道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

人文学の未来

2011-12-12 09:53:43 | 精神文化
 地元の知人に、空手家がいる。本業は大手証券会社のプログラマーだが、どこへ転勤しようと転職しようと引っ越そうと、「空手をやってないとオレはダメだ」と言って、とにかく空手の修行だけは欠かさない。そして、「空手は世界を救う」と考え、地元で空手教室を開いている。もちろん儲けは度外視で、空手の普及のためである。

 よく考えると、研究者も(特に「実学」ではない人文学では)、「○○を学ぶことに××という意義がある」と主張するのであれば、このような形で普及活動をすべきなのかもしれない。
 現在一般的になされているのは、一般向けの本(あまり好きになれない言い方だが、俗に「啓蒙書」と呼ばれる)をどんどん出版することである。しかし、それはアタれば大きいのだが、一発アテるのは大変難しい。
 それよりも、空手のように、もっと草の根で、毎週地元の公民館を借りて講義・勉強会をするという活動を増やすべきのような気がする。それは、トップクラスの学問を持つプロフェッショナルだけではなく、私のようなレベルでも良い。大切なのは、人数を広げること。一部の限られた才能だけが情報を発するトップダウンではなく、謂わば「農村が都市を包囲する」のロジック(最近の企業戦略でも、テレビ・新聞のマスメディア広告よりも、twitterでの細やかな個人対応が重視されてきているそうだ)。

 仏教研究者には一般向け座禅会を開く人々もおり、中国哲学の分野でも湯島聖堂講義があるが、空手の草の根道場に較べると圧倒的に少ない。教会が信徒有志で聖書勉強会を行うのに較べれば、もはや無いも同然と言って良い。こうした活動を増やさないと、人文学の裾野は細るばかりとなるように思う。

--------------------------------------

 なお、誤解の無いように付記しておくが、件の空手家は、決してレベルは低くない。実技・実践哲学だけではなく、書物上の学問もある。琉球空手の発祥地としての沖縄の歴史をよく研究しており、「武の七徳」の典故が『左伝』であることも知っている。
 そういえば、日本全国に数多ある教会で行われている説教・勉強会のレベルも、決して低くはなさそうだ。先日、少し縁があって地元のプロテスタント教会の礼拝に参加して来たのだが、牧師が聖書のある箇所について解説しているのを聞いて驚いた。聖書内でロジックをつなげるやり方はまさしく経学的であり、それを一般信徒たちに説明していたのだ。言葉遣いは平易で丁寧だが、内容に手加減は無かった。

 裾野が広がると、こういう高度なことも一般に伝えることができるようになるのかもしれない。

「ほとんどの人間は普段と同じことしかできない」

2011-04-06 10:01:35 | 精神文化
 昨日、知人から面白い話を聞いた。曰く、

 「ほとんどの人間は普段と同じことしかできない。普段と違うことを考えてできる者は、稀だ」

 被災地のとある自治体で、救援物資を山ほど受け取ったのだが、どのように各家庭に配れば良いのか頭を抱えた。しかし、そこである職員が思いついた。「クロネコヤマトにやってもらおう。」そして、ヤマトは驚くべきスピードで在庫を整理し、各家庭に配送した。

 役所は物資を配るところではない。そこがいきなり膨大な量の救援物資を受け入れても、せいぜい倉庫を見つけるくらいで、それ以上のことをできる人間はあまりいない。しかし、ヤマトの職員は、荷物をどのように分類し、倉庫のどこに配置すれば、効率良く運び出せ、必要な時に必要なものを出せるかが分かっている。もちろん、戸別配送もお手のもの。
 これは、役所の人間がバカでヤマトの人間が賢い、ということではない。単に、普段からしているかどうかの違いに過ぎない。

 この話で非凡なのは、クロネコヤマトにやらせよう、と思いついた職員。何のことはない、聞いてみれば極めて常識的な発想であるが、こういったアイデアを非常時にすぐに出せる人間を、「智慧がある」と言うのである。


