道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

競馬場グルメ

2006-05-28 22:04:27 | 街中
東京優駿、すなわち日本ダービーが開催される東京競馬場は府中にあり、
私の家からは歩いて行ける。
しかし、中学高校時代は中間試験や学園祭の準備の時期であり、
大学に入っても毎年学園祭の日と重なり、
なかなか行くことができなかった。

今年はなんとか時間ができ、せっかくなので野次馬根性を出して行って見ることにした。

200円の入場券を買い、荷物チェックを受けてから入場すると、
馬券購入表を片手に新聞を地べたに広げてにらめっこする人、
床に散乱する外れ馬券、酒を飲んで大画面に向かって騒ぐ団体、
とにかく活気に溢れかえっていた。

私は、ここ最近の競馬事情はさっぱり分からないので、
レースの結果には興味はないし、馬券も買わない。
しかし、こういうお祭り騒ぎの雰囲気は大好きである。
また、テレビなどで見るより、生で見た方が、
馬がどれだけ速く走るかが分かるし、走る姿も美しく見えた。
なかなか楽しい経験であった。

さて、せっかく競馬場に来たので、競馬場の中でご飯を食べてみることに。

競馬場の中には飲食店は多く、行った時間も3時近くであったのにも関わらず、
どこもかなり混んでいる。
以前、友人が場内の天丼屋でバイトして、勤務のハードさに辞めたことがあったが、
推して知るべきであろう。

まずは地下の飲食店エリアで枝豆を買ってみたが、100円の割りに量が多く、なかなか良心的。

その後、外のスタンド近くのレストランでソースカツ丼のセットを注文。
650円に対して量も十分、味噌汁とご飯もなかなか良い。
しかし、カツがどうにも油っこい。少し胸に来るくらいである。
「勝つ」ために懸命な勝負師たちにとっては、油っこさが必要なのであろうか。

レースが終わった後、場外に並ぶ焼き鳥屋で焼き鳥を三本。
大分昔からある店で、おばあさんがうちわをパタパタやりながら焼いてくれる焼き鳥は、
味は普通であるが、雰囲気がなかなか趣のあるものであった。

次はもっと時間のある時に、友人でも誘って、
レースが終わった後にあの焼き鳥屋で一杯引っ掛けて行きたいものである。

ハッタリ半蔵

2006-05-28 21:24:20 | 音楽
以前、ブラームスのヴィオラ・ソナタ第2番の第2楽章の伴奏をすることになったと書いたが
http://blog.goo.ne.jp/pingzebu/e/79a1fb945bb7e4a441574b38bc565afb)、
ついに本番の日を迎えた。

前日の合わせで、録音をして自分たちで聴いてみると、
テンポが間延びして、実につまらない演奏であった。

そのため、本番では、とにかく間延びしないように、テンポよく弾くことを心掛けた。
ところが、私が本番前に色々トラブルがあって時間を取られ、
駅から走って出番ギリギリに会場に到着。
そんなこんなで、指も温まらないまま、気ばかり焦って、
ミスばかりの八方破れの演奏に。。
ヴィオラを弾いていた子には悪いことをした。

しかし、普段から色々な失敗に慣れているせいか、
本番前に、手のひらに「酒」と書いて飲んだおかげか、
とにかく、失敗してもあわてず平然としていられ、
「これが譜面通りの演奏だ」と言わんばかりにピアノを弾いた。

曲を知っている人はもちろん、知らなくても多くの人は失敗に気付いたであろう。
かなり目立つ失敗を何度かした。
しかし、中には、「ミスなんてしたの? 気付かなかった」という人もいた。

気を遣ったお世辞かも知れない。
けれども、リズムは崩さず、堂々と弾いた自信はある。
むしろ、ミスをして、それを荒々しく踏み潰した分、
かえって迫力ある演奏となったのかもしれない。
そう考えると、「不毛の荒野を馬に乗って駆けていくようなイメージ」という、
私のこの曲に対する印象通りなのかもしれない。


ともあれ、失敗は失敗である。
実力・練習・調整が不十分であったことは確かである。
そして、ギリギリの到着で気持ちを整理する時間がなかったのは仕方なかったにせよ、
せめて待っているわずかな時間に音源を聴いておくべきだった。
反省すべきことは多い。

