道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

智に働き、情に棹さし、意を通す。

2006-08-08 23:25:03 | 精神文化
とある論文で、面白いことが述べられていて、
「なるほど」と思いながら読んだ。
端的に要約すれば、以下のような内容である;

認識には「知」「情」「意」の三種類があり、
文化によって、そのうちのどれを重んじるかが異なる。
日本は「情」を重んじる文化であるが、それに対して中国は「意」を重んじる。
また、西洋文化は「知」を重んじるものである。

補足すれば、
○「知」とは知識や論理といったもので、普遍的な「真」を価値とするもの。
人のあり方としては、協力によって団結することはあっても、
原則としてはそれぞれ個々人が独立して思考・判断する自我の強いものであろう。

○「情」とは感情や欲求といったもので、感覚的な「美」を価値とするもの。
人のあり方としては、人々が共感によって結ばれ、
雰囲気や美意識などによって調和して生きることとなるであろうか。

○「意」とは義理や理想といったもので、社会的な「善」を価値とするもの。
人のあり方としては、それぞれが身分・立場や状況に応じて、
社会的・道義的な責任を果たしつつ、理想の実現へ向上していくものである。


伝統文化について考えてみれば、
日本では「もののあはれ」「わびさび」などの感覚的、感情的なものが表に出るのに対し、
中国では「仁愛」「正統」などの倫理的、社会的な観念が強い。
そもそも、日本語において、
「悲しい」「嬉しい」といった感情を表す言葉の多くは和語であるのに対し、
「義理」「理想」など、義務や正義、意志などを表す言葉はほとんどが漢語由来であり、
自前の文化では感覚や情念は独自の発達を遂げたが、
社会関係や思想良心などの概念は中国のものに頼ったことが分かる。
また、現在でも、日本人は過去の問題を「水に流す」感情的な手法で解決することが多いが、
中国人はいつまでも「正しい歴史認識」などの正義論で解決しようとする。

日中の文化的、思想的な差異を考える上で、「情と意の相違」という構図を頭に置いておくと、
かなりのことが説明できるような気がする。

ただし、西洋を一言で「知を重んじる文化」というのはどうであろうか。
確かに、ギリシア哲学は何より「知」を重んじるし、
近代以降の自然科学は「情」「意」を介入させず、ひたすら「知」を追究する。
「知」の追究の点で、他の文明の追随を許さないものがある。
しかし、これだけを挙げて「西洋の文化」と言い切れるだろうか。
例えば、ソクラテスやプラトンは「良き市民のあり方」や「義」を追究したし、
中世の騎士道物語は、科学的真理や現実性ではなく、情熱をテーマとする。
何より、「西洋」のアイデンティティーの大部分を担う、
キリスト教こそ、「神への義」「隣人愛」など、「意」が前面に出た宗教と言えるだろう。

そう考えてみれば、中国においても、
儒教こそ「君臣」「親子」などの人間関係におけるあり方を述べる「意」重視の思想であるが、
老荘思想の類は、普遍的真理の追究から全てを相対化して、
「仁義」などの「べき」論を否定した、「知」重視の思想である。
また、禅もまた、社会的価値観に縛られず、ラディカルに思考し、問答などで論理を深め、
個々人がそれぞれの悟りを目指す点で、やはり「知」重視といえる。

日本においてだって、武士道というのは、君臣などの社会的関係における義理を重んじ、
「情」ではなく「意」が中心となっている観念である。

結局、何か一つの集団の文化を「100%『○』的文化」と言うことはできない。
また、構成員一人一人の価値観というのはそれぞれ少しずつ異なるものであろう。
ただ、ある文化や宗教の背景としてどのような考え方を強く持つのか、
ある人がどのような価値観を持っているのかといったことを考える上で、
「知」「情」「意」というのは非常に便利な区分法であり、
自分との違いを意識する上で非常に役に立つのではないだろうか。

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