道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

何ぞ必ずしも楚ならんや

2011-04-13 23:12:46 | 政事
 以前も取り上げたが、石原氏には失言が多い。彼が議会で知事選立候補を表明した日に大地震が起こり、彼が当選した次の日にも大きな余震があったのは、彼の言葉を借りれば「(石原への)天罰」と言えそうな気すらする。

 そもそもメディアというものは、悪意を以って発言を切り取る。禁止コードに触れれば、恰好の餌食である。石原氏もその点をよく分かっていて、記者を嫌っているから、記者会見は常にイヤな感じだ。彼の気持ちもよく分かる。

 しかし、その例外だったのは、「花見自粛」令。

 後に言い訳をしていたが、その前後の内容を踏まえれば、その概要は、「戦時中は花見などせず、皆で団結して頑張って危機に立ち向かった。だから花見など論外」というもの。
 花見を「自粛」するというのならともかく、ここで「戦時中」の「団結」を持ち出すのが、イケていない。個々の可能性を狭め、全てを一つの目的に集約しようとしたがために、日本は無謀な戦争に突入し、不毛に負けたのである。不自然な「団結」は視野狭窄を生む。少なくとも、このような文脈で戦時中を語るべきではない。

 むしろ、石原氏は単に「花見自粛」とだけ報じられたが故に、メディアに助けられたのかもしれない。



 後に、彼は言い訳をしていた。大勢の人たちが苦しんでいる中で花見なんか楽しむ気になれないだろう、という具合に。しかし、これは言い訳に過ぎない。

 日本の東北地方に限らず、世界を見渡せば、非常に大勢の人たちが、常に苦しんでいる。
 もしも石原氏の言うような気持ちがあるのなら、いつまで待っても花見なんぞはできない。一生暗い気持ちで人生を過ごさなければならない。
 人類に不幸は絶えない。ならば、彼は一生花見ができないはずだ。

 実際には、そんなことはなく、彼は東北地方の人たちを花見中止(と「日本人の美しき団結」)のダシには使うが、地球の反対側にいる人たちの苦しみについては、ノータッチである。
 彼の考え方について云々言う以前に、そもそも彼の理屈自体が破綻している。


 『説苑』至公篇に曰く、
「楚の共王が、猟に出て弓を置いてきてしまった。左右の臣下が、王にそれを告げると、共王は言った。“止めよ。楚人が弓を遺(わす)れ、楚人がそれを得た。何も問題あるまい。”しかし、これを聴いて孔子は言った。“惜しいなあ。どうせなら、‘人が弓を遺れ、人が之を得たのみ、とでも言えば良かったのに。どうして‘楚’(の人)である必要があろう”」


 都知事には、視野の広さ、人類の一員という幅、これらが足りていない。

「天下難事必作於易」

2011-04-05 11:05:16 | 政事
 東京電力は、事後の対応としてはよく頑張っていると思う。
 「隠蔽」と言われながらも情報を小出しにし、当初自衛隊や米軍の援助を待たせておいたのも、結果論として非難することはできるが、彼らなりの判断があったのであろう。下請会社の若い作業員たちで決死隊を組んだのも、東電職員や重役たちはあまり入ったことが無いために内部のことをよく把握していないからであろうし、結果的に被曝事故が起きたのも、普段から無用心で計器を無視した作業をしていた慣れがあったためであり、今回に限った問題ではないだろう。
 門外漢の我々があれこれ口出しして、彼らの足を引っ張るべきではない、ということについては、特に異論も無い。もっとも、「国民が一致団結して未曾有の有事に立ち向かい」、「責任感ある東電及び勇敢なる作業員たちを称讃する」というネット上の雰囲気には、少し付いていけない。

 しかし、コトが起こる前に何とかできなかったのだろうかと、よく思う。
 「想定外」と言うが、スマトラ沖で起こっても、東日本では起こらないと見なしたのだろうか。
 「1000年に一度」と言うが、それは、今日起こるかもしれないし1000年後に起こるかもしれないということに過ぎない。
 要するに見通しが甘かったということである。

 今回は外部電源が全て流されてしまったために対処が遅れたわけだが、そもそも、非常時に電気がないと操作できない仕組みというのは、危うい。機械で最も信用できるのは手動のメカニックであり、電気式はそれに劣る(電子系統は更に落ちる)。
 そして、どうしても電気式が必要だったというならば、せめて外部電源を二つ用意すべきであった。それは単に二台持っておくということではなく、一方を沿岸に置いたら一方は丘の上に、一方がディーゼルなら一方が太陽光か何かで、という意味である。これが非常時のための備えというものであろう。
 住民たちを納得させるための安全神話に、自分たちが騙されてしまったのだろうか。

 最も不可解だったのは、40年も経ったら建て替えなり何なりすべきだったのではなかろうか。「40年も前のものでよく頑張った」ということを言う者がいたが、そういう問題ではない。原発の建物は文化財でもギネスブックでもない。
 そもそもはもっと早く廃炉にする予定で建てたものだったそうだ。しかし、安全に停止して、安全に処理するには莫大な費用を必要とし、かつ原発施設を安全に保管できるような場所(通常は地下深く)が日本には見つからない。そのために、無理無理操業を続けて来たという(これは10年も前から反原発団体が主張して来た問題)。直近でも廃炉にするかどうかの検討がなされたが、枝野氏が操業続行を決めていた(もちろん、枝野氏・民主党政権だけの責任ではなく、その前の自民党政権の責任でもある)。余談だが、東海村の原発は、「バケツでウラン」の事故後に廃炉を決めたが、まだ処理は完了していない。
 動かし続けるのであれば仕方ないが、それならばせめて老朽化した施設を直すことはできなかったのか。

