道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

農水省の話

2011-04-20 17:25:08 | 社会一般
これは、つい先日、母が農水省に弁当を売りに行った時の話である。

一人の職員が、買おうとして手にした弁当を、眺めて一言。
「あ、野菜は茨城産か」
彼は買うのを止め、そのまま去って行ったという。

更に、その話を別の職員にしたところ、「そんなもんでしょ」と言われたらしい。


母は、数年前から、国産の素材を使った弁当を売りに農水省に行っているのだが、それを買う職員は数えるほどだという。要するに、自給率向上というのは、看板に過ぎないのである。
東南アジアと東アジアで自由貿易圏ができて自らがハブられるのを恐れてアメリカ合衆国がTPPを画策し、菅氏がそれに乗った際も、農水省は沈黙していた。

今回の話も、あまりにお粗末だが、その一例にしか過ぎない。


農水省に就職した友人は、頭の出来も良く、体力も根気も有り、性格も素晴らしい人間であった。
しかし、就職後は、電話取りと資料作成、国会答弁のお守りに追われて、憔悴していた。これで事務仕事以外に「自給率向上」等といった理想を追う余裕は、もはや残されていないだろう。


農業の生き残りを高額農産物の輸出に託すプランは、破綻した。少なくとも、当分の間は、中国の富裕層による需要は期待できない。
茨城はおろか、北海道ですらも、福島のすぐ隣と見られている。日本は、世界地図で見たら、かくも小さいのである。
そして、日本の農産物を宣伝し、農業を振興すべき農水省も、上述の通り、アテにはならない。

日本の農業を守るとすれば、それは、日本地図を見ている我々が、国産の農産物を買う他無いのである。

何ぞ必ずしも楚ならんや

2011-04-13 23:12:46 | 政事
 以前も取り上げたが、石原氏には失言が多い。彼が議会で知事選立候補を表明した日に大地震が起こり、彼が当選した次の日にも大きな余震があったのは、彼の言葉を借りれば「(石原への)天罰」と言えそうな気すらする。

 そもそもメディアというものは、悪意を以って発言を切り取る。禁止コードに触れれば、恰好の餌食である。石原氏もその点をよく分かっていて、記者を嫌っているから、記者会見は常にイヤな感じだ。彼の気持ちもよく分かる。

 しかし、その例外だったのは、「花見自粛」令。

 後に言い訳をしていたが、その前後の内容を踏まえれば、その概要は、「戦時中は花見などせず、皆で団結して頑張って危機に立ち向かった。だから花見など論外」というもの。
 花見を「自粛」するというのならともかく、ここで「戦時中」の「団結」を持ち出すのが、イケていない。個々の可能性を狭め、全てを一つの目的に集約しようとしたがために、日本は無謀な戦争に突入し、不毛に負けたのである。不自然な「団結」は視野狭窄を生む。少なくとも、このような文脈で戦時中を語るべきではない。

 むしろ、石原氏は単に「花見自粛」とだけ報じられたが故に、メディアに助けられたのかもしれない。



 後に、彼は言い訳をしていた。大勢の人たちが苦しんでいる中で花見なんか楽しむ気になれないだろう、という具合に。しかし、これは言い訳に過ぎない。

 日本の東北地方に限らず、世界を見渡せば、非常に大勢の人たちが、常に苦しんでいる。
 もしも石原氏の言うような気持ちがあるのなら、いつまで待っても花見なんぞはできない。一生暗い気持ちで人生を過ごさなければならない。
 人類に不幸は絶えない。ならば、彼は一生花見ができないはずだ。

 実際には、そんなことはなく、彼は東北地方の人たちを花見中止(と「日本人の美しき団結」)のダシには使うが、地球の反対側にいる人たちの苦しみについては、ノータッチである。
 彼の考え方について云々言う以前に、そもそも彼の理屈自体が破綻している。


 『説苑』至公篇に曰く、
「楚の共王が、猟に出て弓を置いてきてしまった。左右の臣下が、王にそれを告げると、共王は言った。“止めよ。楚人が弓を遺(わす)れ、楚人がそれを得た。何も問題あるまい。”しかし、これを聴いて孔子は言った。“惜しいなあ。どうせなら、‘人が弓を遺れ、人が之を得たのみ、とでも言えば良かったのに。どうして‘楚’(の人)である必要があろう”」


