道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

ちんぷん漢文

2006-04-26 19:39:40 | 言葉
久しぶりに友人と会ったのだが、大手銀行に就職も決まって安泰そうであった。
就職は決まって教員になるつもりはないはずだが、
「あと学生生活の最後の楽しみは、9月に母校に行って教育実習」
と、なかなか殊勝なことを言っていた。

私は今のところ中学や高校の教員になるつもりはないが、
もしなるとしたら、国語の教員、それも漢文が専門であろう。

国語教育の意義というのは、何であろうか。
それこそ、国語の試験答案のごとく、個々人によって様々な回答があるだろう。

まず思いつくのは、いわゆる「正しい日本語」を身につけること。
明治の頃とは違うので、方言に対しての標準語の普及に努める必要はないが、
文字の読み書き、言葉遣い、語彙といったものを身につける上で、
初等教育における国語教育は非常に重要であろう。

また、中等教育の段階では、そういった基本的なスキルの上で、
様々な文章を読んで、市民としての教養を身につけ、
形而下・形而上の問題についての思考を訓練する機会にもなる。

そして、古文を学ぶことがまさにそうであるが、
自国の文化に対する造詣を深めるというのも重要な要素であろう。
文化がどのように変遷してきて、先人たちは何を考え、
それが今の我々にどのように影響しているのかということについて、
原典にあたって知るのは大切なことであると思う。


では、漢文教育とは何であろうか。
平安貴族ではあるまいし、日常生活で漢文を使うことなどまずない。
政治経済から哲学文学にいたるまで、有意義な文章は非常にたくさんあるが、
学校教育で学ぶ分ではそこまでのレベルに到達しないし、
漢文として読む必要はない。
そして、授業で読むのは主に中国の古典であり、自国のものではない。

もっとも無難な回答は、
「教養として」
であろう。

漢文から日本の古典が影響を受けたものは数多いし、
今でも漢文の引用を交えて話す人もいる。
訓読法という方法によって普通の感覚で会話に用いることができ、
もはや外国語としてではなく、国語の一部となっている。
そのため、教養として知っておいた方が良いのは確かである。

そんなスタンスだから、時間割に余裕がなくないという時に、
カリキュラムの変更で漢文が削られるのである。
教養であれば、自分で勝手に岩波文庫でも読めば良い。
そして、教養といってしまえば、聖書やシェークスピアだって同じである。
日本語でもなく、現代語でもないのに、漢文という授業は必要ないのではないだろうか。

しかし、私はそれでも漢文は、ほんの少しでも良いから、学ぶべきだと思う。
というのは、日本語の感覚は、ここ千数百年常に漢文に影響を受けてきたのであり、
漢文の要素がはっきり発露することはあまりなくなったとしても、
漢文由来の感覚は、文章語に限らず日常会話によっても気付かないうちに引き継がれ、
今私たちが使う現代日本語の中にも、全然漢文と関係ないことについて話す時であっても、
そういった潜在的な影響力が密かに働いていると思う。

「語感」というのであろうか。「語気」というものかもしれない。

そういったものの原点、あるいは原典というべきか、これに一度立ち返るのは、
自己の現代日本語を深めるために重要であるし、
こうした感覚も含めて全体としての日本語を引き継ぐためにも、
国語科目においての漢文教育は大切であると思う。


もはや途中から不可知論となってしまったが、これは私の実感である。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