 これを原発事故に当てはめてみよう。

○東京電力
 事故直後、自分たちの中でコトを収めようとした。これは普段通りの隠蔽体質。
 下請企業の作業員が作業中に被曝。これは、普段通りに、計器の警告を無視したため。今回はみんなが注目していたから露呈。
 計画停電でブロックごとに停電をコントロールするという離れ業をこなす。しかし、これも電力のプロだから、普段の延長線上。
 二十三区内や、重要施設のある区域は、計画停電の対象範囲であってもほとんど停電せず、停電された地域から「不公平」と言われる。官民密着のお役所体質通り。
 これだけの事故があっても、うっかり「福島にもう1,2台原発を作る」という書類を出してしまう。そもそも計画停電自体が「原発がないと、こんな感じに電力が不足してしまって、みんな困るよ。だから原発は必要ですね」ということを知らしめるための陰謀だ、とまで言われてしまう。反原発団体が電力消費量のグラフを根拠に「ピーク時さえ控えれば原発は不要」と言っていることに対する反論すらない。普段通りの、説明不足の原発推進姿勢。
 電力不足を補うために、火力発電設備を増やす、と発表。また、政府を通じて、京都議定書の適用外として認めてもらうよう、国際社会へ働きかける。普段から、太陽光は申し訳程度、太陽熱・地熱発電はほとんど着手して来なかった(どころか押さえ込もうとまでしたと言われている)ことを考えれば、これも理解できる。
 一連の記者会見では、どうもはっきりしない言い方。これは、情報を必要以上に隠しているわけではないだろうが、裁判になっても自分たちへの責任追及を最小限に抑えられるように、言葉を選んでいるように見える。やはりお役所体質。

○自衛隊
 人命救助や物資調達では非常に活躍。しかし、原発に対しては、ほとんど効果のない水撒き。これは仕方ない。普段の訓練でやったことのないことなのだから。

○東京消防庁
 迫力有る放水作業。明確にして堂々たる記者会見。ただし、前者は言うまでも無く普段の業務の延長上。後者も、東電・政府とは違って事故の原因は自分たちでは無く、発言に特に制限が無い状態だからこそ、普段通りに簡明に現状と対処を述べたように思われる。

 東京消防庁を呼ぶという判断をした者は偉かった。しかし、その他は、普段通りか普段の延長上。とすると、今回の事故への対処というのは、これが考えられる限りのものだったと言えよう。非常時に直面して、自分が普段はしていない行動によって的確に対処できる人間というのは、ほとんどいないのだから。
 もっと良い方法があった、というのは、つまり結果論にしか過ぎないのである。
 改めるべきは、普段の体質。このことは、事態が落ち着いた後に、もっと追及されなくてはならない。

美田を買わず

2010-06-07 03:12:57 | 精神文化
「○○人って××」という、一国家を丸ごとひとくくりにする言い方というのは乱暴が過ぎるが、しかし、文化・習慣・価値観といったもので、確かに「お国柄」と謂うような傾向がある程度存在するような気がする。

よく言われるものの一つに、「イタリア人はいい加減」という言説がある。
実際に彼の地を旅行した社長に訊いてみると、「もう、本当にいい加減。日本にいる時に“イタリア製”というと良さそうな感じがしていたけれど、イタリアで“イタリア製”というのを見ると却って安っぽく感じる」との評。
私が密かに「文羽様」と呼ぶ女性(自称「文化的バカ愛好家」)に至っては、「ドイツが二回の大戦で敗れたのは、イタリアなんかをアテにしたからだ。根性ナシのあいつらと組むとろくなことがない」とコテンパン。確かに、一次大戦では同盟国を裏切って英仏側に着いたし、二次大戦ではアフリカ戦線でドイツの足を引っ張りまくったという。
私の知り合いのイタリア人は非常によく勉強するから一概には言い切れないのだが、しかし、火のないところに煙は立つまい。

ところが、歴史を遡って古代ローマ人についての本を読むと、「勤勉」「地道」「継続性がある」「結束力が強い」等々の評がなされている。こうした美徳によって、都市国家ローマはエトルリア・カルタゴ・ギリシア・ガリアを征服して巨大な版図を有するに至った、という。

同じイタリア人なのに、えらく違う。二千年の間に、いったい何があったのであろうか。


何の実証的根拠も無く、勝手に想像してみるに、ローマ帝国の遺産が大きすぎたのではあるまいか。
例えば、きっちり舗装され、数百年以上そのままの形で使い続けることのできる街道が網の目のように張り巡らされており、石畳が消耗してガタガタになっても、それを整備さえすれば再び利用することができた。アッピア街道などは、18世紀の修復を経て、現在でも使われているとか。
また、帝国時代の巨大建造物があったため、中世に教会等を建てようとした際は、山から石を切り出して来なくても、遺跡からネコババすれば用は足りる。
そして、言語面でも、自分たちの口語に比較的近い古典ラテン語が長らくヨーロッパ共通の書面語だった。かつてローマ時代には、ローマ市民はラテン語の他にギリシア語も学習したらしいが、中世に至るとそういう外国語を学習する勤勉さは失われたのではないだろうか。
あまり頑張らなくても、先人の遺産を最大限に利用すれば何とかなる。あるいは、逆に、頑張ってもどうしようもない政治的状況というのもあったのだろう。

