道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

前略、

2010-06-21 23:21:16 | 形而上
「哲学と宗教はどう違うのか」ということを訊ねられた方への回答方法について、
自ら疑問を発して前提を掘り下げ続けるのが哲学で、
与えられた前提を信じてそこから思考するのが宗教、
という考えを先ほど申しましたが、補足があります。

それは、「哲学」も「宗教」も、そして「科学」も含め、かつては一つであり、いずれも一体の「真理を求める(/求めた結果得た知識を説く)知的営為」であったことです。
そして、後世の人間が自分たちの真理探究についての価値観・方法論によって後から三者を分類したこと、です。(現代の語彙・言語によって古人の考え方を知ろうとする際の落とし穴というのは、まさにここにあると言えましょう。)


「哲学」と「宗教」とを分けるのは、近代西洋の学問体系から強くなる傾向で、
それ以前の人々にとっては、「宗教」「哲学」「科学」は分けて考えるものではなかったのではないでしょうか。
西洋に於いて大地が世界の中心であるという認識は神学に裏付けられた「真実」であり、中国に於いて「天円地方」は経書に裏付けられた「真実」であったはずです。
「神」がいる、死後に人の魂は天国か地獄に行く、といった事柄は、それとは次元の違う話ではありますが、「大地が世界の中心である」のと同じくらい実感を伴った「真実」であったはずです。

それが、後から「科学」の発展によって、世界認識の部分が切り離され、
その「科学」の世界認識と衝突しない分野での形而上の思考が「哲学」として独立し、
それ以降は「科学」「哲学」「宗教」は別個のものとして分類されて今に至ります。
そして、これは主に近代西洋人が、自ら「科学」と認めるものと矛盾する自然科学的知識を「迷信」と分類し、「科学」と抵触しない形而上的思考を「哲学」とした上で、「迷信」を含んだ自然科学的知識・形而上的思考を総合したシステムを「宗教」と呼んだのではないでしょうか。
キリスト教も仏教も日本のアニミズムも、それぞれ全く異なるものであるのに同じ「宗教」にカテゴライズされるというのは、謂わば消去法であったためではないでしょうか。

しかし、元来、「科学」「哲学」「宗教」は、当事者の認識としては「真実とされる知識の上で思考する」という点で同じものだったのではないでしょうか(「科学」については「反証可能性」によって他と区別しようとしますが、他に無い特徴とは謂えないでしょう)。少なくとも「哲学」「宗教」両者に限って言えば、ある種形而上の真理・究極・結末を求める営みであることは、古今東西共通のもののような気がします。
ですから、現在、「宗教と哲学」を説明することは可能ですが、そこから「宗教」「哲学」を分けて別々に定義する原則というのは無いと思います。上記のように、ある一つの「真理を求める知的営為」からそれぞれが分裂し、「科学」と「(科学に抵触しない)哲学」と「宗教」とに分かれたという歴史的経緯から考察するのが分かりやすいのではないか、というのが私の考えです。

思い起こせば現在では「哲学」を意味する「Philosophy(愛知)」というのは、古代ギリシアでは今で謂う「自然科学」のような意味を含んでいましたね。そして、プラトンやアリストテレスの「Philosophy」が中世の神学に流れこむのはご存知の通りです。
また、あと500年、1000年もしたら(その頃に人類が続いていれば、ですが)、今の我々の「科学」が、「”電子”とか”原子”なんていう架空の概念を発展させて、宇宙の始まりだとか脳の仕組みだとかについて色々説いていた宗教」と言われている可能性もあるでしょう。
そのくらい、「科学」「哲学」「宗教」の境目というのは曖昧で、原理原則を定めてしっかり分離させているのではなく、自らを「科学」「哲学」と認識した近代学術の立場からイメージを抱いているに過ぎないのです。


その上で、「宗教」と「哲学」とを分けるとすれば、それは区分する原則ではなく、既に分けられてしまった後を眺めてみた場合に見出せる特徴の差異ですが、授業中に申し上げた通り「前提を信じるか、疑うか」ということになるのです。
「哲学」が前提を持たず、常識を掘り下げ続けるというのは、この世で見出しえる前提的知識を論じる知的営為は「科学」に持っていかれており、その後に残っていて、かつ「科学」と抵触しない知的営為が「哲学」になっているからではないでしょうか。
それに対し、「宗教」というのは、元々が自然科学的なものも含めて発展した体系であり、また「結論」を説くことによって人々の「救い」を求める需要に適って布教を進めたものが生き残ってきたという経緯もあり、「前提」を説きます。こうした自然科学的知識(現在の「科学」では「迷信」と見なされるもの)・「前提」をも含めて整合する知的体系として発展して来たが故に、「宗教」はそれらを切り離すことはできないのです。