 先日、たまたま、地震問題を専門に扱う建築学者に会う機会があったので、その点を訊いてみた。回答は至って簡単なものだったが、問題は極めて難しいものであった。
 曰く、「改修の必要性は、専門家はみんな分かっていた。改修していたら、今回のような事態が起こる可能性はかなり低かった。しかし、原発は絶対に安全だ、と言い続けて来たために、身動きが取れなくなっていた。改築をしようとしたら、その間に何か起こったらどうするんだ、改築中は普段と違って100%安全ではなくなるではないか、という反論が起こる。政府・東電と住民との間で、極めてアンハッピーな関係があり、その結果、お互いに不利益を被ることになった」とのこと。
 そうすると、単に「絶対安全」と言うだけで、住民への説明責任を怠ったツケが来た、ということか。もちろん、改修を納得させるのは極めて難しいのであるが。

 100%安全ではない。だからこそ普段から備えなければならない。一つ一つの原因は簡明だが、それらへの対処を怠ると、いつか複雑にして難しい事態が生ずる。もっとも、日頃からそうした簡明な小さなことを見つけて対処していくには、稀有な才能が必要なのかもしれない。しかし、それを心掛けるべきではあろう。

 天下の難事は必ず易きより作(おこ)る。

石原氏「天罰」発言について

2011-03-15 10:48:05 | 政事

 石原都知事は昔から失言が多い。本人は失言だとは思っておらず、好き放題言っているだけなのだから、もう直らない。直らないのだが、10回に1回くらいは良いことも言うから、それで都民に受け入れられている側面が強い。

 しかし、今回はさすがにひどい。

 

「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」(「デイリースポーツオンライン」2011315日付より)

 

「我欲」や「ポピュリズム」ということは、その通りだろう。しかし、そのために津波が起こったというのはおかしい。旧約聖書の読み過ぎだ。

地震発生以降、ネット上では「不謹慎」という言葉が蔓延し、往時の「非国民」という言葉の如く、我々の言動を制限しようとしている。私自身はこの雰囲気を好きになれないのだが、それでも言わせてもらいたい。石原氏のこの発言は、不謹慎である。

 

 凡そ二千年、自然災害の仕組みが(自然科学的には)解明されていなかった時代では、確かに石原都知事のように「天罰」として理解する考え方があった。魯の荘公二十四年(B.C.670)に起こった水害について、劉向(B.C.77- B.C.6)は以下のように言う。

 

「……又淫於二叔,公弗能禁,臣下賤之。故是,明年仍大水((荘公の妃である哀姜が)二人の舅と浮気し、それを荘公は止めることができなかったので、臣下が荘公を蔑んだ。そこで、この年と翌年と二年続けて大水害があったのだ)」(『漢書』五行志引劉向『洪範五行伝論』)

 

また、文公九年(B.C.618)の地震については、以下のように言う。

 

「……諸侯皆不肖,權傾於下。天戒若曰:臣下彊盛者將動爲害(当時の諸侯はいずれもできが悪く、権勢が臣下へ移ろうとしていた。そこで天が戒め、以下のようなことを伝えようとしたのだ。臣下が権力を持って、君主を脅かそうとしている、と)」(同)

 

劉向の説によれば、いずれの場合も、為政者がだらしなく、臣下を増長させたために災害が起こったものとされる。そして、為政者はこうした天災を見て、自らの行いを戒めなければならない、ということである。劉向というのは学者と政治家を兼ねた人物であり、彼から見て600年も前の出来事についてこうした解釈を施すことにより、自分たち為政者への警告としたのである。

 水害・地震の時、実際に最も被害を受けるのは一般庶民なのだから、天が為政者を戒めるためにこうした災害を起こすという発想は、「為政者の言動を改めさせるためには、庶民の犠牲も仕方ない」という、我々から見れば傲慢な価値観に基づくものである。しかし、当時は、そういう時代だったのである。

 

 今回の大災害について、石原氏は「天罰」と見なしたようだが、そのように見なした上で、果たしてそれが自分の責任であるという可能性は考えただろうか。自分を含めて政治家たちがだらしないから、それが「天罰」を引き起こし、何万もの死傷者を出し、何十万もの人々に避難生活を余儀なくさせた、ということは考えただろうか。

災害を「天罰」と言うのは、現代人としては幼稚な発想であるが、その上で為政者たる自己の反省に結び付けない点では、二千年前の劉向にすら及ばない。他人事のように語る彼に、「天罰」を語る資格は無いのである。

 

付記:

どうやら撤回した模様。彼にしては珍しいが、よほど反発が堪えたのだろう。本当に反省しているのなら、ここらへんで勘弁してやろうじゃないか。(「産経ニュース」2011年3月15日付


円高を活用するには

2010-08-17 12:27:10 | 政事
円上伸、85円台前半=米景気減速懸念受け―東京市場(時事通信) - goo ニュース

フジマキ兄はもとより、とにかく円高というのは歓迎されない。輸出業に深刻な影響を及ぼすからである。
しかし、メディアは円高だ円高だと言って嫌がる論調ばかり書き立てるが、なってしまったものは仕方ないとして、どうしてこれを活かそうということを言わないのだろうか。