そう考えると、ギリシャも少し似ているかもしれない。古代ギリシアは商業で地中海を席巻し、商人と謂えばギリシア人かユダヤ人と言われていたくらいだが、現在はまるで振るわない。今回の金融危機では怠け者のような謂われよう。


まぁ、上の仮説の当否は分からないが、子孫に莫大な富を残すことの善し悪しというのは難しいだろう。
少し前のニュースで、余彭年という中国の富豪がその財産12億ドル相当を全額慈善事業に寄付した際に、財産を子供に遺さないのは、「彼らに能力があれば自分で稼ぐだろうし、能力がなければ食い潰すだけだ」と説明していた。評価は分かれるところであろうが、理には適っている。

かつて西郷隆盛は、
「不爲兒孫買美田(児孫の為に美田を買はず)」と詠んだ。
詩自体はゴツゴツしていて私の好みではないが(そもそも隆盛のことはそれほど好きではない)、しかし、一本の筋が通っているのは評価できる。
一人一人が公益に力を尽くすべきで、財産ではなく、その生き様こそが子孫へ遺す価値のあるものだ、ということであろう。


ところで、余談だが、古代中国に「子孫に美田を遺さない」という話を求めると、ちょっと違う意味になる。

楚の名宰相孫叔敖が病床に就き、まもなく臨終というところで、その子に言った。「自分の死後、王はお前に土地を与えようとするだろう。しかし、良い土地を受け取ってはならぬ。越との国境沿いに“寝丘”という、質も名も悪い土地があるから、そこを受け取れ。その地のみが長く有することのできるものだろう。」
孫叔敖の死後、楚王はやはりその子に良い土地を与えようとしたので、それを断り、寝丘を希望した。故に、ずっとその地を領有し続けることができた。(『呂氏春秋』孟冬紀異宝篇)

孫叔敖の死後、楚は政争が激化し、内乱が発生し、しまいには隣国呉に大敗して国土を蹂躙されることになった。しかし、寝丘だけは縁起が悪く使い途も無い土地だったために、常に争いごとの蚊帳の外にあり、故に領有し続けることができた、ということなのだろう。

つまり、ここで敢えて良質の財産を遺さないのは、頓智の利いた処世術なのである。西郷の発想とはかけ離れている。
――この違いを「お国柄」と言って良いのやら悪いのやら。

手作業

2010-06-03 17:08:16 | 精神文化
一昨日、108通の案内状&パンフレットを印刷・発送した。「平城遷都1300周年紀念」で仏像の写真が入った切手を貼って。
そろそろ届く頃だと思うが、受け取り人達は、まさか煩悩の数だとは思うまい。ふふふ。



自分で言うのも何だが、単純な手作業を長時間するのは割と得意な方だと思う。
今回は、パンフ・案内状・封筒・ラベルを、ひたすら刷って、乾かして、折って、貼って、詰める。その前にも、同じパンフを50部ずつ、4ヶ所に発送したが、やはりひたすら刷りまくり、折りまくった。
先週は、報告集6冊セットを段ボールに詰めて発送する作業をした。段ボール箱を組み立て、6冊のセットを作り、それと送り状を合わせて箱に入れ、閉じて、積み上げる。これを200個ほど。
また、こないだのバイトでは、パイプ磨きを一日10時間×3日連続。その後に2日間、諸々の掃除機かけ&水拭きをやはり一日10時間。不思議と苦にならない。
最近は、本を丸々一冊コピーして副本を作る作業も結構好き(違法)。

これらは、決して思考が要らない仕事ではない。印刷であれば、インクジェットで太い字や絵を刷ってすぐに重ねるとインクが付くし、両面印刷には危険が伴うのだから、ある程度の工夫が必要である。また、段ボール箱の組み立てであれば、どの位置に段ボールとガムテープを置き、それをどこで組み立て、どのように貼るのが頑丈さを保持しながら迅速かということを考えなくてはならない。
そして、何より重要なのは、段取りである。作業・保管スペース、人数、個々の作業及び作業後(乾燥等)にかかる時間を考慮して工程を組み立てなければ、それぞれに無駄が出て効率が落ちる。
こういったことを、ある程度の試行錯誤を経て確定させることで、スムーズな流れ作業を実現できる。そして、マニュアル化された流れ作業が実現すれば、集中力が持続し、それぞれの作業に熟練することにもなる。例えば、A4の紙を三つ折する時に、三つ折すること以外のことを考えずに済むようにすれば、ひたすらA4の三つ折に集中し、熟練し、どこで折り目をつけるべきかが手で分かるようになる。
即ち、「作業している時間」を工夫と熟練によって短くすると共に、「作業していない時間」を段取りによって減らすのだ。特に後者はバカにならない。手作業に於いて、作業以外のことに費やす時間というのは、油断するとどんどん増える。そして、作業以外のことに時間と労力を費やすと、作業自体の効率も落ちるのだ。