 都知事には、視野の広さ、人類の一員という幅、これらが足りていない。

「ほとんどの人間は普段と同じことしかできない」

2011-04-06 10:01:35 | 精神文化
 昨日、知人から面白い話を聞いた。曰く、

 「ほとんどの人間は普段と同じことしかできない。普段と違うことを考えてできる者は、稀だ」

 被災地のとある自治体で、救援物資を山ほど受け取ったのだが、どのように各家庭に配れば良いのか頭を抱えた。しかし、そこである職員が思いついた。「クロネコヤマトにやってもらおう。」そして、ヤマトは驚くべきスピードで在庫を整理し、各家庭に配送した。

 役所は物資を配るところではない。そこがいきなり膨大な量の救援物資を受け入れても、せいぜい倉庫を見つけるくらいで、それ以上のことをできる人間はあまりいない。しかし、ヤマトの職員は、荷物をどのように分類し、倉庫のどこに配置すれば、効率良く運び出せ、必要な時に必要なものを出せるかが分かっている。もちろん、戸別配送もお手のもの。
 これは、役所の人間がバカでヤマトの人間が賢い、ということではない。単に、普段からしているかどうかの違いに過ぎない。

 この話で非凡なのは、クロネコヤマトにやらせよう、と思いついた職員。何のことはない、聞いてみれば極めて常識的な発想であるが、こういったアイデアを非常時にすぐに出せる人間を、「智慧がある」と言うのである。


 これを原発事故に当てはめてみよう。

○東京電力
 事故直後、自分たちの中でコトを収めようとした。これは普段通りの隠蔽体質。
 下請企業の作業員が作業中に被曝。これは、普段通りに、計器の警告を無視したため。今回はみんなが注目していたから露呈。
 計画停電でブロックごとに停電をコントロールするという離れ業をこなす。しかし、これも電力のプロだから、普段の延長線上。
 二十三区内や、重要施設のある区域は、計画停電の対象範囲であってもほとんど停電せず、停電された地域から「不公平」と言われる。官民密着のお役所体質通り。
 これだけの事故があっても、うっかり「福島にもう1,2台原発を作る」という書類を出してしまう。そもそも計画停電自体が「原発がないと、こんな感じに電力が不足してしまって、みんな困るよ。だから原発は必要ですね」ということを知らしめるための陰謀だ、とまで言われてしまう。反原発団体が電力消費量のグラフを根拠に「ピーク時さえ控えれば原発は不要」と言っていることに対する反論すらない。普段通りの、説明不足の原発推進姿勢。
 電力不足を補うために、火力発電設備を増やす、と発表。また、政府を通じて、京都議定書の適用外として認めてもらうよう、国際社会へ働きかける。普段から、太陽光は申し訳程度、太陽熱・地熱発電はほとんど着手して来なかった(どころか押さえ込もうとまでしたと言われている)ことを考えれば、これも理解できる。
 一連の記者会見では、どうもはっきりしない言い方。これは、情報を必要以上に隠しているわけではないだろうが、裁判になっても自分たちへの責任追及を最小限に抑えられるように、言葉を選んでいるように見える。やはりお役所体質。

○自衛隊
 人命救助や物資調達では非常に活躍。しかし、原発に対しては、ほとんど効果のない水撒き。これは仕方ない。普段の訓練でやったことのないことなのだから。

○東京消防庁
 迫力有る放水作業。明確にして堂々たる記者会見。ただし、前者は言うまでも無く普段の業務の延長上。後者も、東電・政府とは違って事故の原因は自分たちでは無く、発言に特に制限が無い状態だからこそ、普段通りに簡明に現状と対処を述べたように思われる。

 東京消防庁を呼ぶという判断をした者は偉かった。しかし、その他は、普段通りか普段の延長上。とすると、今回の事故への対処というのは、これが考えられる限りのものだったと言えよう。非常時に直面して、自分が普段はしていない行動によって的確に対処できる人間というのは、ほとんどいないのだから。
 もっと良い方法があった、というのは、つまり結果論にしか過ぎないのである。
 改めるべきは、普段の体質。このことは、事態が落ち着いた後に、もっと追及されなくてはならない。