けれども、八方破れの中で開き直って、ポーカーフェイスで弾き続ける、
こんな自分の図太さに少しだけ感謝したい。

「英語は小学校から必修にすべきだと思いますか?」

2006-05-23 00:53:12 | 言葉
先日、とある新聞社が、小学校での英語教育についてアンケートを行ったのだが、
その結果は、半数が小学校における英語必修化に反対であった。
そして、その反対者の大多数が「国語がおろそかになる」という理由であった。

これはおかしい。
英語教育の結果、何故国語がおろそかになるのであろうか。

まず、学習時間ではあるまい。
現時点での文科省の案では、総合学習の時間の一部を割り当てるというものであり、
国語の時間を削って英語にするというわけではない。
そのうち、英語学習の時間がなし崩しで増えて、
総合学習以外の時間にも割りこむかもしれないが、
それなら、「算数教育が云々」「社会科教育が云々」という意見でも良いはずである。

「最近の日本語の乱れ」を指摘する人もいるが、
早期の英語教育開始により、日本語の文法と英語の文法がごちゃまぜになるわけではあるまい。
ありえるとすれば、英語を学ぶことで、カタカナ語が増えることである。
しかし、「リスペクトする」「ソリューションを提供する」などの言葉は、
教育の影響よりは、テレビなどのメディアによる影響の方が強いであろう。
むしろ、英語教育によって、「テンション」「モチベーション」などの本来の意味を知り、
誤用されがちなカタカナ語の修正にだってつながるのではなかろうか。

「日本人の感性や情緒が育たない」というものもあるが、
それはまさに国語教育・社会科教育のやり方の問題であり、
あるいは家庭や地域での育て方の問題である。
英語は関係ない。
少し英語を習った程度で失われるほど、
「日本人らしさ」とは純粋培養されなくてはならないものであろうか。
「敵国の言葉は使わないこと」としていた戦時中を例に出すまでもなく、
ばかばかしく、かつ危険な発想である。

むしろ、英語や英語圏の文化を知ることで、
日本語や日本文化について見えてくることもあるはずである。
『孫子』に「彼を知り、己を知れば、百戦殆からず」とあるが、
「彼を知る」が「己を知る」より先に来るのは意味があるだろう。


ここまで、英語教育賛成派のように論じて来たが、
実は私自身は、小学校で英語教育を始めることについては、懐疑的である。
というのは、すでに小学校で英語が必修化されている中国の学生と話したりしても、
日本の学生以上にできるという印象は受けなかったからである。
もちろん、中にはぺらぺらなのも多いが、
日本の学生だって、英語ぺらぺらな人くらい、たくさんいる。
いわゆる今のような英語教育であれば、
小学校から始めようが中学校から始めようが、日本の国際化、という観点からすれば、
たいして変わらない。

先日のブログで述べた通り、外国語を学ぶ上でもっとも大切なことは、
分からないことがあったら、相手にとことん訊くことである。
そのためにも、相手と自分が全然違うことを知り、
かつそこで諦めずに、スマートではなくても、
何とか理解し合おうと色々頑張ることを覚え、
そして、分かり合えた時の嬉しさを体験することが必要である。

もちろん、文科省の方針は、建前としてはそれを踏まえたものであろう。
だから、総合学習の時間で、「国際的に云々」という文句を掲げて実施しようとしている。

しかし、私が思うに、小学校では「英語」ではなく、
「異文化コミュニケーション」であるべきだと思う。
日本語が分からない(もしくは分からないフリをしている)先生と、
生徒が必死でコミュニケーションしながら一緒に遊ぶというものである。
言葉なんて必要に応じて覚えて行けば良いし、文法はどうせ中学で習う。
大切なのは、「言葉が通じない人がいる」ということを身をもって知り、
「それでもがんばればちゃんと分かりあえる」ということを体験することである。


今の英語教育推進論者を見ていると、
小さい時に発音を云々だとか、中学校より前に始めないと不十分だとか、
英語へのコンプレックスから来ているような論が多い。
むしろ、私だって、英語にはコンプレックスがある。

しかし、こうした「いい発音」「ちゃんとした英語」への強すぎる意識が、
会話練習においては、むしろ英語の上達を妨げているのだと思う。
言語が話せるようになるために一番大切なのは、
発音が下手だろうが文法が滅茶苦茶だろうが、
それでも構わず話すことである。
そして、恥ずかしがらずに、分からないことを訊くことである。

