道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

何ぞ必ずしも楚ならんや

2011-04-13 23:12:46 | 政事
 以前も取り上げたが、石原氏には失言が多い。彼が議会で知事選立候補を表明した日に大地震が起こり、彼が当選した次の日にも大きな余震があったのは、彼の言葉を借りれば「(石原への)天罰」と言えそうな気すらする。

 そもそもメディアというものは、悪意を以って発言を切り取る。禁止コードに触れれば、恰好の餌食である。石原氏もその点をよく分かっていて、記者を嫌っているから、記者会見は常にイヤな感じだ。彼の気持ちもよく分かる。

 しかし、その例外だったのは、「花見自粛」令。

 後に言い訳をしていたが、その前後の内容を踏まえれば、その概要は、「戦時中は花見などせず、皆で団結して頑張って危機に立ち向かった。だから花見など論外」というもの。
 花見を「自粛」するというのならともかく、ここで「戦時中」の「団結」を持ち出すのが、イケていない。個々の可能性を狭め、全てを一つの目的に集約しようとしたがために、日本は無謀な戦争に突入し、不毛に負けたのである。不自然な「団結」は視野狭窄を生む。少なくとも、このような文脈で戦時中を語るべきではない。

 むしろ、石原氏は単に「花見自粛」とだけ報じられたが故に、メディアに助けられたのかもしれない。



 後に、彼は言い訳をしていた。大勢の人たちが苦しんでいる中で花見なんか楽しむ気になれないだろう、という具合に。しかし、これは言い訳に過ぎない。

 日本の東北地方に限らず、世界を見渡せば、非常に大勢の人たちが、常に苦しんでいる。
 もしも石原氏の言うような気持ちがあるのなら、いつまで待っても花見なんぞはできない。一生暗い気持ちで人生を過ごさなければならない。
 人類に不幸は絶えない。ならば、彼は一生花見ができないはずだ。

 実際には、そんなことはなく、彼は東北地方の人たちを花見中止(と「日本人の美しき団結」)のダシには使うが、地球の反対側にいる人たちの苦しみについては、ノータッチである。
 彼の考え方について云々言う以前に、そもそも彼の理屈自体が破綻している。


 『説苑』至公篇に曰く、
「楚の共王が、猟に出て弓を置いてきてしまった。左右の臣下が、王にそれを告げると、共王は言った。“止めよ。楚人が弓を遺(わす)れ、楚人がそれを得た。何も問題あるまい。”しかし、これを聴いて孔子は言った。“惜しいなあ。どうせなら、‘人が弓を遺れ、人が之を得たのみ、とでも言えば良かったのに。どうして‘楚’(の人)である必要があろう”」


 都知事には、視野の広さ、人類の一員という幅、これらが足りていない。

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