円高というのは、
乱暴に言えば、販売競争力が落ち、購買力が上がるのだから、
要するに、何かを買う方に活かすべきなのだ。


では、何を買うのか。
それは、資源である。そして、農地である。

レアメタルからリン鉱石に至るまで、
とにかく鉱物資源の有無はこれからの国力に大きく関わる。
必要な金属を確保できなければ、iPodもiPadもない。
故に、鉱山の採掘権は是が非でも手に入れなければならない。

また、現在のところ、分配の不均等や一時的な不作によって飢餓が起こっているが、
将来には、人口に対して食糧供給が全く追いつかない事態になる可能性が高い。
それに備えて、今のうちにウクライナなどで農地を買いこんで置くべきなのだ。

両方面に於いて、日本はアメリカはもとより、韓国・中国に遅れを取っている。
中国などは明らかに不当なまでに元安レートを維持しており、購買力では不利なはずなのに、資源確保で日本に競り勝っている。
これで元高に転換されたら、もう世界中の資源を押さえられてしまうのではなかろうか。

資源や農地といった、国外にあるものは、
前もって確保しておかなければ、後から必要になっても、もう遅い。
国策で援助して、買える時には国債を発行してでも買っておくべきである。
円高なら、なおチャンスというものであろう。

円が安ければ輸出で儲け、
円が高ければ過去の儲けで資源を買う。
考えてみれば当たり前過ぎることである。
商社の人間などは、ほとんど脊髄反射で出てくるかもしれない。


榊原英資氏のように「強い円は日本の国益」とまで言うのもどうかと思うが、
円高の悪い部分ばかりを強調せず、これを活用する選択肢を示すのも、
またメディアの役目のはずだ。

2010年参議院選挙を振り返る

2010-07-14 11:05:55 | 政事
各党と政策ごとの連携を模索 菅首相、会見で意向(朝日新聞) - goo ニュース
自民復調、「敵失」が追い風に 谷垣氏は続投表明(朝日新聞) - goo ニュース

今回の選挙、民主党が負けたというのはよくわかる。
しかし、自民党が威張るほどのものなのかがよくわからない。

獲得議席数では自民党が勝ったが、得票率は民主党に及ばない。
もちろん、得票数と獲得議席数が比例しないのは選挙では当たり前のことであるが、それでも、得票数で及ばなかったのだから、自民党が民主党を負かした、ということにはならないだろう。せいぜい、野党が民主党を負かした、くらいのものであろう。
谷垣氏は確かによく頑張っているが、彼の「一番」ポーズには、もはやかつての政権与党としての重みはない。

消費税をめぐる話も、不思議なことが多い。
菅氏は、自民党の「10%」を参考に、増税の方向で議論を進める、とは言ったが、今すぐ上げる、とは言っていない。それで、「4年間は上げない」という前の選挙の公約と違うじゃないか、と批判された。批判に対して、議論を進めるだけで、次の衆議院選挙までは実際には上げませんよ、と応えると、「ブレた」と言われる。そこまでブレたようには思われない。
もっとも、新聞の見出しだけ見れば、ブレたようにも感じるかもしれない。「自民党の「10%」を参考に、増税の方向で議論を進める」⇒「消費税増税へ。10%か」、「議論を進めるだけで、次の衆議院選挙までは実際には上げませんよ」⇒「やはり4年間は上げない」、のように発言を切り取って、読みやすく、インパクトが出るようにするのがマスコミの編集部の仕事である。しかし、まさか、諸政治家先生方が、新聞の見出しや、それに引きずられたネット上の書き込みだけで判断しているわけではあるまい。

同様のことが、子ども手当てについても言える。
野党はしきりに、バラマキはヤメロ、財源は何なんだ、まさか消費税ではないのか、なんて批判しているけれど、これは全くピント外れである。というよりも、故意にピントをずらし、民主党への批判ではなく、有権者への主張にしているのだろう。
前の選挙の公約を少し見れば分かることだが、子ども手当てというのは、扶養控除を削減して捻出した税金を充てるというものである。要するに、「控除から手当てへ」という主張なのである。
子ども手当てを配ることで出生率が上昇するとも思われないし、私のように扶養控除を未だに活用しているような低所得者にとってはありがたくない政策だが、帳尻は合っているのである。かつ、「控除から手当てへ」というのは、所得がいくらで家族がなんとかで、という面倒な計算や処理を廃し、一律にあつめて一律に配るわけだから、役所の手間を削減できる。つまり、財政再建にもつながるのである(だから、家庭の所得に応じて子ども手当ての額を変えるなんていう面倒なことをしたら、本末顛倒)。
こういうのは朝三暮四で、子ども手当ての実施を先に行っただけで、扶養控除削減は早晩行われる。バラマキという批判は当たらない。
野党として議論すべきは、「子ども手当て支給=扶養控除削減」というセットの是非である。それなのに、「子どもたちに借金してバラマキをするのはやめろ」「消費税の増税分で子ども手当てをまかなうのであれば賛成できない」というのは、もはや悪意を以って誤解しているとしか思えない。


