道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

悪魔の捧げ物

2008-01-26 16:45:29 | 音楽
タルティーニ「ヴァイオリン・ソナタ ト短調」には、「悪魔のトリル」という呼び名がある。
非常に難しい技法が散りばめられ、中でも悪魔の如く意地悪なトリルがあるためにこのように呼ばれるようになったのであろう。

しかし、タルティーニ自身が語ったものとして、彼が夢の中で悪魔に教わったメロディーを用いて作ったから「悪魔のトリル」と名付けた、と云う話もある。
何とも人を食った話であるが、実際に聴いてみればなるほど然り、悪魔のような美しい曲である。
ヴァイオリンが妖艶な旋律を奏で、時折チェンバロがきらびやかな音色を発す。曲の流れはあくまで端正に、しかしその動きは聴く人をゆさぶる。深夜、真っ暗で静まり返った部屋の中、漆黒の闇の中から浮かび上がる真紅の絹織物。そんなイメージが湧き起こる。

この曲を初めて聴いた時は、何といけすかない曲なのだ、と思った。そして、その感想は今でも変わらない。こんないやらしい曲を作るタルティーニは、きっと、性格がゆがんだ嫌なヤツであったに違いない。性格がゆがんでいなければ、こんなにも美しく艶やかで素晴らしい曲は作れないのではないだろうか。


――ともあれ、私も、悪魔の啓示に備えて、枕元には紙と筆記用具を置いておくことにしよう。

「コガネムシは……」

2008-01-24 22:10:00 | その他雑記
雪の積もった朝に、コガネムシの死骸を見つけた。その時に意図せず脳裏に浮かんだのは、「アリとキリギリス」であった。


「アリとキリギリス」は、イソップ童話で最も有名なストーリーの一つである。
多少ヴァリエーションはあるものの、遊び呆けていたキリギリスが路頭に迷うことによって、せっせと貯蓄をして冬に備えたアリの生き方が奨励されるという大筋は共通であろう。

しかし、如何に貯蓄をしようとも、死ぬ時は死ぬのである。
見よ、このコガネムシを。
「金持ちだ」と言われながらも、この有り様である。
如何に三菱の純金積立に励もうと、それを背負ったまま死んでしまえば何の役にもたたない。おしまいである。

そして、働きアリだって同じなのだ。彼らは"虫"ならぬ"無私"の心でせっせと労働に励み、巣に財産を蓄えるが、その恩恵を受けるのは女王アリ以下の少数の特別な連中である。働きアリが自らの労働に見合った報酬を受けることはまずない。
マルクス主義的に言えば、彼らは特権階級によって搾取されているのである。

思えば、人間社会も同じようなものであろう。必死に働いても、それが100%自分に報われるわけではない。むしろ、高度な社会性を築いたが故に、アリよりも搾取されているのかもしれない。

イソップ童話の表向きの意味は、「努力した分だけ報われる」である。しかし、その実質的効果は、働いた分の正当な報酬が得られない不平等な社会を維持するために、人々を勤勉へと駆り立てる。


キリギリスは、少ししか働かなかったが故に、冬に飢える。
アリは、熱心に働くが故に、搾取されながら長く生きる。
コガネムシは、莫大な貯蓄を背負って死んで行く。

どの生き方を選ぶかは、人それぞれであろう。


日出而作,日入而息。
鑿井而飮,耕田而食。
帝力于我何有哉。

名文家の気概、及び台無し

2008-01-20 22:57:52 | 言葉
戦乱の時代として記憶される中国南北朝期、しかし中国語の文体論はこの時期に発達した。乱世にも拘らず、あるいは乱世であるからこそ、多くの詩文家が文体・音韻について議論を深め、後の唐詩を準備した。

その中で、現在最も有名な著作が、『文心雕龍』である。
梁の劉勰の作で、全50篇。文章の本義から文体の変遷、そして文章作成にあたっての精神のあり方から細かな技巧まで、凡そ文章に関わる事柄を全て網羅し、壮大な体系をなしている。
特に作文にあたっては、典故の利用・対句のバランス・比喩や含みの入れ方など、その論は緻密で、現在の我々にも役に立つ事柄が多い。
そして、これらの諸注意はこの論文集自体の執筆にも当然ながら意識され、非常に流暢にして華麗、かつ分かり易い名文となっている。