こういった工夫や段取りというものは、実際に作業しつつ考えないと、うまくいかない。頭の中だけで考えても、休むに似たり。現場を知らない指揮官がバカにされる理由というのは、まずここにあると思う。



ところで、こういうことは、君子のなすべきことではないとされる。

かつて孔子は、その多能を賞賛された時、このように言った。「私は若い頃に身分が低かったので、色々取るに足らないことができるのです。君子というのは、本当はそんなに色々なことに手を出さないものです。」(『論語』子罕篇)

また、孟子は、弟子の彭更に「何も仕事をしていないのに莫大な報酬をもらっている」と非難された時、「自分の仕事は職人や農民とは違い、仁義を世に広めるということである」と主張し、自らの報酬の莫大さを正当としている。(『孟子』滕文公篇下)
公孫丑の「君子が農作業もせずに報酬を得るのは何故か」という問いにも、君子は倫理的教化という至大の働きをなすのだから報酬は正当である、と説明する。(尽心篇上)

近くは毛沢東も、長征の際に、自分の足で歩かず、部下達の担ぐ担架の上に寝そべりながら本を読み、「同士達は手足を動かして苦しい思いをしているかもしれない。しかし、私は頭脳を働かせるという更に苦しい仕事をしているのだ」と述べたという。

最近、ポンコツ部屋に一人の客が訪れた。どこぞかの社長令嬢で、幼い頃から留学を繰り返し、その帝王教育の最終段階として東大の半年間600万円速成コースに入学したらしい。もちろん語学は堪能、教養も幅広く、頭脳の回転も非常に速くて明晰。
その彼女が、これから半年間は東大生だが、その後半年間も東京に留まって「いろいろ経験してみたい」と言うから、下々の人間の様子を知るために「コンビニでアルバイトしてみるのは如何ですか」と提案してみたら、見事に無視された。
帝王学の中には、どうやら下働きは入っていないようだ。



私は彼らのような君子にはなれず、小人に留まるのであろう。もう、これは性格の問題だから、どうしようもない。

かなしみ

2010-05-26 23:04:24 | 精神文化
最近、社長が竹内整一を読んで、「かなしみ」ということについて考え続けている。

新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」を例に出し、「日本人は、“かなしい”ということによって現実をむしろ再肯定し、“かなしいから死のう”ではなく、“かなしいから生きよう”という精神性を得た」という話から始まり、
こういうことが他の国でもあるのか、この「かなしい」は中国の「悲」とはどう違うのか、桜が散り続ける美しさに悲しみを感じるのは何故か、ということを、会う人会う人に訊いて回っている。

私は、「はらぺこあおむし」の結末がかなしい、と述べた。
自分だったら、リンゴでもナシでもケーキでも、むしゃむしゃむしゃむしゃ食べているのが一番幸せで、見た目が芋虫でも大した問題ではない。
しかし、蝶になってしまうと、姿形がいくら美しくても、もうむしゃむしゃ食べていた頃には戻れない。
これは大変かなしい話だ、と。



「かなしみ」の語義は広い。かつ内心の感情を表す言葉であるから、私には万人が共通のイメージを持っているようには思われない。
「白鳥はかなしからずや」と「よごれちまったかなしみに」が指すのは、同じ悲しみではないだろう。

それでも考えてみるに、
かなしさというのは、喪失と有限性への思いなのではないだろうか。


お気に入りのハンカチをなくしてしまったこと、卒業・退職で仲間と会えなくなること、困っている人がいるのに自分の力では助けることができないこと、
或いは、大事な人との死別、そして自らの死。

失われてしまったもの、もう得ることができないもの、
そういったものを思う時の感情が、かなしみなのではあるまいか。



「人間は考える葦」と云う。

もしもただの葦だったら、失ったものや得られないものを思う力は無い。
しかし、なまじ考える能力があるがために、それらの「有って欲しいもの」を想い、それが無いという空白を心に抱えて生きて行かなければならない。


心に穴が空きそうになった時、「あのブドウはすっぱい」と言って繕うのは、足るを知る処世術と謂えよう。
一方で、その穴を思い切り広げ、歌い上げ、むしろ何より美しいものへと仕立てようとするのが、詩人という連中なのかもしれない。