というよりも、本当に、他党の主張を理解していないのかもしれない。選挙速報の直後に放送された討論番組を見たのだが、各党の代表はいずれも人の話をよく聞かず、自分の主張ばかりを叫ぶ。一人が質問に対して回答を述べている最中なのに、他の人が大声で言葉をかぶせ、押し切り、自分の意見を朗々としゃべり出し、それに対してまた別の人が単発の言葉を何度も何度も断続的にかぶせ、そんなのが渾然一体となって、誰が何を話しているのかさっぱり分からない。
まず、他の人が話している途中に遮るのはマナー違反だ。そして、言葉をかぶせてしゃべり出すというのは、他人の話を聞こうという意思が全くないということなのである。

こんな人たちが日本の政治家だということが外国に知れたら、国辱ものである。まず、信用をなくし、国益を損ねる。

政策討論番組の放送は国内に限定し、その録画を海外に持ち出した人間は「売国奴」として罰するべきである。

「政治は可能性の芸術ではない。悲惨なことと不快なことのどちらを選ぶかという苦肉の選択である。」

2010-07-09 12:34:23 | 政事
「参院選に関心ある」81%…読売調査(読売新聞) - goo ニュース



明日・明後日は用事があるので、一昨日のうちに投票は済ませて来た。
別に昨日や今日行っても良かったのだが、大して考えが変わるとも思われなかったので、早めに権利を行使しておいた。

悲惨なことと不快なことだったら、私は不快なことの方を選びたいが、選挙の時に不快なことを唱える政治家は少ない。どの政治家の言うことも、耳に障らない抽象論に留まり、具体的には何も分からない。
その原因は恐らく我々の側にあって、減点法で彼らの政治を評価するからだろう。何か一つ大きな欠点や失敗があると、すぐにコケる。だから、臆病な候補者たちの主張は、どれも大して意味のない抽象的なお題目に終始し、結果、政治の議論は全然進まない。
要するに、悲惨なことと悲惨なことのどちらを選ぶかという苦肉の選択なのである。


○財政再建
 現政権は「事業仕分け」なんてことをやっているが、思ったより効果は上がっていない。これは当たり前で、元々、それぞれの事業は、それぞれの分野でそれなりに意味があると思って行っているものだからである。それを素人が評価しようなどというのが、おかしい。とある数学者が「カラシニコフは一丁30ドルで買える」と言って自動小銃費用の削減を迫ったらしいが、自衛隊と山岳ゲリラを一緒にするべきではなかろう。ただ、旧来の政権が踏み込めなかったところを見直そうとする姿勢は評価できる。
 「増税の前に徹底的な支出削減」と訴える政党は多いが、「全体で何%」「公務員を何%」とだけいうのは、全く意味をなさない。予算争奪競争が激化するだけで、仮に無理矢理配分を決めたとしても、その後の行政パフォーマンスが落ちる。
 そもそも、支出削減というのは、現場の人間の協力がなければ不可能なのに、ことさらに「政治家vs官僚」のような姿勢を出そうとするのがおかしい。官僚はお金が欲しくて残業するわけではないし、タクシー券を使いたくて終電を逃すわけではない。天下り先のために外注することもあるのかもしれないが、ほとんどは業務上必要だから予算を使うのであるし、あるいは、翌年以降の予算のために予算消化を行うのである。

 支出削減を目指すとすれば、まずは、官僚・公務員の負担を減らすシステム改革である。ややこしい計算やあちこちとの交渉、繁雑な書類作成が必要な仕組みを、なるべくシンプルにする。機材も部署の壁を越えて共有化できるものは共有化して、なるべく減らしたい。
 巨大プロジェクトを数個潰すわけではなく、無数の細かい無駄を削っていくのだから、この見直しは、カツマーが各部署・各地方をめぐっていちいち対決するわけにはいかない。現場の人間との協力が必要である。
 だから、システム改造によって、パフォーマンスを落とさずに業務効率化・予算削減を果たした事業、部署、省庁の人々には、削減具合に応じて、多額のボーナスを出すべきである。それは、金銭で釣ることも去ることながら、彼らの業務を高く評価することでやる気を持ってもらうということにも繋がる。
 しかし、残念ながら、「公務員に財政削減ボーナス金を出す」という策を唱える候補者は見当たらない。


○税制改革
 消費税増税が今回の目玉で、菅氏が谷垣氏の主張に相乗りして進めようとしている(普天間問題から焦点をずらそうという目論みだ、という分析もあるが、そういう意味もあると思う。そして、それは倫理的にはよろしくないが、戦略としては適切である)。
 逆進性をどうするか、というのが目下の問題であるが、それは徴税の仕組みで工夫するのではなく、やはり、行政サービスで考慮すべきであろう。食品の税率は云々、何とかの場合は云々、といちいち複雑にしていたら、役所の仕事が増える。役所の仕事が増えるということは、つまり財政の悪化につながるということである。
 消費税は一律にして、その分、「パンとサーカス」なり、介護ニューディールなり、貧乏人に恩恵のあるペイバックをすれば良い。消費税は貧乏人に負担が大きい、というが、金持ちだって多額の消費税を払っている。金を多く持っていたって、使わなければ意味が無い。多く使えば、多く消費税を払うのだ。
 共産党なんかは、金持ち優遇税制・大企業減税をやめるべきだ、という。理想論としては正しい。しかし、金持ちや大企業に多額の所得税・法人税を迫れば、外国に出て行ってしまうのが現状である。
 弱小企業を保護する、というのであれば、消費税免税範囲を、今の売上高一千万円から一億円くらいに引き上げるのはありかもしれない。
 先日、日曜討論を見ていたが、こういう話はなく、議論はすれ違っていた。