ところで、劉勰の文章へのこだわりは、非常に細かい点にまで及び、音律の問題は勿論、文字の用い方、それも文字の重複だけではなく部首の重複、果ては字形の密度のバランスにも注意を促す:

  單復者,字形肥瘠者也。瘠字累句,則纖疏而行劣;肥字積文,則
  黯黕而篇暗。善酌字者,參伍單復,磊落如珠矣(練字第三十九)

  「単復」というのは、字の単純さ・複雑さである。単純な形の字
  が続けば、スカスカで弱々しくなる。複雑な形の字が重なれば、
  真っ黒で暗くなる。字の用い方が上手い者は、単純な字と複雑な
  字とのバランスが、まるで連なる宝石のようなのだ。

このこだわり、まさに名文家の気概と言えよう。


ところで、ご存知の方も多いと思われるが、現在中国では伝統的な字体ではなく、「簡体字」という簡略化された字体が用いられている。略式としてではなく、これが国家の正式の字体である。
古典に関する出版物はそれでも伝統的な字体が用いられることもあるが、やはり简体字を用いることの方が多い。
この『文心雕龍』も例外ではなく、現在最もポピュラーに普及している『文心雕龍注釈』(周振甫注)、「教育部全国高等学校中文学科教学指導委員指定書目」という鳴り物付きだが、やはり本文を簡体字で表記している。

――字体を変えてしまっては、劉勰のこだわりも、台無しなのである。

外国語作文の要訣

2008-01-19 17:31:59 | 言葉
人の誤解を放って置いて、誤解によって生じることについて責任を取る覚悟があるならともかく、通常は、我々は最悪の誤解をされないように努力し、言葉を発せなければならない。パソコンに文字を打ち込むのとは異なり、生身の人間は、こちらの無言に対してもとんでもない誤解をしてくれるものなのだから。
しかし、そうは言っても、「言」は「意」を尽くせないもの、あまり欲張って細かい意図を一度に伝えようとしてもうまく行かない。まして、外国語ならなおさらである。

中国語で文章を書くのが上手い人によく言われるのが、「細かいニュアンスを出そうとしてはいけない」。
我々はついつい無意識のうちに、微妙な言葉遣いの違いによって、文章に盛り込む意味や勢いを微調整し、とどのつまりは相手が「微言大義」を察してくれることを前提に文章を書いてしまう。
それは同じ文化環境に育ち、同じ言語体系を持つ人間同士ではある程度スムーズに通用する(からこそ、普段は、コミュニケーションの場において自分がそれほど微妙な言葉を用い、相手が察することを要求していることに気付かない)。
が、全く異なる環境、言語を持つ相手には通用しない。

もちろん、我々は、挨拶や決まり文句において直訳がうまく行かないことは知っている。
「こんにちは」が「今日は~」の略だからって、英米人に"Today is"と話しかけることはしない。
逆にクシャミをした人間に、「神の息があなたを吹きますように」というのも微妙である。
しかし、それ以外の語についても、母語で当たり前のように使っている言葉が、それを他の言語に訳した際に、そもそもそのニュアンス自体が文化的違いによって認識されえないということがある。

例えば、中国人によく言われるのが、日本人は「我覚得~(私は~と感じる)」「我想~(~と思う)」という表現を使いすぎること。文脈的にそれが使えないような文章にまで使う。 会話や作文に慣れてくれば、その場面でそれが使えないとは分かってくるのだが、どうしても断定を避けて「~と思う」というニュアンスを出したいが故に、それを使いたくなる。まぁ、このくらいだったら、不自然なだけで、誤解はない。
ちょっと怖い例だと、「ありがとう」を何度も言うと「またしてね」とせびってる、と取られる。

この調子で行くと、単に自分の願望として「お金が欲しいなぁ」と言ったつもりが、脇で聞いていた人にとってはせびられているように聞こえるかもしれない。
そうなると、「誰か、時間を下さい」と言ったら、『モモ』の時間泥棒と思われるかもしれない。
そもそも、「困った時は神頼み」的な精神文化がない人にとっては「だったら自分でやればいいのに、何を無駄なことを言っているんだ」といって、理解不能かもしれない。
「○○人は無欲だ」「○○人は意地汚い」「○○人は意志薄弱だ」「○○人は嘘つきだ」と言った誤解・偏見も、文化環境・言語体系と言った背景を知らずに、単に辞書と文法書だけで話せば、往々にして起こり得る。
あるいは、意図的に、朝鮮語では「先生」にも「様」をつけることを知りつつ、視聴者を煽るために「将軍様」という訳語を用いるという確信犯的な場合もある。