遅筆

2010-04-27 00:49:06 | 精神文化
大学3年生になって最初のゼミの発表は、A4で20枚以上書いた。
卒業論文は、締切2週間前にようやくテーマが決まって書き出したが、結局10万字書いて提出。

知識・経験が増せば更に早く書けるようになる、と思っていたのだが、大間違い。

その後、修士1年で報告集の原稿を書いた時はなんとなくはかどらず、修士論文は執筆にかなりの時間がかかった。
そして、博士課程進学後は遅筆にどんどん拍車がかかり、現在では1時間かかって1行しか進んでいない、ということすらある。

恐らく、知識が増え、語彙が増え、表現できる事柄と表現する方法が広がったが故に、却ってその選別に時間がかかっているのであろう。
喩えればパソコンのようなものであろうか。保存データ量が増えるほど、出力の速度は遅くなるのである。


それでは、知識・経験が増せば増すほど、どんどん筆が遅くなって行くのであろうか。しかし、そうではないだろう。

-----------------------

『淮南子』道応訓に次のような話がある。

秦の国に伯楽という、名馬を見抜く天才がいた。
自らの身を「滅するが若(ごと)く、失するが若く、其の一を亡なうが若く」して、馬を見極めたという。

そんな伯楽も老いたので、主君の穆公は後継者について相談した。
すると、伯楽は下働きの九方堙という人物を薦めた。そこで、穆公は九方堙を召し出し、名馬を探し出して来るように命じた。

三ヶ月後、九方堙が帰って来て、沙丘に名馬を見つけたと報告した。
穆公がその状について尋ねると、「牡馬で黄毛です」と答えた。

早速、沙丘に人を遣って馬を捕らえてみたのだが、それは牝馬で驪(黒毛)であった。

穆公は不愉快になり、伯楽を召し出して文句を言った。
「お前の薦めた男は、毛色も牝牡も判断できない輩であったぞ。馬のことなどまるで分かっていないではないか。」

伯楽は言った。
「あいつはついにこの域にまで達しましたか! その精を得てその粗を忘れ、内に在りてその外を忘れ、その見るべきを見てその見るべからざるを見ず、その視えるべきは視えてその視えるべからざるは視えず。彼が見つけて来た馬は、きっと群を抜いているはずです。」

果たして、その馬は、千里を行く名馬であった。


故に老子は言う。
「大直は屈するが若(ごと)く、大巧は拙なるが若し。」

-----------------------

馬を見る者は、はじめのうちは、馬を知れば知るほど、多くのことが目に入るようになるのだろう。普通の人間が全く注意をしたことがないような細部まで、ありとあらゆることをよく観察し、それで馬の良し悪しを判断する。
しかし、そのうち、見るべきところのみを見るようになり、見る必要のないところは見ないようになる。そして、やがては毛色や牝牡の別すらも目に入らなくなる。この域に達すれば、何を見るかを迷うことはなくなり、一目見た瞬間に、その見るべきところを見て、名馬か否かを見極めることができるのである。
もはや、馬を見る時には、見るべき箇所のみを見ていて、その他の世界中の何もかもを忘れ、我が身の存在すら念頭から消え去る。これを「滅するが若(ごと)く、失するが若く、其の一を亡なうが若く」と謂ったのであろう。

凡そ芸事というのは、こういうものなのではないだろうか。
始めた直後はほとんど何も知らず、一つのことしかできない。
やがて、知識・経験が増えるに連れて、様々な選択肢が生まれ、どのようにすべきか迷いが生じる。
しかし、極めて行くと、どの瞬間に何を考え、何をすべきかがどんどん絞られて行き、しまいには、最善の進路を示す一筋の光明以外のものは全く見えなくなる。
この一筋の光明を、「道」と謂ったのであろう。

今日、指導教官が、悦に入りながらこんな話をしていた。
山は山である。しかし、修行を積むと、山は山でなくなる。
山が山ではないと分かったところで、更に修行を積むと、
山はやはり山であるということが分かる。
これもやはり伯楽の話に似ていると思う。
おそらく、分別知・無分別知、世界・認識の有・無というテーマではあるが、一度広がってから再度狭まり、そこで確固として見えて来るものが以前とは異なる見え方をする、というプロセスは同じである。




要するには、このモデルが正しければ、
拡散しつつある我が文章表現は、いつしか収縮へと向かい、
やがて以前のように素早く、しかし内容はより高度なる著作活動を行えるようになる――ハズなのであるが、見込みは薄い気がするなぁ。。