では、「哲学と宗教はどう違うのですか?」と訊ねられた方に、どのように説明すべきか。
私であれば、「「哲学」も「宗教」も同じく「真理を求める」知的営為であり、本来は一体のものであった。西洋近代に於いて「科学」が分かれ、「科学」と抵触しない形而上学的分野が「哲学」となり、彼らの自意識がその他を「宗教」と呼んだ。しかし、それは「科学」「哲学」サイドから見た見方であり、絶対的な基準に基づいた区分ではない。その分別にとらわれすぎて「あれは宗教だから」「これは哲学っぽい」といった考え方をせず、自らの目でそれぞれの思考の本質を見極めることが重要」とでも説明すると思います。

いかがでしょうか?

メメント・モリⅢ

2010-05-25 22:19:26 | 形而上
自らの死というものについて、それに畏れ、或いは悲しみ、を覚える時、
そういった感情は、恐らく、有限性や喪失に向けられたものなのではないかと思う。
この世に如何なる関与もできなくなるかもしれないこと、何も知ることができなくなるかもしれないこと、そして、今まで得てきた全てを失うかもしれないこと。
そういった有限性や喪失への畏れ・悲しみというのが、死を生前に実感することなのではあるまいか。


やり残した仕事、残された家族、経験してみたかったこと、知りたかったこと、そういったことができなくなる。こういった身近な規模でも未練は残り、死を畏ろしく感じる。

そればかりでなく、(時間が無限に直線的に進むという前提の下であるが)自分の死後、自分が消滅したまま、何億年も何十億年も何百億年も時が流れる。何年経っても何年経っても、自分はそこにいない。何も見えないし何も考えない。そのような無が、未来永劫続く。このようなことを考えると、気が遠くなるような寂しさに、悲しみを感じる。
もちろん、いざ死んで絶対的な無の状態になれば、未練も寂しさも無くなるのだから、何も辛いことは無いだろう。
それでも、無限の時間の中に、何故、有限なる自己が存在しているのか。存在できるのは限られた時間で、それ以前、それ以後には、それと比較にならないほどの永い永い無が続く。それを思うと、自分は何のために存在しているのかを考えざるを得ず、更には、自分は本当に存在しているのかとすら思われて来る。

では、死後も個人の人格が保たれ、永遠に続くとしたらどうであろうか。
しかし、それも最終的には同じことなのかもしれない。
何億年・何十億年という期間存在し続けると、始めの十万年くらいで知りたいこともやりたいことも(知ることのできる、やることのできる範囲内では)全て尽くしてしまい、もはや何もかもが以前の体験の繰り返しとなり、やはり気が遠くなるような時間を無意味に過ごすことになるのではないだろうか。
全く変化が無い、というのは、存在しているという一点を除けば、結局は無と本質的には変わらないようにも思われる。


繰り返し、と言えば、仏教には「劫」という時間を単位とする循環世界観がある。
一つの世界は有限で、「成(じょう)・住(じゅう)・壊(え)・空(くう)」という成立・安定・破壊・消滅のプロセスを経て完結するという。しかし、消滅の後もまた新たに世界が「成住壊空」する。今我々の生きている世界は有限だが、その有限の世界が、前にも後にも無限個存在する。
それぞれの世界同士の関係がどのようになっているのかは勉強不足にして知らないが、世界が無限個あるならば、その中で今の我々の世界が再現されることもあるだろう。すなわち、今の自己が死によって消滅しても、気の遠くなるほど未来ではあるが、後の世界で再び同じ自己が繰り返されるのではあるまいか。
つまり、(恐らく、この世界観自体が本来意図することではないのだろうが)、有限の世界の無限回の繰り返しの中で、自己は無限性を得るのではなかろうか。

もっとも、この無限性というのも、単に無限に繰り返すというだけである。100歳で死んだ人間が、別の世界で再現されても、同じ100歳を繰り返すだけであろう。この100年間は無限の繰り返しによって永遠に保たれるが、内容量は永久に増えない。
言ってみれば、その人にとって、世界の長さは100年間なのである。つまり、有限であることに変わりはない。