○資源・環境問題
 二酸化炭素削減問題では、「日本はもう雑巾を絞りきった状態」という話をよく聞く。麻生さんが国際会議で、「05年ベースで削減」と発言して失笑を買っていたのは記憶に新しい。
 前の東大総長小宮山宏(コミー)は、企業は省エネ努力を十分にしてきたが、一般家庭ではまだまだ無駄を省く余地があると述べ、小宮山ハウスの普及を訴えている。小宮山ハウスにそれほどの効果があるのなら、政府が是非報奨金をもっと出して普及に努めるべきであろう。

 二酸化炭素以上に問題なのは、資源獲得競争である。はっきり言って、北方領土や竹島、東シナ海ガス田なんて問題で争っている場合ではない。官民一体で、レアメタルやリン鉱石の獲得に努めなければならない。
 マニフェストを眺めると、自民党のみ「資源外交の強化」と書いてある。これは評価できる。


○農業
 90年代以降、自民党は農業を切り捨てているし、民主党もその系譜を継いでいる。見るべきものは少ない。
 しかし、海外の大農業地帯の中には、地下水を汲み上げて生産を行っているところも多く、それが早晩行き詰まることは確実である。また、リン鉱石の枯渇から、化学肥料を前提とした農業モデルも、そろそろ怪しい。
 もし愛国者を自認する人がいるとすれば、農業安全保障の重要性を考えるべきであろう。自給率の向上や、海外資源に依存しない農業モデル、あるいはウクライナあたりで日本輸出用に農地を買い占めておくのも手である。

 ところで、民主党政権の大きな失点に、口蹄疫があるが、私は、あれは全て民主党が悪いとは考えない。10年近く前の自民党政権ではうまく押さえ込んだが、今回は、それとは初期症状が異なる。マニュアルの想定外だったのである。
 強いて言えば、初期段階で、マニュアルを過信して見過ごした医者の責任となるが、それも気の毒であろう。口蹄疫かどうか確信もできず、マニュアルもないのに、自分の判断で農家に「あなたのところの牛は全て処分しなさい」とは言いにくい。
 なお、五月に外遊した農相は間抜けだが、その間、業務は福島氏に引き継いでいる。福島氏の失点とも言える。


○外国人参政権
 これははっきりいって、意味がよくわからない。「参政権が欲しければ帰化しろ」という意見はよくみるし、筋は通っている。永住権との違いを挙げれば、日本国籍を取得すると、母国の国籍を失うことと、名前を変える必要があること、くらいである。
 また、「大量にどこかに移住し、そこの選挙を牛耳って、某国のための政治を行うから危険だ」という意見もみるが、これは的を射ていない。そこまでの意図があったら、現在の状況下でも、みんなで日本国籍を取得して同じことをすれば良い。何も、外国人参政権のような目立つまねをする必要は無い。
 なお、「外国人参政権反対。帰化の条件も厳しくすべし」という主張も見られる。これは、私は賛成するわけではないが、「外国人参政権を認めると、某国のために外国人たちが動き出すから危険」という説よりは、筋は通っている。

 ともあれ、要するに、こういう政策案は、在日の人たちのロビー活動・選挙活動を受けたものであろう。合衆国の政治家がユダヤ人ロビイストのためにイスラエルをひいきするのと同じことである。



政治というのは、大局を見なければならない。碁に喩えれば、小さい場所はほどほどにして、大きい場所に先着することが重要である。時には石を見捨てるという非人道的戦略も必要となる。そういえば、小沢氏は与謝野氏から囲碁を習ったらしいが、政治にはあまり反映されていないように思う。
また、最近は、政治化には行儀の良い善人だらけで、また我々有権者も減点法で評価するから、どうも小粒である。間抜けな善人よりも、用意周到な悪党の方が、政治家としては優れている。収賄くらいの悪行は大した問題ではない。

と、早めに権利を行使したから、言いたい放題言ってみた。


J.K.ガルブレイス
「記憶力の悪さほど、政治の世界で重宝なものはない。政治の世界においては、もの忘れの才ほど珍重されるものはない。政治は可能性の芸術ではない。悲惨なことと不快なことのどちらかを選ぶかという苦肉の策である。」

民主主義非万能論

2010-06-19 03:46:14 | 政事
前回の日記で、「高度に政治的な案件」であろうと司法はつっこむべきだ(そして、実際に司法的チェックは入っていた!)、ということを書いた。思うに、立法府は民主的であって勿論構わないが、法体系は民主主義によって破壊されるべきではない。たとえ、国民の99%の意見が一致していても、適正な手続きを踏んでいなかったり、体系的一貫性が担保されていなかったりすれば、司法は「ノー」を表明すべきである。


ところで、別の話であるが、時折目にするのが、「日本銀行は非民主的だ」という論。人事システムには民意が関与する余地が無く、政府からも独立しているのに、巨大な権力を持っている、ということだろう。
しかし、民主的なら良いのだろうか。私はそうは思わない。
確かに民意を踏まえるのは必要なことだし、外部からの抑制力も一定程度あった方が組織を健全に保てる。しかし、最終的な決断は民意に流されずに自分で行うというのが、プロというものだろう。我々パンピーとは較べものにならないくらい経済について知識もあり、長い時間をかけて思考・討論し、良質な情報へアクセスする能力を持っているのだから。