桜と別れ

2010-04-04 10:47:01 | 精神文化
蘇軾はかつて、「人有悲歡離合,月有陰晴圓缺」と詠った。
人間には出会いもあれば、別れもある。月が満ち欠けをするように。

仏教の八苦(「四苦八苦」の八苦)の一つに、「愛別離苦」というものがある。別れが苦しいのは、人間の本性である。

電話機の普及と電子メールの発明で、別れの酸味は少し薄まった。それでも、やはり本当に別れなければならない時は、依然として存在する。

かのエジソンは、晩年、死を目前にして、霊界との通信機を発明しようとした。その執着には、悲哀を思わずにいられない。

--------------------

古代中国の詩歌では、出会いと別れのトポスは月であったが、
思うに、現在の日本に於けるそれは、桜なのではないかと思う。

かつて紀貫之は「散るといふことは 習はざらなむ」と詠んだ。
しかし、散らない桜には、別れがない。それはもはや人生ではない。

春は、出会いと別れの時節である。そしてそれを象徴するのが、桜なのだろう。
日本人はこれを愛し、ソメイヨシノを接ぎ木で増やしまくり、周り中をピンク色に染め上げるという一大ファンタジーを出現させた。そして、それらは同一遺伝子であるために、一斉に咲き、一斉に散る。
この劇的な演出には、人生の別れに対する、凶気にも似た思いを感じざるを得ない。

続・任継愈について

2010-02-13 00:40:20 | 精神文化
人を褒め称える際には、スケールが大きければ大きいほど、楽である。
そこで、先程の記事ではかなり大きな話をしてしまった。
しかし、もうちょっと身近なスケールで、彼を称えることのできる功績がある。


任継愈に対する追悼文を書こうとして資料を集めていたら、彼がその師湯用彤のために書いた追悼文が出てきた(『中国哲学史論』所収「悼念湯用彤先生」)。
これは面白い偶然だ、と思って読んでいると、この中には、任継愈の意外な業績が記されていた。

湯用彤には『漢魏両晋南北朝仏教史』という歴史的名著がある。
文章は古雅で、地の文と引用文の別が分かりにくいという難解なものだが、その学術的水準は間違いなく高い。任継愈の『中国仏教史』とは較べ物にならない。
しかし、この本は共産中国成立前に書かれたものであるために、当然、唯物史観など少しも踏まえていない。
1950年代に北京でこの本が再版されたが、その時、末尾に「重印後記」なるものが付された。この「重印後記」では、マルクスやエンゲルスの文を引きながら、本書が「唯心論」的に書かれたことについての反省と、自身の唯物史観への転換、そして余力がないために全面的な改訂を行わずに再版することについての遺憾が表明されている。

もちろん、こんなのはカムフラージュである。
革命前の本をそのまま出せばどのような批判を浴びるかわからないが、マルクス主義に従って全面的に書き改めれば学術的レベルは確実に激減する。
そこで、窮余の策として、内容はそのままにしつつ、反省文らしきものを末尾に付して、批判をかわそうとしたのである。
最初にこの「重印後記」を読んだ時には、湯用彤もなかなかやるじゃん、と思った。

しかし、「悼念湯用彤先生」が言うには、
どうやら、この「重印後記」は任継愈が書いたものだったらしい。
なるほど、確かに、これだけうまくマルクス主義に媚びる文章は、湯用彤には書けまい。任継愈ならではの技である。
そして、任継愈が「重印後記」を代筆したからこそ、湯用彤は安心して「唯心論」的に書かれた『漢魏両晋南北朝仏教史』を共産中国下で堂々と再版することができたのであろう。


一年程前、私はこの本を手元に置いておこうと思って神保町を歩き回ったが、どの本屋にもなく、最終的に代々木の東豊書店に行った。
書籍が棚に収まりきらず、棚の上から天井に至るまでぎゅうぎゅうに詰め込まれ、平積みになって通路を塞ぎ、それでも足りず、棚の間に棒を渡してその上にも本を乗せるというオソロシイ密度で本がある、トンデモナイ本屋である。この本屋に来れば、古い本は大抵ある(もし見つかれば、だが)。
この東豊書店で『漢魏両晋南北朝仏教史』を探すと、旧版と新版の二種類が見つかったのだが、何故か旧版は下巻だけが二冊あって、上巻がない。店のおじさんも「あれー、おかしいなー」と言って探してくれるのだが、段々本の山が崩れてきて、大惨事の手前に突入してきたので、新版を買った。
この新版が、すなわち、任継愈が「重印後記」を代筆して出版を実現したものである。