こうなってくると、「時間が流れる」という観念も問題にしなければならなくなる。以前の日記でも少しだけ触れたが、「時間が流れる」というのは、実感を表現する語として優れているが、しかし、真理であるかは分からない。
上の「永久に繰り返す100年間」ということを思うと、むしろ、時間は流れ行くのではなく、ここに在るもの、としても考えられる。現在(という言い方が適切かはさておき)、自分の肉体は、空間上で、ある決まった分量の体積を持つ。それと同様に、また、時間上でも「自己」は決まった分量の幅を有する。つまり、「今、自分がここにいる」という自己は、時間の推移によって消滅するのではなく、無限(或いは有限ながら膨大)に伸びる座標上の一点に、確かに存在する。
このように認識すると、喪失という問題は、最早なくなってくる。

しかし、有限性という問題は残される。というよりも、強められるのである。自分の一生が確固として存在していようと、いくら繰り返されようと、期間・体験が限られることは変わらない。
更に言えば、この時間観では、「昨日の自分」と「今日の自分」の同一性、「ついさっきの自分」と「今の自分」の同一性はなくなる。一つの「自分」が時の流れの上を進んで行くのではなく、時間軸上に範囲として存在するのだから、その一点一点は別々のものと考えるべきかもしれない。謂わば、パラパラマンガのようなもので、始まりから終わりへ至る範囲の中で連続性(に見えるもの)を有するために、それを順番にめくれば一体のキャラクターが動いているかのように見えるが、一枚一枚は別々の紙である。
「今この瞬間の自分」は確かに存在し、それは永遠に続くが、その一点のみの存在で、前後の自己もまた別個の「今この瞬間の自分」であり、分割され得る。記憶や痕跡というものによって「自分」が続いているかのように思われるが、それは茶碗の中の米粒を「一杯のご飯」と認識するようなことに過ぎない。その形・色・質感・位置から「一杯のご飯」として世界の他の存在から区分して認識するが、それは傾向から連続性を判断しているに過ぎず、一粒一粒は別の個体である。

すると、自他の区別というのも曖昧なのではないか。
今この瞬間では間違いなく「今この瞬間の自分」であるが、「さっきの瞬間の自分」とは同一ではない。それは、「今この瞬間の自分」と「今この瞬間の他人」とが同一でないことと、本質的に異なることはない。同じ茶碗の中の米粒同士というのが、異なる茶碗の中の米粒より近しいとは断言できないだろう。

かつ、「今この瞬間」というのを如何に考えるべきか。座標上に於ける点の如く、限りなく最小の時間幅と考えた時、それに「自己」を見出す意味こそ怪しくなって来る。
ゼノンのパラドクスは、小麦粉の一粒一粒は落としても音の出ないのに、大量に一緒に落とすと音が出ることについて疑問を投げかけた。それに対して原子論者は「小麦粉一粒を落とした時にも小さな音が出る」と答えて罠に嵌った。
「今この瞬間」の一枚一枚が重なって、一つの「自己」を生むことについて、如何に回答すべきか。


荘子は言う。
全ては斉しく、かつ無である、と。
彼にかかっては、そもそも「自己」は存在しないのである。失うものも無ければ、限られるものも無い。故に、畏れも無ければ悲しみも無い。

では、何故、我思う、のであろうか。

回答はこうである。
それも幻に過ぎない、と。



思うに、世界というのは、幻の「自己」の巨大な集合体なのかもしれない。
このように言うと、「では、その“幻の自己”を見ている主体は何者なのか」と問いたくなる。
それについて、「神(God)」と答えるのも良いであろう。極端な汎神論。
或いは、「無限の可能性(無にして為さざる無し)」と言うのもアリかもしれない。時空を問わないあらゆる可能性が同時多発的に表現されている幻の中の一つ一つに、「自己」が有ったり無かったりする。実現するかもしれないし実現しないかもしれないという無限の枝分かれの末に、幻としての「自己」が、あたかも連続した存在かのように、出現して来るのかもしれない。