信頼できる職人というのも似ている。
バイト先の上司は、顧客の意見を聞いてから作業を行うのだが、取り組む案件の優先順位は自分で判断する。その結果、顧客が指摘した問題は保留しておいて、彼らが気付いてもすらいない問題の解決に取り組むことはよくある。顧客はそんな問題があったことも知らないまま、問題が解決する。
また、一定の期間ごとに、総合的なメンテナンスを提案する。目に見える大きな問題が起こっていないのに、巨額の費用がかかることを言い出すのだから、なかなか顧客には受け入れてもらえないが、必要だと思うから連絡するのである。
こういう仕事をする人は信頼できると思う。
それに対して、客の言う通りのことばかりして、客の受け入れやすいことばかり提案する人というのは、信用できない。恐らく、こちらの方が営業としては短期で成功するだろうし、利益も評判も上がるのだが、長期的には大きな問題が生じてくる危険がある。


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かつて、小学生の時だったか、「直接みんなで決めるのは無理だから、間接民主制なんだよ」と教わった記憶があるが、あれはウソであろう。
今なら直接民主制だって、技術的には十分可能だが、むしろ恐ろしくてできない。

それは、プラトンの云うように、パンピーは生まれつき出来が悪いからエリートに政治を託すべきだ、という意味ではない。
出来が良かろうと悪かろうと、別の仕事をして生計を立てながら的確な政治判断を行うのは難しい。溢れかえる情報の中で、その真偽を見分けるのすら、ままならない。

新聞など既存メディアの報道を鵜呑みにすることが危険であるのは周知の通りである。発言は切り取って文脈を変えるし、報道する/しないの選択によって情報を操作している可能性も考えられる。そもそも、マスコミが注目を集めたいこと(及び我々がマスコミに報道を期待すること)と、我々が知らなければならないことが一致するとは限らない。
ネット上の情報は更にあてにならない。ゴミのようなガセネタが山ほどある。その上、「自民党がネット書き込み要員を雇って、民主党の悪い話を(捏造して)流している」という噂も聞く(この噂の出処自体が非常に怪しいが、あり得ないことではない。かつ、民主党も同様のことをしているだろうし、公明党や共産党に至っては雇用の必要すらなく、無償でそれをする支持者たちがいるのではなかろうか)。お隣の中国では、中国共産党から出来高払いで雇われているネット書き込み隊の存在は、もはや公然の秘密である。「騙されてはいけない!」という字を見る度に、「こいつに騙されないようにしなければ」と私は思う。
ともあれ、自分で調査するだけの情報網を持たず、深い専門的知識を持たない我々にとって、ある情報が真実か捏造かは判別し難く、その事柄があり得るか否かすらも判断し難い。

結局、こうした状況下で多くの人に自分の意見や伝えたい情報を伝え、支持させたい者を支持させることができるのは、言っていることが明快で分かりやすく、かつ「声が大きい」ものである。
明快で分かりやすいというのは、代表例はヒトラーと毛沢東である。彼らの発言はシンプルで、論理の構造がすっきりしていて、極めて分かりやすい。
「声が大きい」というのは例を出すまでもなく、要するに発信力である。古代ギリシャのアゴラなら文字通り大きな声、現代なら巨大メディアを抑えること、もう少し後になれば「ネット書き込み部隊」をどれだけ雇用できるかになるかもしれない。


故に、職業的政治家と、専門的官僚が必要なのである。

私から言わせれば、「政治と金」なんて大した問題ではない。利益誘導は多少問題となるであろう。しかし、最も問題なのは、政治家が気概を持たず、大衆に媚びる衆愚政治の様相を呈することである。
手間隙をかけて、情報を収集・選別し、高度な専門的知識を持って、じっくり問題の把握と対策の作成を練られること。かつ、問題の適切な解決のためには、ある程度は民意を無視し得るだけの度胸を有していること。
それだけの条件を満たしていれば、金銭面で多少悪人でも構わないと思う。

理想は上で述べたような職人気質であるが、そういう人間は政治畑では出世できないだろうから、その出現は期待しない。

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民主主義は、政治権力を抑制する能力に於いて、非常に優れている。いかに政治家が巨大な権力を持っていても、その権力の根源が「有権者」にあるということを片時も忘れることはできない。その抑制力が、権力の恣意の暴走を防いでくれる。
しかし、個々の事案の解決能力については、「非民主的」な方が優れている場合が多い。間違っても、「民意だから」という大義名分で枠を踏み外してはならない。

新聞もネットも、そういうことはあまり論ぜず、「民意」を煽るばかりのような気がする。

高度に政治的な案件

2010-06-18 23:30:17 | 政事
以前の日記で書いたように、入力が多くなればなるほど出力は遅くなり、再び高速度で出力できるようになるには、更に高い境地に達しなければならない、と私は考えている。

つまり、私が日記で専門のことについて書かないのは、自分の専門についての知識・見識が、高速出力できる段階は越えたが、高速出力できる段階には至っていない、ということである。

というわけで、本日も専門外の話。

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中学生の頃、私は謂わば原理主義者であった。
自衛隊の存在は明らかに違憲だと思っていたし、解決策は自衛隊をなくすか憲法を改めるかの二択だと思っていた。
しかし、大学に入ってからは、やはり九条と自衛隊とは相互に矛盾すると考えているのだが、解釈改憲というのは案外うまい手段なのではないかと思うようになってきた。

