道草あつめ

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石原氏「天罰」発言について

2011-03-15 10:48:05 | 政事

 石原都知事は昔から失言が多い。本人は失言だとは思っておらず、好き放題言っているだけなのだから、もう直らない。直らないのだが、10回に1回くらいは良いことも言うから、それで都民に受け入れられている側面が強い。

 しかし、今回はさすがにひどい。

 

「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」(「デイリースポーツオンライン」2011315日付より)

 

「我欲」や「ポピュリズム」ということは、その通りだろう。しかし、そのために津波が起こったというのはおかしい。旧約聖書の読み過ぎだ。

地震発生以降、ネット上では「不謹慎」という言葉が蔓延し、往時の「非国民」という言葉の如く、我々の言動を制限しようとしている。私自身はこの雰囲気を好きになれないのだが、それでも言わせてもらいたい。石原氏のこの発言は、不謹慎である。

 

 凡そ二千年、自然災害の仕組みが(自然科学的には)解明されていなかった時代では、確かに石原都知事のように「天罰」として理解する考え方があった。魯の荘公二十四年(B.C.670)に起こった水害について、劉向(B.C.77- B.C.6)は以下のように言う。

 

「……又淫於二叔,公弗能禁,臣下賤之。故是,明年仍大水((荘公の妃である哀姜が)二人の舅と浮気し、それを荘公は止めることができなかったので、臣下が荘公を蔑んだ。そこで、この年と翌年と二年続けて大水害があったのだ)」(『漢書』五行志引劉向『洪範五行伝論』)

 

また、文公九年(B.C.618)の地震については、以下のように言う。

 

「……諸侯皆不肖,權傾於下。天戒若曰:臣下彊盛者將動爲害(当時の諸侯はいずれもできが悪く、権勢が臣下へ移ろうとしていた。そこで天が戒め、以下のようなことを伝えようとしたのだ。臣下が権力を持って、君主を脅かそうとしている、と)」(同)

 

劉向の説によれば、いずれの場合も、為政者がだらしなく、臣下を増長させたために災害が起こったものとされる。そして、為政者はこうした天災を見て、自らの行いを戒めなければならない、ということである。劉向というのは学者と政治家を兼ねた人物であり、彼から見て600年も前の出来事についてこうした解釈を施すことにより、自分たち為政者への警告としたのである。

 水害・地震の時、実際に最も被害を受けるのは一般庶民なのだから、天が為政者を戒めるためにこうした災害を起こすという発想は、「為政者の言動を改めさせるためには、庶民の犠牲も仕方ない」という、我々から見れば傲慢な価値観に基づくものである。しかし、当時は、そういう時代だったのである。

 

 今回の大災害について、石原氏は「天罰」と見なしたようだが、そのように見なした上で、果たしてそれが自分の責任であるという可能性は考えただろうか。自分を含めて政治家たちがだらしないから、それが「天罰」を引き起こし、何万もの死傷者を出し、何十万もの人々に避難生活を余儀なくさせた、ということは考えただろうか。

災害を「天罰」と言うのは、現代人としては幼稚な発想であるが、その上で為政者たる自己の反省に結び付けない点では、二千年前の劉向にすら及ばない。他人事のように語る彼に、「天罰」を語る資格は無いのである。

 

付記:

どうやら撤回した模様。彼にしては珍しいが、よほど反発が堪えたのだろう。本当に反省しているのなら、ここらへんで勘弁してやろうじゃないか。(「産経ニュース」2011年3月15日付


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