ともあれ、請求と願望をはじめ、主観的なニュアンスは、言外の要素によって左右され、その呼吸が分からなければ、当然誤解は生じる。
そして、比較的客観的である論文に於いても、「~してしまったのである」とか「~とは言い切ることにやぶさかではない」とかいった意図を表そうとすると、やはり失敗する。
だから、「意」を表し切ることを早々に諦め、細かい誤解や拡大解釈をされてしまうのを畏れず、一文一文を簡潔に書く。しかし主語・動詞・目的語は、誤解のないようにしっかり明示する。これによって、微言に大義は宿らないが、木にこだわらないことによって相手にスマートに森を見せることができる。
何だか小学生の作文指導のようだが、とどのつまりはこれに限るのではないかという気がする。

「意象」

2008-01-17 17:29:58 | 言葉
中国語では「image」の訳に「意象」という言葉をあてる。
しかし、この言葉は、「哲学」「経済」「社会」のように訳語として生まれたものではなく、かなり昔から存在する言葉だから、難しい。
先日、「白居易之梨花意象」というタイトルで発表をしたのだが、一通り原稿の添削が終わった後で先生に言われたのが「"意象"って、本当は英語の"image"とは違うのよ」
幸いにして、レジュメ中に、タイトルを含め中国語として「意象」の言葉遣いが間違っている箇所はなかったが、ひやっとした瞬間であった。

授業が終わった後に調べてみたのだが、「意象」という語は伝統的に文学理論上の言葉として用いられ、南北朝期の文体論にも見られる。
様々な用例があって、意味を特定することはできないが、どうも文学古典では「外界の物象について内心で生起する主観的感覚」とでもするのが無難なようである。
が、どのあたりで「image」そもそも私には「image」という英単語自体についての認識が甘いので、まだ先生の言った意味が完全に分かったわけではない。


ところで、伝統的認識論において、「意」と「象」は異なる段階の術語である。
『易経』の文章に、「言不尽意(言葉では、意味を完全に伝えることはできない)」という言葉がある。そして、それに続いて、だから聖人は「象」を立てて「意」を伝えるのだ、と述べられている。「象」というのは天文だったり模様だったり数字だったりするわけだが、誤解を恐れずに踏み込めば「象徴」とでもいうのだろうか。
これについて三国時代の王弼なんかは、『荘子』の思想を使って、以下のように言う。「意」を理解するために「象」を用い、「象」を理解するために「言(言葉)」を使うけれど、「象」を把握できれば「言」は忘れられ、「意」を把握できれば「象」は忘れられる。そして、これらを忘れたのでなければ、「意」を理解できたことにはならない。
「言不尽意」論で必ず触れられる言説である。

王弼が語っているのは壮大なことについてだが、
彼の元々のテーマ設定を無視して、卑近なことについて言えば、我々は自分の考えを相手に伝えるのに言葉や映像を使うけれど、完全には伝えられない、ということにでもなろう。
しかし、社会生活を送る以上、「相手の意図は分かってるから、相手の細かい言葉遣いは無視する」「言葉にしなくてもわかってくれるよね」と言ったり、あるいは開き直って「どうせちゃんと伝わらないから言わなくていいや」と言ってはいけないと思う。
前者は傲慢•独善だし、後者は怠慢•無責任。
後者については放置・無視すれば済むこともあるが、前者については余計な期待をかけるのみならず、こちらの言う言葉に対して聞く耳持たないこともある。後に六朝期の清談家が否定されるのも、その独善さに起因しているのではないかと思う。

言葉は全てを伝えられない。言った言葉は相手に誤解を生むし、更に発言者本人の思考までもを言葉に合わせて改変してしまう。
100%誤解を生まないことは不可能だが、特定の誤解を避ける言葉はある。言っても言わなくても誤解は生じるが、特定の誤解を否定する言葉はある。
「因果応報」という言葉があるが、自らの本意でなくとも、自らの影響の及ぶ範囲における、自らの作為もしくは不作為に因る結果というのは、やはり自分の責任なのである。