現行憲法を「占領軍による押し付け憲法」と単純に表現することについては是非の分かれるところだが、ここでは深入りしない。ともあれ、この九条というものが、理念上意図していたものというのは、自衛権についての認識の変更であったように思う。
喩えてみれば、日本の一般家庭のようなものを目指したのではあるまいか。玄関や窓に鍵はかかるが、アメリカのように銃器を常備しているわけではない。各家庭はこのように極めて不十分な防衛力しか持たないが、警察力に依存して治安の向上を図る。
では、この一家庭が一国家になった場合、警察とは何なのか。それは、国連軍を想定したのであろう。憲法九条というのは、恐らく、国連軍の発足を前提として作られた構想だったように思われる。

近代的戦争に於いて、防衛力とは即ち攻撃力であり、自国を守るに十分な戦力を有するというのは他国を攻めるにも十分な戦力となり得る。隣国が自衛のために戦力を増強すれば、それに合わせて自国も軍備を拡張する必要がある。その結果、全ての国が十分な防衛力を持つということはあり得ず、軍拡競争による国家予算膨張を招く。
それを考えれば、国家間の治安維持を担う軍事力を国家以外のものに委ねるという構想は、魅力的である(魅力的に感じない人もいるだろう。しかし、少なくとも私は、家の中に拳銃と弾薬を備えて管理する手間を煩わしく感じるタイプである)。

しかし、周知の通り、現在に至るまで、様々な政治的理由によって、常駐の国連軍は組織されていない。九条の前提となるものが欠けているわけである。
既に前提が失われた以上、自衛権は持たなければならない。そこで警察予備隊(→自衛隊)を創設したのであり、独立後に安保条約を締結したのである。

それでありながら九条を破棄しないのは、憲法改正の条件があまりに厳しいのがまず第一である。そして、同時に、憲法九条の持つ抑止力や外交的効果も失いたくなかったからであろう。
日本の防衛費が現在でも年間約5兆円で済んでいるのは、九条の効果が大きい。そして、国際社会復帰初期に於いて、九条というのはかなり役に立ったらしい。
建前のもたらす利益と現実に必要とされること、この二兎をうまくごまかしながら両方得ようとする試みが解釈改憲であったように思う。


外殻のままに中身を維持しようとするのは、いかにも頭が硬い。
中身がなくなったからといって外殻を捨てるのは、馬鹿正直が過ぎる。
殻には殻の使途がある。殻と身をうまく現実に合わせて運用することにこそ、政治に必要なしたたかさなのである。


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ところで、前々から不思議だったのは、
「高度に政治的な案件については司法判断はなじまない」
という最高裁判決。

「三権分立」というのは政治的な話ではなかったっけ?
司法は政治権力ではないのでしょうか?
他の二権の暴走を抑制するのが司法のシステムでは?
と私は思う。

そもそも、法律畑の話を聴くと、しばしば、民主主義に対する警戒心が感じられる(私自身も、民主主義が他の政体より優れていることは証明されていない、と考えている)。
そんな人たちが、上のような、立法・行政の判断を信頼するような態度を取るのは大変不思議である。国会を「国権の最高機関」であるという条文について「単なる美称」と言い放ったことすらあるし、そもそも、法学部出身であろうと、たとえ弁護士出身であろうと、政治家というのは彼らにとっては法学の何たるかをわかっていないピヨピヨなのである。

しかし、最近、気が付いた。
法律立案の際に、内閣法制局のチェックが入っているのだ。内閣法制局といえば、裁判所にとっては同業者も同然。 つまり、司法による抑制力がある程度働いていると見なしてよかろう。
政治家が単に民意を反映して(「人気取りで」とも謂う)作った法律だったら厳しい審査が必要だが、法律のプロである内閣法制局を通過したものであれば、その法体系への整合性は一定程度信用できる。かつ、法制局が事前に綿密な法解釈を準備していることも予想できる。故に、「高度に政治的な案件については司法判断はなじまない」なんてことも言えたのであろう。

これで納得。

田中角栄

2010-06-13 01:31:08 | 政事
「タナカカクエイ」というとすぐにラーメンズのコントが思い浮かんでしまう。 自分の冗談のネタのうちに、彼らの占める割合というのは、案外大きい。


ラーメンズのことはさておき、現在では、金権政治の象徴にして、国家財政の借金体質の原因として批判されることが多い。しかし、少なくとも新潟人の間では、未だに人気が高い。例えば、両親(ともに新潟の農村出身)は、「田中角栄は当時すべきことをしただけで、悪くない。今の赤字財政は、角栄の後の人が、時代的状況が変化したのにも関わらず、政策を改めなかったことが原因」と言う。
新潟人以外による評価はあまり聞いたことがないが、ともあれ、良きにせよ悪しきにせよ、戦後の歴史に於いて巨大な足跡を残した政治家であったことは間違いない。


ところで、そんな田中角栄の業績の一つに、日中国交回復がある。訪中前は「生きて帰れるのか」という不安も抱いていたようだが、無事に友好を結んで来たのは周知の通りである。
しかし、彼の地では、いろいろやってくれた。まず、周恩来と白酒を酌み交わし、乾杯合戦の末に、ベロンベロンに潰されたというのは有名な話であろう。
それから、彼が詠んだ漢詩というのが、またひどい。私がこれを知ったのは高校生の頃、とにかく「国の恥」と思ったのはよく憶えている。