メメント・モリⅡ

2010-05-24 10:09:58 | 形而上
以前、面白いと思ったのは、中世ヨーロッパだったか、
これから生まれてくる人間は、親(父親だったか)の体内にごく小さな人間の形をして入っていて、その小人の体内にはそのまた子供がやはり更に小さな人間の形をして入っている、という入れ子構造の人間発生モデル。
これは近代科学の発展によって否定されたが、しかし、個々人にそれぞれの魂が存在するという観念にはよく符合する。つまり、太古のアダムとイブ以来、最初から個々人の肉体が微小ながらも存在するのだから、その魂も当然そこから宿っていると見て良いだろう。論理的には何も問題ない。

もし、現在の科学的認識のように、男女の交合によって生まれた受精卵が新たな生命であるならば(人権を認めるのが妊娠何ヶ月か出産後かというのはさておき)、魂という代物はどの段階で宿るのか。
受精の瞬間に、天界かどこかが、いちいちそれに魂を吹き込む作業をしているのだろうか。
あるいは、男と女の魂が分裂・結合して、新たな別個の魂になるとでもいうのだろうか。もしそうだとすると、一個一個の性細胞にそれぞれ一個(半個?)ずつの魂が宿ることになる。すると、非常に高倍率の競争を勝ち抜いてうまく受精卵になったものだけでなく、そうではなく終わったものにも魂があったことになる。
子の魂がかつて親の魂の一部であったとしたら、それぞれの独立性、自由意志という問題に関わってくる。子を生む前に親が犯した罪は、親から分かれて生まれた子の魂にも属するのか。そして、これはまた、個々の霊魂の不滅との整合性も問題になってくるだろう。
しかし、彼の宗教が強いのは、全知全能の創造者を想定していることである。人間の論理では相矛盾することであれ、全知全能ならば我々の想像も及ばぬ力でなんとかする、という理屈が通っている。最終的な救いについては、思考を放棄しても、全知全能の存在を信頼することで安心を得られる。


受精によって生命が生まれるという認識によく整合するのは、日本の南方諸島にある古代信仰らしい。そして、それは本土の古代の信仰でもあっただろう。
そこでは、神々を呼び出す時、2つのものを依り代とする。向こうの世界から2つのものとして到来し、こちらの世界で合わさって一体の神となるという。
これは、生命の誕生を象るらしい。すなわち、我々が生まれる時、その霊魂は彼岸から2つのものとしてやって来て、此岸で合わさって一人の人間となる。これはまさしく男女の交合であろう。
そして、一人の人間が死ぬと、それは再び2つのものに分かれて、彼岸へ帰って行く。

では、帰って行った後、その分かれてしまった個人の霊魂はどうなるとされたのか。
勝手な推測だが、個人としては存在しないのではないだろうか。向こうの世界の様々な霊魂と混ざり合い、またある時にはそこから分かれて此岸へ到来して別のものと融合して別の人間となる。
とすると、霊魂の要素は不滅だが、個人としての自分は、やはり死後に消滅するということだろう。少なくとも、生前に「私は○○という人間」と認識していたような自我は失われるように思われる。


それに対し、仏教の輪廻の概念では、霊魂の個別性は保たれる。
一つの霊魂が兎に宿り、鳥に宿り、人間に宿り、虫に宿る。様々な媒体を経験し、忘れ、また経験し、忘れ、その生老病死の苦しみの繰り返しが輪廻であるという。
しかし、霊魂の個別性が保たれても、記憶が失われるのであれば、それはやはり自我の消滅と謂えるのではないだろうか。自我を形成するのは記憶であり、前世の自我を形作っていた記憶がなければ、それは全く新しい別のものである。

思うに、仏教は、その自我へのこだわりから脱することを説いているのである。自他を区分する認識に捉われている限り、この輪廻の苦しみに永遠に囚われたままとなる。
ひねくれた言い方をすれば、記憶や感情といった自我が死によって失われることの苦しみから、むしろ自我を否定することによって脱出するのである。
そうであるならば、自我を撥無することによって、死による自我の喪失という苦しみから逃れるというのであれば、もはや生前に自我を撥無しようとしまいと、死ねば結局同じことなのではないか、と私は思ってしまう。


その点、荘子の思想はシンプルである。
やはり輪廻をするのだが、霊魂と物質という二元論ではない。人が死んだらその肉体が鼠になったり鳥になったりするが、そこには物質の自然な変化というもの以外、何も作用しない。
人になろうと鼠になろうと鳥になろうと、人なりに鼠なりに鳥なりに生きるに過ぎない。鉄が「私は莫邪(という宝剣)になりたい」と言わずに鍛治屋に従うように、我々も「人のみ、人のみ」と言わずに造化の働きに従うのみ。
そして、自我の存在すら否定し、万物が一体で、かつ全て無であることを説くのである。