そのためには、英語教育だけではなく、他の授業も変わる必要がある。
分からないところがあっても質問しにくい雰囲気、
間違っていそうだから自分の考えを言わないでおく雰囲気、
こうした雰囲気に慣れてしまっては、積極的な国際人になるのに苦労する。


しかし、この「周りの空気読んで発言を控える」というのは、
日本人の感性や情緒とも言える。
そう考えると、この雰囲気を変えることが必要だという私の主張は、
「英語教育は、日本人の感性や情緒が育たなくなる」という主張に一理与えているのかもしれない。。
うーん。。

聞くは一時の恥

2006-05-19 15:08:03 | 言葉
授業を受けようと教室に行くと、
前の時間の先生と学生がまだ残っていて、英語で何やら話していた。

彼らが出て行った後で、隣に座っていた知り合いが、こう言った。
「なんだか噛み合わない話でしたなぁ。
 学生の方は半分も聞き取れていないのに分かったつもりになっていて、
 先生の方もそれを直さない。
 こういうのが一番危ないんですわ」

この人は、同じ学科の同級生であるが、長い間商社に勤めてきたため、
数多くの海外駐在員経験がある。
(入学時に会社を辞めようとしたが、会社が辞めさせてくれず、実は現在も仕事を続けている。60歳を過ぎて、二足のわらじで、仕事と学業両方を真面目に頑張っている、すごい人である)

「お互い分かったつもりになっていて、実は理解にずれがあるなんて、
 よくあることなんですわ。
 部下に交渉に行かせた後、いざ自分で先方に行って話してみると、
 相手の話と部下の報告が全然違ったりするんです。
 だから、私は自分の耳で、きちんと理解したことしか信じないし、
 話してて分からんことがあったら、何度でもしつこく訊き直しました」

きっと、色々苦い目に遭って来たのだと思う。
非常に実感のこもった話である。

「とにかく、外国語で話す時は、怪しいところがあったら、何度でも訊く。
 厚顔無恥にならなきゃいけませんな。
 だいたい、日本語だって、完全に分かっておるわけじゃないんですから」

まことにその通りだと思う。
実に耳が痛い。
私も、話してて聞き取れなかった時に、相手の話を遮りたくなかったり、
あるいはちょっとかっこ悪いからといって、いちいち訊ねることを面倒くさがりがちである。


知り合いで、外国人の彼氏といつも英語で喋っている人がいるのだが、
経歴を訊いてみると、家庭の事情で高校は中退、中学も登校しないことが多かったという。
つまり、学校教育では、中学の最初で習うような基本事項のみしか学ばなかったのだ。
それでも、今は非常に流暢な英語を話す。

彼女の話を聞いてみると、英語を使い出した当初は、全然話せなかったらしい。
しかし、話している時は、とにかく分かるまでしつこくしつこく訊いて、
彼氏も面倒がらずに丁寧に分かるまで教えてくれて、
その結果、ほとんど問題なくコミュニケーションできるようになったという。


外国語を使う上で大事なのは、
何度でも聞き返し、きちんと分かるまでとことん突き詰めることなのである。

「責任感が強い」

2006-05-18 13:09:46 | 言葉
いつもは中国人の先生と日本人の先生との討論を聴く授業、
今日は日本人の先生がお休みだったので、
中国人の先生と我々学生とが討論することになった。

討論の中で、「魯迅の社会批判は、社会批判という形式を超えて、罵倒である」
という話になったのだが、その際、
「魯迅が採った手法は『毒を以って毒を制す』であり、
 自ら毒の役割を担当したのは、人一倍責任感が強かったからだと思う」
というような言葉を、そのまま中国語で言った。

すると先生はこう言った。
「『人より責任感が強い』という表現はちょっとおかしい。
 人は誰でも責任感を持っているものであり、
 その強さ弱さというのは、頭の中のことだから、他人が分かることではないし、
 誰かの責任感が、他の誰かの責任感より強い、ということは言えない」

それはそうなのであるが、ではどのように言えば良いかについて訊ねると、
「この問題について、彼は責任感を保持した」とのこと。

そうすると、中国語的感覚で「責任感」というのは、
とある問題に対して「ある」のか「ない」のかというものであって、
一個人の「責任感」という要素が「強い」「弱い」という考え方はできないのかもしれない。