國交途絶幾星霜,修好再開秋將到。
鄰人眼温吾人迎,北京空晴秋氣深。
(國交途絶して幾星霜、修好再開して秋將に到らんとす。
 鄰人眼温くして吾人迎ふ、北京空晴れて秋氣深し。)

まず、文法的な誤りとしては、「吾人迎」。隣人が温かい眼差しで自分を迎えてくれるのであれば、「迎吾人」である。また、語彙の問題だが、空が快晴であることを言いたいのであれば、「空晴」ではなくて「天晴」としなければならない(そもそも、「天晴」でも詩歌としてはひどい表現ではある)。そして、「秋」の字を二度も使っているが、これは詩としてはあまりよろしくないし、重複を避ける手段はいくらでもあったはずだ。
更に重大な点に、音韻の問題がある。形を整えた詩としては、「平仄」なるものを気にしなければならない。詳しいことは省略するが、要するに句の音調に適切な抑揚・リズムをつけるための規則である。これを守らない詩も多いが、それは内容に見るべき点があるから許されるのであって、未熟な詩であれば、せめてこの規則だけでもがっちり守らなければみっともない。角栄の詩は、このルールを全く踏まえていない。
そして、何より、この詩は押韻していない。韻が通じる気配すら感じられない。詩として成立するための最低限の美学が欠如しているのであり、従ってこれは漢詩と呼べるシロモノではなく、要するに漢字を二十八個並べただけの文字列に過ぎない。


このような思いを10年程抱いて来たのであるが、しかし、最近、ふと気が付いた。実はこれは「国の恥」ではないのではあるまいか。少なくとも、彼から詩を受け取った毛沢東・周恩来は、これによって逆に日本への評価を高め、田中角栄に畏敬・羨望の念を抱いたのではないか、と思うようになったのである。

社会主義革命を成し遂げた中国共産党の建前というのは、農村に入って活動し、農民側に立って戦い、謂わば「農民の味方」というものであった。特に1970年代というのは文化大革命の動乱が吹き荒れた時代であるが、当時問題とされたのは「出身階級」であり、祖先が地主階級――「農民の敵」――であった者はひどく叩かれた。
しかし、そもそも、このような理念を喧伝した毛沢東・周恩来達自身が、彼らの父は地主であり、謂わばブルジョワ層・エリート層の出身なのである。それについて、何か後ろめたい思いがあったとしても仕方がない。
後ろめたい思いはあっても、しかし、政治的スタンスを常に農民側に置くことによってそれをごまかし、あたかも自分が小作農出身かのように振る舞わなければ、彼らの政治的地位は維持できなかったのであろう。

そんな中で日本からやってきた田中角栄というのは、とにかく貧しい農家の出身で、高校すら出ていない。文句無しで「農民階級出身」である。そんな人物が首相になった日本というのは、共産革命を成し遂げたはずの中国よりも進んでいる。
もちろん、その程度のことは、角栄の訪中前から、毛沢東達は調査済みだったはずだ。しかし、実際に会ったら、無茶苦茶な詩を披露されて、かつそんな詩を詠みながら「ドウダ七言絶句トヤラヲ詠ンデミタゾ」と得意満面の角栄を見て、彼らはまさに「絶句」したことであろう。
「まさかこんな文化性の低い水準の人間とは!! 間違いなく、こいつは貧農出身で、ろくに教育は受けてはいまい。」
彼らは、角栄の庶民性に対し、軽蔑という度合いを超えて、むしろ感動を覚えたのではあるまいか。もしかすると、「田んぼの中」という農民臭い姓に羨望の念すら抱いたかもしれない。


――カクエイ、おそるべし。

米軍基地

2010-06-02 07:13:14 | 政事
私が首相だったら、沖ノ鳥島を提案する。某国の魚雷一発で地図上から消えるような珊瑚礁によって半径200海里に渡る広域の経済水域が保たれているのは、甚だ心許ない(「あれは島ではない」という中国の主張も、これに関してはもっともである)。
そこに米軍を駐留させれば、島が破壊される心配はなくなる。そして、間違いなく「日本の領土」として主張できよう。

「本土から遠過ぎる」「朝鮮半島の有事に対応できない」だって?

ならば、竹島にすればよかろう。尖閣諸島でもよい。「我が国の領土です。どうぞお使い下さい」という具合に。
米軍が駐留したら、さすがに活動家たちも上陸して旗を立てたりはできまい。

もちろん、米軍駐留後は、日本にとっても他に使い途がなくなる。
しかし、領土問題などその程度の解決で良い。大して利益も産まない極々小さな土地の奪い合いで、多大な労力が費やされる。それだけの労力があったら、南米やアフリカでの資源獲得競争に取り組む方が余程建設的だ。
つまり、領土問題というものは、もはや解決すること自体が最大の解決となっている。どちらが正当かなんて大したことではない。だから、アメリカの威光を利用すれば良い。

もし竹島案に韓国がひどく反発するようだったら、在韓米軍も一緒に竹島に移せばよい。これで一挙解決。米軍にはちょっとせまいかもしれないが、我慢してもらおう。
お互いに使い途がない島なのだから、共通の親分に使ってもらうのが、三方一両損といったところだろう。