岡野玲子に『消え去りしもの(Missing Link)』という作品がある。
舞台も登場人物も西洋的なファンタジーだが、物語の鍵となる「変成術」というのが、極めてこの荘子の死生観に近い。変成は究極の働きとして描かれるが、死もまた変成の一つの形態という。人が死ねば、ゆっくりと土に還り、木となる。人もまた、世界の源(ソース)の一部分であり、生前も死後もそれは変わらず、ただ変成するのみなのである。

メメント・モリⅠ

2010-05-23 14:01:24 | 形而上
以前の日記に書いた寓話は、中学生の頃に考えた話である。
私は、小学校に上がるか上がらないかという頃に、自らの死について考えていた記憶がある。おそらく、今まで最も長く考え続けたことであろう。

死後の世界、というのは、有るのか無いのかわからない。
ただ、脳細胞が傷ついただけで怒りやすくなったり、思考・判断が変わったり、記憶が失われたりするのだから、死んで脳味噌が丸々なくなれば、少なくとも生前の人格は保存されないであろう。
スピリチュアルの類で、死後の霊魂が生前の人格のままに語りかけるという話はある。しかし、その生前の人格というのが一体どの時点の人格なのかを聞いたことはない。例えば88歳で末期癌で脳に腫瘍ができている状態で亡くなった人だったら、亡くなる直前の、記憶も感情も大変な状態の人格で霊魂が存在するのだろうか。そうでないとしたら、病気になる直前の85歳くらいの「健康」な状態の頃の人格だろうか。それとも、80歳とか60歳とか40歳とか、もっと若い頃の人格だろうか。あるいは、88年間の生涯全ての瞬間の記憶と性格と価値観が統合されたものだろうか。結局、あれは、霊魂を呼び出したのが事実であれ虚偽であれ、その場にいる生者が見たいと思っている故人の人格を見ているに過ぎず、死後の人格そのものについては、何もわからない。
残された者たちが「死霊」に何を見出すかは残された者たちの認識であって、死んだ当人にとっては何も意味をなさないだろう。

自分の死は、本人の問題である。
周囲でいくら人が死のうと、それによって親しい人との死別の悲しみに慣れることはあっても、自らの死に慣れることはない。他人の死と自身の死は全く別の物である。死の先に何が有るか、あるいは無いかは、生前の経験で得ることはできない。
たとえ生前に死後のことを知ったとしても、死後が無であれば、あらかじめそれを知っていようと知るまいと、同じく無意味なことであろう。生前に得たもの全てが失われることを知った悲しみですら、死後には失われる。そして、悲しみを失う悲しみすら、死後にはないかもしれない。
それでも、自分の問題に他ならないからこそ、常にこの不可知なことを考えてしまう。そして、考えてしまうからこそ、こうした生者に対し、死後の情報を宗教が提供するのである。

存在

2010-01-06 00:05:54 | 形而上
「観測」というのは何なのだろうか。

たとえば、シュレーディンガーの猫の例えがあるが、
「箱の蓋を開けるまで、生きてもいて死んでもいる猫がいる」という言葉は、猫自体を観測者としては認めていない。
もちろん、あれは別のことを言おうとしている例え話なのだから、ここにツッコミを入れるのは彼の意図を汲まない行いである。
しかし、更につっこみたい。
猫が毒ガスを嗅ぐことを「観測」とするかどうかはさておいても、
毒ガス発生装置が粒子を検知することだって「観測」かどうかが問題になる。
人間の知覚のみが「観測」ではあるまい。

この問題を簡単に片付けるとしたら、干渉計の実験でも何でも、
とにかく粒子の経路を遮るものが全て「観測」なのだ、と言えば良いのだろう。
つまり、「観測」という言い方のみの問題と言ってしまえばそれまでである。
シュレーディンガーの猫も、装置を現実に存在させることができない、ということで問題は片付く。

しかし、宇宙観の話になると、それで良いのだろうか、と少し思う。
宇宙が同時に多数存在するとしても、一つの「重なり合い」であるとしても、
何を以って量子状態を崩す「観測」とすべきなのか。