なんでもないことのようであるが、こういった語感の違いが、
「戦争責任」などの問題を考える際に重要な要素になるのではないだろうか。

運転免許試験場グルメ

2006-05-14 21:02:42 | 街中
今日は免許の更新をしに、運転免許試験場に行ってきた。
……とは言っても、自転車で10分。近所なのである。

府中運転免許試験場は、速度制限なしの東八道路沿いで、坂を上がりきったところにある。
また、近くに廃棄物処理施設、火葬場、葬儀場があり、
そして道路を挟んで向かい側に、多磨霊園がある。

免許を取った当初は、「ゆりかごから墓場まで」ではないが、
「免許取得から……」というストーリーが東八道路沿いだけで
出来上がってしまいそうなのが何となく嫌であった。

ついでに言えば、東八道路をもうちょっと西に行くと、少年院があるが、
さすがにこれを組み入れてストーリーを想像するのは、あまりに趣味が悪い。


免許取得からこの3年間、
無事故無違反無運転で、人にも車にも環境にも優しい優良ドライバーであったので、
幸い、火葬場にも墓場にもお世話にならず、
意味があるのかないのか分からない免許を更新することができた。

しかし、免許の更新とは少々面倒なことである。
受付時間帯が限られていて、
平日の昼間が空いていない人間は、日曜の3時間に殺到するしかない。
そして、何とか午前中の手続きには滑りこんだが、
講習が始まるまで一時間ほど待たされる。
そして、初回は、講習時間も2時間かかる。
私のように近所の人間ならまだマシだが、
遠くから来る人は、一日がかりになってしまうだろう。

さて、講習が始まるまでかなり時間があると言われたので、
試験場内を探検してみようとしたのだが、事務窓口と講習室ばかりでつまらなかったので、
結局地下の食堂でちょっと早めの昼ご飯。

レパートリーの多くない中から、550円でとんかつ定食を頼んだ。
あんまり愛想の良くないお兄さんから受け取って、席に着いて、
まずはご飯を一口。

……うむ。不味い。
米自体の味というよりは、水加減と炊き加減が失敗している。
食堂というのは、ご飯だけは大量に炊く分だけ美味しいハズであるが、
ここのご飯は、うちの学食の次に不味い。

そして、気を取り直してキャベツに箸をつけると、しなびてる。
昨日切ったキャベツでも、こうはならないハズなのだが。。。

それでも、メインのとんかつは、まぁまぁだったのが救いである。
衣はさくさくで、肉の厚さもちょうど良い。

しかし、550円であの量というのは、食堂にしては少ない。
うちの学食より少ない。

とんかつ定食はこんな感じである。
とても免許皆伝とは言えない。。

オススメのメニューはチャーシューメンだというが、
果たしてどれだけのものなのであろうか。


それでも、アイスクリームを売っていたり、
焼きおにぎりの自動販売機なんて面白そうなものもある。
何より家からこれだけ近いのだから、
そのうち気が向いたら昼ご飯を食べに来てみようかな。

ハッピーバースデイ

2006-05-13 23:26:42 | その他雑記
誕生日を祝いに友人の部屋に行って来た。

普段なら授業をサボって行くところであるが、
あいにく5時限が、私一人しかいないゼミであったのでサボるわけにもいかず、
授業が終わった後で遅れてパーティーに参加。

それから、みんなで酒飲んで騒いで、非常に楽しかった。

友人の学友が何人かいて、
私が遅くに到着したため、彼らとは十分に話をできなかったが、
みんな面白い人たちであることはすぐ分かった。

その中に、台湾からの留学生がいて、ずっと台所にいて、
どんどん料理を作ってくれたのだが、どれもとても美味しい。
そして、すばやくて、とても慣れた手つきであった。
話してみると、ラーメンを打つこともできるし、
中華のみならずイタリアンもいけるとか。

うーん、すごい。

そういえば、バイト先のラーメン屋の社長が、
ラーメンを手打ちできる人が欲しいとか言っていたのを思い出し、
そのことを言うと、彼も乗り気で、連絡先を交換した。

彼の誕生日なのに、
知り合いを紹介してもらって、私が一番得をした気がする。

ともあれ、お誕生日おめでとう。

授業をサボってアキバへ

2006-05-11 13:01:26 | 言葉
昼休みに研究室で本を読んでいると、
先輩に「秋葉原のじゃんがらラーメン食いに行こうや」と誘われ、
3限の授業をサボって一路秋葉原へ。

私はじゃんがらラーメンを知らなかったのだが、かなり人気のようで、
平日の一時過ぎなのに行列が。
それでも、さすがはラーメン屋、回転が非常に早く、
すぐに我々も店に入れた。