極言すれば、他人をどのように誤解させるかについて、我々は責任を持たなければならないのである。

「苺入りチョコレート利用食品」

2008-01-16 17:28:16 | 街中
セブンイレブンで、「1月5日・15日はイチゴの日」という、苺の生態を無視したキャンペーン、もしくはクリスマス商戦に間に合わなかった苺のための敗者復活戦を行っていた。
例によって例の如く、チロルチョコからパイの実まで、様々な商品のイチゴ味が並んでいる。

その中に、「いちごのシュークリーム」というものがあるのだが、
原材料を見ると、
「牛乳、シュー皮、生クリーム、卵、苺入りチョコレート利用食品、砂糖、苺ピューレ、コーンスターチ……」
と様々なものが並んでいる。

しかし、「苺入りチョコレート利用食品」とは何だろう?
5番目に多い材料で、商品の形状を考えると、シュークリームの表面を覆うチョコレートコーティングなのだが、「苺入りチョコレートコーティング」と書かないあたりがおかしい。
そもそも、食品の原材料の中にわざわざ「~食品」と書かれたものがあるのがおかしい。食品の原材料は食品に決まっておろう。
「チョコレートコーティング」とは表示できないけれど「食品」には違いないので皆様安心してお召し上がり下さい、ということであろうか。



商品を作る際に使用した添加物については表示が義務付けられているが、その商品の原材料を作る際に使用した添加物については表示する必要はない。
もちろん、表示されない添加物についても、数々の実験動物達のおかげで安全が確かめられているのであるから、複合汚染についてまで考えなければ、まぁ、心配しなくても生きていける。
しかし、原材料の中に、「チョコレート利用食品」なんていう曖昧な名前が並んでいると、その出自についての多少の薄気味悪さを感じざるを得ない。

あけまして……

2008-01-03 01:47:14 | 旬事
……という台詞にもいい加減あきました頃でしょうか。

先日、クリスマスの直前に友人と飲んでいた時に、「正月」について言葉が及んだ。
彼曰く:「正月の生ぬるい空気がいやだ。寒空の中で茶を飲んでいる精神を大事にしたい」
私:「あ、"ふゆはつとめて"ね」
彼:「そうそう、枕草子」

しかし、これは高校の時から思っていたことだが、新暦で正月を祝うというのは、伝統行事の一連の文脈からするとおかしい。
「迎春」「賀春」という言葉の通り、旧暦の一月一日は春を迎える日、立春であった。
春に生命が生まれ、夏に発展し、秋に枯れ落ち、冬に耐え忍んで力を蓄え、再び生命が芽吹く季節が到来したことを祝うのが正月行事だったのである。
節分の豆撒きだって、本来は年末に積もり積もった邪気を祓い、家をきれいにして新たな年(=次の生命サイクル)を迎えるためのものである。
それを、生命循環の意識から切り離して形式だけバラバラに残したのだから、行事や言葉の意味が文脈を持たないものになってしまっている。

大学に入って中国人と知り合って感心したのは、中国では建国記念日やメーデーは新暦で日付を決めるが、正月・端午・七夕など伝統行事は旧暦で行っている。
これでこそ、「迎春」が意味を持つし、織姫と彦星も初秋の晴れた日に逢えるというものであろう。


と、いつも文句ばかり言っているが、かくいう私も、実は新暦正月のこの時期は結構好きである。
春を迎えるというめでたさこそないが、街は静かで、道行く人は楽しげで、そして空気が澄んでいる。工場やトラックが休んでいるためであろうか。元旦の空はいつも高い。

もちろん、田舎に行けば、空気は常にきれいだし、正月のこの時期は雪が降るから、むしろ空はいつもより低い。
しかし、東京で、いつも見慣れた街で、いつもと違う景色を見るというのが爽快なのだ。この爽快さは、大掃除で家のガラス窓を全て拭き終わった時の感覚にも似ている。
そんな時、少し悔しいが、「ああ、年が明けたな」と思ってしまう。

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  元日 王安石
爆竹声中一歳除 春風送暖入屠蘇
千門万戸瞳瞳日 総把新桃換旧符

爆竹の声で年が明け 暖気がふわりと屠蘇をかすめる
無数の門戸に朝日が差し込み 家々全てが符を換える