私も、こんなところで任継愈の恩恵に預かっていたことを、今更になって知った。


彼のマルクス主義に傾倒した言説も、このような形で役に立つことがあったのだ。

------------------------------

ところで、私の師から聞いた話だが、任継愈の唯物史観にまみれた記述も、実は本気だったのかどうかアヤシイところもあるらしい。

以前、師が、任継愈から翻訳を頼まれたことがあるらしい。
彼は面倒だから断り、結局その仕事はしなかった。
しかし、その時、任継愈はこのように言ったという。
「自分の著作の中で、マルクスとかエンゲルスとかの言葉を引用した部分は省略していい。これらを抜いても前後の意味が通るように文章を書いてある」と。

どうも、マルクス主義が中国の主流思想でなくなった場合も見越して著述を行っていたのではないだろうか。
というよりも、マルクスの引用は単なる政治的ポーズであり、文章技巧であって、内容的意味は全くないのではないか。

以上のように、師は言う。


本当のところは、本人が死んでしまった今では知りようがないが、
もし師の言う通りだとすれば、誠に中国の学者といえよう。
古来、中国の知識人というのは、いつの時代でも、
このような裏表を使い分けて学問を修めてきたものなのである。

任継愈について

2010-02-12 22:14:28 | 精神文化
昨年7月、同じ日に季羨林・任継愈という二人の大学者が亡くなった。
しかし、季羨林に比べて、任継愈はあまり評判がよくない。
まず、その研究にあまり新しい意見がない。
そして、何でもかんでも唯物論的に記述したからだろう。

かなりの博識で、古代から近代に至るまで、諸子百家に儒仏道、史学・文学・自然科学に渡って、更には近代西洋の概念まで用いて著作をなしたが、その多くは、優等生の書いた教科書、に過ぎない。
実際、彼の『中国哲学史』は、40年以上に渡って、中国の哲学科の大学生向けの基本教材として用いられ続けた。しかし、学術研究として見ると、ほとんど旧来の定説を離れておらず、もの足りない。

そして、旧来の説と異なるのは、ただ、唯物論的に思想史を記述したことのみである。
仏教が如何なる経済・政治的状況の上に生まれたのか、ある時代の儒教学説がどのように抑圧者の利益に貢献したのか、一貫してこのような視点で語っている。



ただ、このように言うこともできる。
彼の学問は、常に一般大衆を対象としたものであり、そして、新しい時代の新しい哲学を生むことを目指したものだったのである、と。


そもそも、任継愈が中国哲学史の研究を始めたのは、一般の人々のことを考えたからであった。
彼は当初、真理や永遠性といったことの追究を志し、哲学科にいた。
しかし、1938年、盧溝橋事件に伴う大学南遷の旅中、困窮した農民と荒廃した農村を目の当たりにした。ある労働者に「何故アヘンを吸うのか」と尋ねると、
「吸得起,戒不起(吸うための金はあるが、やめるための金はない)」と言われたという。
つまり、アヘンは安価だが、吸うのをやめれば仕事ができないのだ。こうした貧困・落伍に対して、真理や永遠性の探究がどうして役に立つであろうか。
これをきっかけにして、彼は中国に根ざした思想研究を志し、中国一般大衆の文化的レベル向上という目的意識を掲げたのである。

晩年にも、以下のように語っている。
個人でいくら才能があり、いくら努力しても、その社会全体の大きな流れに沿うものでなければ何の作用も期待できない。そして、社会全体の知的レベルが低ければ、社会の問題を正確に認識して解決することはできず、甚だしくはエリート層までもが参加して愚かな行いをすることになる、と。
そして、このような考えの下で、「民族的認識」「群体的認識」のレベルアップを自らの任務とした。

つまり、民智の向上を目的としたからこそ、高度な語彙をちりばめた学術的レベルの高い研究ではなく、平易な文章で定説を普及させる教科書的著作を発表し続けたのである。


また、新しい時代の新しい哲学について、任継愈は以下のように考えていた。
中国の過去の哲学と連続するものであり、旧哲学から完全に離れて一から建設したり、外国のものを全て移植したりするものではない。将来の中国文化が外来文化を吸収するのにあたっては、もともとあるものの上に接木をすることはできても、溶接で無理にくっつけることはできない。
中国哲学の歴史的任務は、当時の人間が持っている知識を利用し、吸収できる文化的遺産を吸収し、中国哲学史上の具体的内容と結合させ、社会主義の要求に答える中国独自の哲学体系を創建することである。
等々(『任継愈学術文化随筆』所収「従中華民族文化看中国哲学的未来」)。