味はなかなか良いが、値段は少し高め。
ビールまで飲ませてもらって、先輩、ごちそうサマでした。

お勘定の時に、先輩が店員のお兄さんに、
「ここらにメイド喫茶ってあるか? どれがオススメだ?
 あんたの好みでいいから」
という。

店員さんは非常に丁寧に答えてくれて、
店を出た瞬間、我々は大笑い。

しかし、店員をからかい半分、二人とも行ったことがなかったし、
せっかく昼間からアキバにいるのだから、本当に行くことになった。


ラーメン屋の店員さんに教えてもらったメイド喫茶はすぐに見つかった。
店にに入り、カウンターのお姉さんに声をかけると、
「おかえりなさいませ、ご主人様」
……本当に言うのか。。

そして、コーヒーを頼んだら、運んで来る店員さんが、
「ホットコーヒーをお待ちのご主人様~」
……うーん、「ご主人様」が何人もいると、こんな不思議なセリフが成り立つのか。。

仕事の合間に店員さんが話し相手になってくれるようで、
「やっぱり夜の方が客は多いのですか?」
「はい、夜の方がご主人様は多いですね」
「平日の昼間ってどんな客が多いんですか? やっぱり学生ですか?」
「はい、学生のご主人様も多いですが、でも、普通のご主人様も結構いらっしゃいますよ」
……「普通のご主人様」って。。。

なかなか愛想はよくて、話はしてくれるけれども、
言葉がなんとなく耳に障るのと、
相槌の打ち方も、マニュアルがあるのか、ちょっと長々しくて話のテンポをさえぎる。

店員とプリクラを撮るサービスがあったり、女性客が多かったり、
一度は来てみると色々おもしろいが、
「いってらっしゃいませ、ご主人様」と送り出されて、
また「ただいま~」と帰って来る気にはなれない。

ぶらり途中下車

2006-05-09 22:05:02 | 街中
今日は夕方、気の向くまま仙川で途中下車。
駅前の繁華街をぶらりぶらり。

最近は忙しくてなかなか立ち寄らなかったが、
以前来た時と同じような街並みで安心する。

しかし、変わっていないハズだが、発見も多い。
例えば、戸越銀座でいつも見ていた
スーパーつるかめや、お菓子のまちおかがあって、
チェーン店だったことを知る。
また、ピザ味やお好み焼き味まである鯛焼き屋さん、
調布だけだと思っていたが、仙川にもあった。

他の街を知った後で来てみると、
異なる視点から新たな発見があるものである。

二桃殺三士

2006-05-07 19:00:18 | 形而上
諸葛孔明が好んだという「梁甫吟」という詩の中に、
「二桃、三士を殺す」という句がある。

これは『晏子春秋』に掲載された、以下のような逸話が典故となっている。
昔、斉の国に三人の勇士がいた。
この勇士の扱いに手を焼いた宰相晏嬰が三人に二つの桃を与え、
「それぞれの功労の大きさに応じて分けなさい」と言った。
すると、三人のうち二人が一個ずつ桃を自分のものにした。
そこで、桃を手にできなかった者は自分の能力の高さと功労の大きさを主張すると、
桃を取った二人は彼に自分が及ばないことを知り、桃を取ったことを恥じて自殺した。
そして、残った一人も、二人を自殺させてしまったことを恥じて、やはり自殺した。

桃二つのために三人が不幸になって死んでしまうとは何ともバカな話であるが、
彼らにとって「桃」は「名誉」のことであり、勇士として命を賭けるものであったのだろう。


さて、この話では「桃」は「名誉」の意味であったが、
これを「恋愛」に置き換えるとどうであろう。
三角関係の果てに悲惨な結末に陥るという筋書きは悲劇の定番であるし、
現実でも、恋愛関係のもつれから不幸に陥る者はいる。
我々は、晏嬰の策略にはまった三勇士を笑えるであろうか。


漫画家の坂田靖子は、作品の中でこんなことを書いた。
「アーサー王は 自分の王妃と騎士ランスロットとの仲を許すべきだったんだ
 そうすれば3人のうち 少なくとも2人は幸福になったんだ
 3人のうちの2人だよ!
 ―――それに残ったひとりだって
 そのうち 何かのまちがいで幸福にならないとも限らないじゃないか―――」

「何かのまちがいで」という最後の言葉が実に良いと思う。