そして、よく分からない議論の中で、しばしば見かけるのが、
「宇宙を外から見る神のような存在」
という単語。
こういう言葉を不用意に持ち出すから、益々わけがわからなくなる。

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極めて個人的な考えに過ぎないが、
もしも全知全能の存在がいるとしたら、それは人を裁くものではないと思うし、「自分が持ち上げられないくらい重い岩」を作り出すようなものでもないと思う。
それは、
絶対と相対との対立をも超えた絶対的な、
超越と平凡との対立をも超えた超越的な、
そういう視点で世界を見て、かつ見られている存在だと思っている。

一握の白砂があるとする。
この砂の中で、
あらゆる砂から、あらゆる砂を、そしてあらゆる時間に渡って見る。
ほんの一握りの砂に過ぎないが、想像もつかないほど壮大で、気が遠くなる。

このような見方を、
全ての空間の、全てものについて、かつ同時に、
行っているのが、全知全能の存在なのではないかと思う。

こうなってくると、
全てのものはその存在の一部と謂えるし、
全ての瞬間はその認識の一部と謂える。
こんな考えを述べている私自身もそのうちの一部である。
更に言えば、自我というのは、無数のものと無数の時間の中の一点として存在するものでありながら、無数の可能性の繰り返しが同時に存在することによって、「時間的連続性」というものを意識するように実現された知覚だと思う。だから、過去はないのだがあるし、未来はないのだがある。世界の無限性と同時性の中で、存在していないのだが存在する。自我はこういうあり方をしているのではないかと思う。一粒の白砂として。

これは、一神教の神についての解釈とはもはや言えまい。
万物斉同論についての理解と謂う方が良いかもしれない。
そういえば、渾沌の神話にも通ずるものがある。

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こういう考えは、あまり理解されない。
しかし、「宇宙を外から見る神のような存在」というのは、
本当は、これよりも遥かに分かりにくい言葉と思う。

現代法理論と生きる意味

2007-06-22 23:58:50 | 形而上
かなり前のことだが、田中成明氏の『現代法理論』を読んだことがある。
私は法学について完全に素人だが、法学に於ける「正義」について触れてみたかったのである。

田中氏は、「正義」について「形式的正義」と「実質的正義」とに分け、
司法の役割を、法を公正に運用する形式的正義のみならず、
それが実際的に正義である実質的正義の実現を目指すべきものとしている。
これは「悪法も法」を否定する現代法学の基本的な立場である。

しかし、何が「実際的な正義」なのか、
これが大きな問題であり、私が知りたいことである。
「実際的な正義」すなわち所謂「正義」の主張というのは、
宗教、倫理、イデオロギーの根本的な事柄であり、
古来膨大な主張や研究があったが、未だ絶対的な回答はない。
時代ごと、国ごと、そして個々人によって異なる見解を持つ以上、
「実際的な正義」についてうかつなことは言えない。

その点で氏はうまくまとめている。
すなわち、「実際的正義」について何か絶対的な基準を定めるのではなく、
裁判官が、何が現在一般的に「正義」として受け入れられているのか、を考慮し、
それを判断に反映させていくべき、というようなことを述べている。
また、他の箇所で、
多数派に従うということではなく、少数者の考えも汲み取り、それを尊重することで、
司法は、多数者の専制を防ぐ役割を有する、という旨を述べている。
要するに、何を「正義」とするかということについて、
少数者の抑圧にならないような判断も組み入れつつ、
同時代的な社会一般の通念に従うということである。

至極まっとうな論である。
何を正義とするか、という哲学的な問題に深入りせず、
社会通念という非常な曖昧なものを基準とさせることで、
無難で、かつ柔軟な運用を可能にするものである。


こういった判断は何も法学だけに限らないと思う。
例えば、「なぜ生きるのか」という命題について、
宗教や強い倫理意識でもない限り、
自己の深い思考に基づいた明確な解答を持っている人はそれほどいない。
深く考えれば考えるほど解答は遠ざかり、古来様々な哲学者が苦悩したものである。

しかし、我々は生きている。
「楽しいから」「生きるって素晴らしい」「死ぬのがイヤ」という利己的な動機もあれば、
「子孫を残すため」「自分が死ぬと困る人がいる」「社会に貢献したい」という利他的な動機もある。