新しい時代の新しい中国の大衆の要求(任継愈はこれをマルクス主義と考えた)に答える新しい哲学体系の構築が必要なのであるが、その新しい哲学体系も中国の伝統的な文化や哲学と整合するものでなければならないと考えていたのである。そのための試みの一つが、新時代の語彙によって、伝統文化中の様々な事柄について記述し直すということだったのではないだろうか。つまり、新しい時代の概念を用いて伝統文化を理解することによって、新しい文化と伝統文化との間の連続性を実現しようとしたように思われるのである。
そして、第一の理念、一般大衆の知的レベルを向上させるというのも、この第二の理念と連環するものであった。新しい哲学体系は「群体的認識」から乖離しては社会的に効力を持ち得ない。そもそも、全体的な民智が低ければ、新しい時代の問題を正確に捉える概念が生まれることすら難しい。この第二の理念を実現するためには、第一の理念の実現が不可欠なのである。


そして、これらの理念は、著作のみならず、その編纂事業にも反映されている。
彼が主編を務めたものだけでも、『宗教詞典』・『道蔵提要』・『中国科学技術典籍通彙』・『中国蔵書楼』・『中国版本文化叢書』・『墨子大全』・『仏教大辞典』・『中華大蔵経』(漢文部分)、『中華大典』等々多数に上る。
こうした事業は、中国文化について分野の壁を越えた綜合的・体系的な研究を促すためのものであるとともに、その成果を一般に供するためのものでもあった。
彼自身、このように語っている。「今回の古代科学技術典籍の整理は、まだ初歩に過ぎない。……(中略)……現在はまだ、一般の読者の閲読に供するための、点校注釈本や訳文を付した普及版を出版するほどの力量はない」(『中国科学技術典籍通彙』総序)、「我々の国家の現状から考えるに、古籍をしっかり加工した整理事業が本当に必要である。ただ影印本を出すというだけではいけない」(『世紀老人的話 任継愈巻』、pp.130-131)
伝統文化・伝統思想の粋を、専門家以外の人間でも吸収できる形で広く公開することを目指したのである。そして、それは古今東西のあらゆる分野の知を融合させた、中国独自の新しい哲学体系を成立させることを最終的な目的としていたといえよう。



私は、一般論として、
ある一つの明確なイデオロギーによってなされた学問は、
その時代には大きく流行するかもしれないが、
数百年という単位では長続きしないものだと思っている。

任継愈の学問も、マルクス主義の色彩が強すぎるために、
もはや現在すでに古臭いものとなっている。
しかし、表層の言葉から一歩掘り下げて眺めた時、
そこには何か普遍的な理念が見出せる。

現在、彼の著作を引用する論文はほとんどない。
しかし、彼の思想は、決して過去のものではなく、
我々の進むべき、一つの方向を示し続けているように思えてならない。

墓石とコンクリート

2010-01-27 10:50:45 | 精神文化
春、コンビニの警報ランプの上にツバメが巣を作っていた。
何羽もヒナが生まれて、ぴーぴー鳴いていたのを記憶している。

ある日、一羽のヒナが死んでいた。
そこで、裏のハナミズキの根元に埋めた。

先日、いつものようにコンビニに行くと、
ハナミズキのあった場所に電柱が立っている。
そして、地面はすっかりコンクリートで覆われている。

死体を埋めた時には、
生きているヒナに病気が移らないように、
としか考えていなかったが、
いざコンクリートで覆われてみると、
完全に潰されてしまったんだな、という思いが湧く。

もっとも、彼らから見れば、
我々人間が、死体を埋めた上に墓石を立てるのも、
コンクリートで覆うのと大差ないであろう。
どちらも、死者を地中に固く封印するように見える。


実際、墓石というのは、元々そういう役割を意図したのかもしれない。

かつて、死者というのは、
生前どんなに仲がよく、恨みが全くなくても、
生者、特に身内に祟るものであった。
古代中国の道教では、
「注連」(死者が生者を道連れに引き込む)ということが説かれ、
死者が遺族に害をなさないように様々な儀式が行われていた。

近代的な言葉で表現するならば、即ち、伝染病である。
死体のすぐ近くにいるというのは、衛生上非常に危険な行為である。
特に昔は、火葬をしなかったから、死体から疫病に感染する者も多く、
菌やウィルスを知らない人々は、それを「祟り」「注連」として畏れたのであろう。

故に、
地中深くに埋めるのみならず、上に重い石を置いて封印し、
地上の生者に影響を及ぼさせないようにしたのではなかろうか。