道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

論理と宗教

2006-07-24 19:28:59 | 形而上
前回、「正常」同士でも、単に表面上で会話や動作がかみ合っているだけで、
頭の中では全然違う世界認識・論理構造をしているのではないか、というようなことを少し書いた。
こんなのは不可知論で、いくら考えてみても仕方のないことである。

およそどんなことでも、疑って行けば、証明不可能なことに辿りつく。
「なぜ人を殺してはいけないのか」「快感を求めることに意味はあるのか」
「実はこの世界は全て夢じゃないのか」「○○したくない、というのは、○○しないことの理由になるのか」
疑い出せばキリがなく、徹底してやり続ければ、
みんなが当たり前のように因果付けていることに論理を見出せなくなったり、
何にも価値を感じなくなったりして、いわゆる「異常者」になるだろう。

疑い出すとどこまでも突き詰めてしまうというのは、
要するに、どこまで行っても無条件で成立する前提というものがないからである。
そこで、「人を殺してはいけない」「生きられるまで生きなければならない」など、
何かしらの決め付けをして、そこで思考停止すれば、
そこを足場として、生きていく「正常」な論理が組み立てられる。
そして、このように不可知論を断ずることで、論理の足場的前提を提供するものの代表が、
宗教であると思う。

最近、100年ほど前の中国知識人の論文を読んでいた中に、
「科学の発展によって、宗教はなくなるだろう」という言葉があった。
確かに、宗教の中のいわゆる「迷信」という要素は自然科学の発達によって滅ぼされて来ている。
しかし、科学的・論理的に突き詰めようとすればするほど、
「何のために生きるのか」というような問題について足場への欲求は強まり、
むしろ宗教は強く残っていくのではないだろうか。
それは、一昔前のオウムが理系エリート学生を多く集めたり、
昨今のインテリジェント・デザイン説の盛り上がりが、その例と言える気がする。

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