利己的な動機は、ア・プリオリな判断、もしくは社会通念に拠る価値観であり、
これを哲学的に突き詰めると、大抵は虚無的な相対主義に陥る。
古来、精神的な健常性を保ったまま哲学的な論に耐え得たのは、
多くは後者のような、利他的な動機論である。
しかし、「誰かのために」と言う中に、その「誰か」が明確な生存動機を持っていなければ、
本当にその「誰か」の「ため」になるのかは分からない。
例えば「この子のためにはまだ死ねない」という言葉は、
その子にとって人生が意味あるものである、という前提を本に、
その子の人生のために貢献することに自分の人生の意味を見出すということである。
もし、その子自身が「生きる意味」を持っていなければ、
「その子のために生きる」という結論は導き出せない。

故に、生存についての利他的な動機というのは、他者に生存の意義を依存することと言える。
他者が、完全にその思考を理解することの適わないものであるからこそ(自分が相手になることは不可能であるため)、
その曖昧さに依存して、自分の生きる根拠を他者に押し付けることができるのである。


どうしても明確には言い得ないことを判断する際に、他者性の持つ曖昧さに依存する、
これは極めて優れた手段であると思う。

論理と宗教

2006-07-24 19:28:59 | 形而上
前回、「正常」同士でも、単に表面上で会話や動作がかみ合っているだけで、
頭の中では全然違う世界認識・論理構造をしているのではないか、というようなことを少し書いた。
こんなのは不可知論で、いくら考えてみても仕方のないことである。

およそどんなことでも、疑って行けば、証明不可能なことに辿りつく。
「なぜ人を殺してはいけないのか」「快感を求めることに意味はあるのか」
「実はこの世界は全て夢じゃないのか」「○○したくない、というのは、○○しないことの理由になるのか」
疑い出せばキリがなく、徹底してやり続ければ、
みんなが当たり前のように因果付けていることに論理を見出せなくなったり、
何にも価値を感じなくなったりして、いわゆる「異常者」になるだろう。

疑い出すとどこまでも突き詰めてしまうというのは、
要するに、どこまで行っても無条件で成立する前提というものがないからである。
そこで、「人を殺してはいけない」「生きられるまで生きなければならない」など、
何かしらの決め付けをして、そこで思考停止すれば、
そこを足場として、生きていく「正常」な論理が組み立てられる。
そして、このように不可知論を断ずることで、論理の足場的前提を提供するものの代表が、
宗教であると思う。

最近、100年ほど前の中国知識人の論文を読んでいた中に、
「科学の発展によって、宗教はなくなるだろう」という言葉があった。
確かに、宗教の中のいわゆる「迷信」という要素は自然科学の発達によって滅ぼされて来ている。
しかし、科学的・論理的に突き詰めようとすればするほど、
「何のために生きるのか」というような問題について足場への欲求は強まり、
むしろ宗教は強く残っていくのではないだろうか。
それは、一昔前のオウムが理系エリート学生を多く集めたり、
昨今のインテリジェント・デザイン説の盛り上がりが、その例と言える気がする。

異常の論理

2006-07-21 23:46:46 | 形而上
今日、バイトでレジを打っていると、商品を買った人が、
「レシートを下さい」と言う。
「レシートはさっき渡しましたよ」
「もっと下さい」
「……じゃあ、領収書はいかがですか?」
「ハンコの付いてるのはいらない」
「んー、でも、押してしまいましたしー」
「じゃあ、外にあるヤツを下さい」
……外? 外に領収書なんかないのだが。。
よく見れば、その人、話し方、目つき、振る舞いが少し変である。

分からないし、忙しいので、
「外に領収書なんかありませんよ」「外の領収書って何ですか?」とは言わず、
「すみません、外のはお渡しするわけにはいかないんですよ」
「そうなの?」
「はい。私ではお渡しできないのです」
「ああ、そうか。じゃあ仕方ないね。ありがと」
「はい。申し訳有りませんでした。またのお越しをお待ちしております」
と言って、帰した。

お互い考えていることはまったく分からず、不思議な会話であるが、
内容について考えず表面のやり取りだけを聞けば、かみ合ってはいる。


「精神異常」というのは、いわゆる「正常」に対して異なるというだけであり、
本人の中では論理が成り立っており、ただ、その論理が他人に理解できないというだけなのだと思う。
それは、我々が夢の中で、奇怪なできごとを経験しても、それを必然として受け止め、
さらに必然の論理の中で奇怪な行動を取るのと同じである。