「天下難事必作於易」

2011-04-05 11:05:16 | 政事
 東京電力は、事後の対応としてはよく頑張っていると思う。
 「隠蔽」と言われながらも情報を小出しにし、当初自衛隊や米軍の援助を待たせておいたのも、結果論として非難することはできるが、彼らなりの判断があったのであろう。下請会社の若い作業員たちで決死隊を組んだのも、東電職員や重役たちはあまり入ったことが無いために内部のことをよく把握していないからであろうし、結果的に被曝事故が起きたのも、普段から無用心で計器を無視した作業をしていた慣れがあったためであり、今回に限った問題ではないだろう。
 門外漢の我々があれこれ口出しして、彼らの足を引っ張るべきではない、ということについては、特に異論も無い。もっとも、「国民が一致団結して未曾有の有事に立ち向かい」、「責任感ある東電及び勇敢なる作業員たちを称讃する」というネット上の雰囲気には、少し付いていけない。

 しかし、コトが起こる前に何とかできなかったのだろうかと、よく思う。
 「想定外」と言うが、スマトラ沖で起こっても、東日本では起こらないと見なしたのだろうか。
 「1000年に一度」と言うが、それは、今日起こるかもしれないし1000年後に起こるかもしれないということに過ぎない。
 要するに見通しが甘かったということである。

 今回は外部電源が全て流されてしまったために対処が遅れたわけだが、そもそも、非常時に電気がないと操作できない仕組みというのは、危うい。機械で最も信用できるのは手動のメカニックであり、電気式はそれに劣る(電子系統は更に落ちる)。
 そして、どうしても電気式が必要だったというならば、せめて外部電源を二つ用意すべきであった。それは単に二台持っておくということではなく、一方を沿岸に置いたら一方は丘の上に、一方がディーゼルなら一方が太陽光か何かで、という意味である。これが非常時のための備えというものであろう。
 住民たちを納得させるための安全神話に、自分たちが騙されてしまったのだろうか。

 最も不可解だったのは、40年も経ったら建て替えなり何なりすべきだったのではなかろうか。「40年も前のものでよく頑張った」ということを言う者がいたが、そういう問題ではない。原発の建物は文化財でもギネスブックでもない。
 そもそもはもっと早く廃炉にする予定で建てたものだったそうだ。しかし、安全に停止して、安全に処理するには莫大な費用を必要とし、かつ原発施設を安全に保管できるような場所(通常は地下深く)が日本には見つからない。そのために、無理無理操業を続けて来たという(これは10年も前から反原発団体が主張して来た問題)。直近でも廃炉にするかどうかの検討がなされたが、枝野氏が操業続行を決めていた(もちろん、枝野氏・民主党政権だけの責任ではなく、その前の自民党政権の責任でもある)。余談だが、東海村の原発は、「バケツでウラン」の事故後に廃炉を決めたが、まだ処理は完了していない。
 動かし続けるのであれば仕方ないが、それならばせめて老朽化した施設を直すことはできなかったのか。

 先日、たまたま、地震問題を専門に扱う建築学者に会う機会があったので、その点を訊いてみた。回答は至って簡単なものだったが、問題は極めて難しいものであった。
 曰く、「改修の必要性は、専門家はみんな分かっていた。改修していたら、今回のような事態が起こる可能性はかなり低かった。しかし、原発は絶対に安全だ、と言い続けて来たために、身動きが取れなくなっていた。改築をしようとしたら、その間に何か起こったらどうするんだ、改築中は普段と違って100%安全ではなくなるではないか、という反論が起こる。政府・東電と住民との間で、極めてアンハッピーな関係があり、その結果、お互いに不利益を被ることになった」とのこと。
 そうすると、単に「絶対安全」と言うだけで、住民への説明責任を怠ったツケが来た、ということか。もちろん、改修を納得させるのは極めて難しいのであるが。

 100%安全ではない。だからこそ普段から備えなければならない。一つ一つの原因は簡明だが、それらへの対処を怠ると、いつか複雑にして難しい事態が生ずる。もっとも、日頃からそうした簡明な小さなことを見つけて対処していくには、稀有な才能が必要なのかもしれない。しかし、それを心掛けるべきではあろう。

 天下の難事は必ず易きより作(おこ)る。