道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

太宰府政庁跡にて

2007-09-27 23:16:56 | 旅中
太宰府、といえばなんといっても天満宮であり、
最近はそのすぐ近くに九州国立博物館なんてものもできている。

しかし、太宰府と言えば、もともとは大宰府政庁が置かれたことで建設された都市であるのだから、
その跡地にも行ってみなければなるまい。


大宰府政庁の跡地には、小さな展示館のようなものがあって、おじいさんが模型を使いながらいろいろと解説してくれる。
模型を見てみれば、太宰府は山に挟まれ、建設当時は長い堀(現在でも「水城」という地名が残っている)もあり、要塞であったことは想像に難くない。
博多平野を蹂躙した元寇も、わずかに泥地として残っていた堀に阻まれて、太宰府の直前で引き返したとか。

一通り解説をしてくれたおじいさんが、すぐ近くの観世音寺について語り出す。
天智天皇が母斉明天皇を慰めるために建てた由緒ある寺院で、一時期は勢力があったらしいが、後に天満宮に押されて、今では小さくなってしまっている。
しかし、それでも、貴重なものがたくさん残っており、是非行ってみるべきだ、と。
そう話す言葉の端々に、「天満宮なんて新参者じゃないか」という思いが感じられて面白い。


そうして、話を終えて、
「じゃあ、観世音寺も見に行ってきます」
と言って出たところで気がついた。
この展示館、有料だけど、お金を払っていない。
観世音寺を見た後、お金を払おうと戻って来たのだが、
覗いてみると、おじいさんはまた別の客をつかまえて解説をしている。

なんだか楽しそうだし、お金のことは気にしていなさそうな様子なので、
そのまま太宰府を後にした。

日本三景

2007-09-05 23:40:59 | 旅中
並列に列挙するというのは、論理上では全て同等の扱いなのだが、その順序には自意識が顕れる。
例えば、日本では「日中韓」という三ヶ国を、中国では「中日韓」、韓国では「韓中日」と言う。
日本三景の順序も、また、松島の記念碑では「松島、天橋立、宮島」の順に紹介し、天橋立では「天橋立、松島、宮島」、宮島では「宮島、天橋立、松島」の順だと聞いたことがある。
なお、典拠とされる林春斎『日本国事跡考』には、「陸奥国」の項で松島について「与丹後天橋立・安芸厳島為三処奇観(丹後天橋立・安芸厳島と、三処の奇観と為す)」とあるのが見えるのみで、ここから直接順番を導き出すことはできない。
(『日本国事跡考』は、京都大学学術情報リポジトリで画像が公開されている。
 http://hdl.handle.net/2433/24027。該当箇所は[47/80])

思うに日本三景の共通点とは、
1.神域
2.白浜がある
3.松が多い
ではないだろうか。

もちろん、日本三景というのは日本三大「奇観」のことであるから、
浜辺に白い砂をまいて、松を植え、神様を祀れば、簡単日本三景のできあがり、
というわけではあるまい。
ちゃんと、それなりに変わった地形でなければならないし、あるいは宮島の如く、人工物で小細工する必要もある。


しかし、「松」というのは、示唆的に感じられる。

本居宣長の歌を引くまでもなく、日本人の美意識は桜に喩えられることが多く、
今日では、桜は、日本の美を象徴する植物となっている。
しかし、日本三景のいずれも桜の名所はない。
むしろ、一年中姿を変えず、花も地味、
桜の逆ともいえるであろう松が並んでいる。
これは何故なのか、旅中にふと考えた。

ぱっと咲いてぱっと散る桜の華やかさは、潔さの喩えだが、
松は柏と共に、古来、心に変節のない美徳に例えられてきた。
神を祀る誠実さを象徴するのか、あるいは神の側の長久さを象徴するのか、
神域に立ち並ぶ松は、その常なる緑を以って、人をして神秘の感覚を起こさせる。
日本三景に、松はあるべくしてあるのではないだろうか。

松は、桜とはまた別の美感を担って来たのではないだろうか。
武士道や粋が流行る前から、日本人に息吹く、太古の感覚を。



……もっとも、八幡神に約束をすっぽかされた大国主のように、日本人は実際には気が短く、「待つ」のは苦手である。



あをによし

2007-09-01 17:35:02 | 旅中
奈良公園があるのは奈良の街の東端、そこから東西に街を横断して西の端、平城宮跡へ行った。多少時間はかかるが、それほど遠くもない。

行ってみて驚いたことに、復元された朱雀門の威容はさておき、幅約70mもの朱雀大路までが復元されていることである。それも、かなりの長さで。
そこに立ってみて改めて、古代律令国家の威厳について思いを馳せる。

朱雀門の北側には、1km四方はあろうか、野原が広がっている。古代に平城宮があった敷地を、そのまま残しているのであろう。
近鉄の線路に横断されている敷地の北側には、資料館や遺構、そして復元工事中の太極殿がある。

古代の様相をそのまま見ることは叶わず、朱雀門ですら想定の元での復元に過ぎないが、しかしそこには、平安京のように洗練されたものではなく、力強さが剥き出しになっている威容を感じた。
平城天皇が都を再びここに戻そうとしたのも、また納得の行くことである。