しかし、ここで考えなければならないのは、
「正常」な人同士でも、果たしてその思考の論理は同じと言えるのであろうか。
相手の頭の中を覗き見ることができない以上、お互いの知覚・認識・思考を取り出して対照することはできず、
「同じ」であることの証明は不可能である。
ただ、行動や言葉といった表象によって帰納する他無い。
その際、上に挙げた会話のように、表面上ではかみ合っていても、
心の中では全く理解しあっていないということもありえる。
今回は私が「外にレシートはない」という認識を対照させ、
「相手と自分の事実認識の論理にずれがある」ということを意識し、
相手をいわゆる「異常者」として扱った。
しかし、事実認識の論理のずれが著しく意識されず、
お互いに会話も行動も終始かみあっていれば、
自然に相手を「正常」と見なすのであるが、
果たして、本当に相手が「異常」でないと言えるのだろうか。
あるいは、自分が「異常」でないと言えるのであろうか。


「正常」という観念すら危うくなってきたが、
こんなことを考える私は、「異常」であろう。
私自身、表向きはいたって当たり前の振る舞いをしながら、
頭の中ではかなり異常な思考をしているのではないかと最近思う。

二桃殺三士

2006-05-07 19:00:18 | 形而上
諸葛孔明が好んだという「梁甫吟」という詩の中に、
「二桃、三士を殺す」という句がある。

これは『晏子春秋』に掲載された、以下のような逸話が典故となっている。
昔、斉の国に三人の勇士がいた。
この勇士の扱いに手を焼いた宰相晏嬰が三人に二つの桃を与え、
「それぞれの功労の大きさに応じて分けなさい」と言った。
すると、三人のうち二人が一個ずつ桃を自分のものにした。
そこで、桃を手にできなかった者は自分の能力の高さと功労の大きさを主張すると、
桃を取った二人は彼に自分が及ばないことを知り、桃を取ったことを恥じて自殺した。
そして、残った一人も、二人を自殺させてしまったことを恥じて、やはり自殺した。

桃二つのために三人が不幸になって死んでしまうとは何ともバカな話であるが、
彼らにとって「桃」は「名誉」のことであり、勇士として命を賭けるものであったのだろう。


さて、この話では「桃」は「名誉」の意味であったが、
これを「恋愛」に置き換えるとどうであろう。
三角関係の果てに悲惨な結末に陥るという筋書きは悲劇の定番であるし、
現実でも、恋愛関係のもつれから不幸に陥る者はいる。
我々は、晏嬰の策略にはまった三勇士を笑えるであろうか。


漫画家の坂田靖子は、作品の中でこんなことを書いた。
「アーサー王は 自分の王妃と騎士ランスロットとの仲を許すべきだったんだ
 そうすれば3人のうち 少なくとも2人は幸福になったんだ
 3人のうちの2人だよ!
 ―――それに残ったひとりだって
 そのうち 何かのまちがいで幸福にならないとも限らないじゃないか―――」

「何かのまちがいで」という最後の言葉が実に良いと思う。

遊びとは

2006-04-04 01:38:43 | 形而上
小学5年生の時の担任は、明るくて面白い先生だった。
それまで、小学校では厳格な先生かいい加減な先生しか知らなかった私にとって、
印象はかなり強く、記憶は今でもはっきり残っている。

そんな先生が、ある日こんな話をした。
「大学の時に、何かのきっかけで、みんなで遊ぶことになったの。
 それで、何をしたかというと、ハンカチ落とし。
 はっきり言って、ハンカチ落としなんて、大学生のやる遊びじゃないよ。
 でもね、みんなで一生懸命やってみたら、面白かったのよ。
 つまんない遊びもね、真剣にやると面白くなるものよ」

この話はこれでおしまい。特に続きはなかった。
しかし、妙にインパクトのある話であった。

今になってよく考えてみると、
人生全体に通じる意味を持った言葉ではないだろうかと思う。
少なくとも、私自身も気付かなかったが、
私の人格や価値観には大きな影響を及ぼしたと思う。

多分、先生本人はそれほど深い意味を意図してこの話をしたのではなかっただろう。

およそ、名言というのは、本人の意図を超えて、
深い意味を持ち、強い影響を及ぼすものである。

こういったものに、私が詳細に解説を加えるのも蛇足というもの。
この言葉にどのような意味を私が見出したのかについては、
あえて語らないことにしたい。