも、こうしたことをテーマにして話し合うこと自体、自明とされている社会通念をラディカルに問い直すことになる危険性があり、通念としての自明の共有性を破壊する行為として、生理的に嫌悪される。

故に、禁止コードに触れる「失言」をしまった時は、ただ自分の人格を否定するか、内心の問題に触れずに「不本意ながら誤解を招く表現をした」として事態を収めるしかないのである。

「建て替え最中」

2007-07-07 23:02:37 | 街中
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」
――本郷通りと春日通りの交差点が
江戸八百八町の端らしい。

その「かねやす」の本郷通りを挟んで向かい側、
すなわちぎりぎり江戸から外れたところに
三原堂という老舗の菓子屋がある。

今日、その三原堂の前を通りかかったのだが、
工事中で、「建て替え最中。仮店舗にて営業中」
という看板がかかっている。

一緒に歩いてた人が
「建て替え“もなか”に読める。和菓子屋だから」
と呟いたので、思わず笑ってしまったが、
その仮店舗に行くと、本当に
「建て替え最中」
を売っていた――求肥と小豆餡入り。

……ユーモアに脱帽。

http://www.hongo-miharado.co.jp/