道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

下妻物語

2006-07-31 04:21:58 | その他雑記
友人の部屋で『下妻物語』を観た。

以前テレビでも放送されていたので、多くの人がすでに観ているとは思うが、
私は全部を観たのは今回が初めてであった。

まず、設定がムチャクチャ。
それから、登場人物はもっとムチャクチャ。
一番ムチャクチャなのは主人公。
こんな三重苦ならぬ三無茶な映画で、終始荒唐無稽で笑わせてくれるが、
しかしそれだけでなく、何か人に訴えるものもある。

人によって、この作品から感じ取ったテーマは異なると思う。
親、友人、生き様、幸福などなど、様々な要素が中にこめられている。
その中で、私が最も強く感じたのは、
人が、人間として生きていくためには、誰かに必要とされることが大切だということである。

人は、他人に物質的あるいは精神的に頼って生きているのであるが、
しかし、他人に頼られることこそ、生きるための強い動機になるのではないか。
つまり、「頼られる」ことに頼っているわけである。
そして、誰かに頼っている人間というのは、
相手には「頼られている」ことを頼られているという点で、
実は「頼る」ことによって頼られているのである。

逆説的ではあるが、助けを求めることによって相手を助ける、とでも言おうか。
そんな、人と人との不思議な関係を描いた作品ではないだろうか。

論理と宗教

2006-07-24 19:28:59 | 形而上
前回、「正常」同士でも、単に表面上で会話や動作がかみ合っているだけで、
頭の中では全然違う世界認識・論理構造をしているのではないか、というようなことを少し書いた。
こんなのは不可知論で、いくら考えてみても仕方のないことである。

およそどんなことでも、疑って行けば、証明不可能なことに辿りつく。
「なぜ人を殺してはいけないのか」「快感を求めることに意味はあるのか」
「実はこの世界は全て夢じゃないのか」「○○したくない、というのは、○○しないことの理由になるのか」
疑い出せばキリがなく、徹底してやり続ければ、
みんなが当たり前のように因果付けていることに論理を見出せなくなったり、
何にも価値を感じなくなったりして、いわゆる「異常者」になるだろう。

疑い出すとどこまでも突き詰めてしまうというのは、
要するに、どこまで行っても無条件で成立する前提というものがないからである。
そこで、「人を殺してはいけない」「生きられるまで生きなければならない」など、
何かしらの決め付けをして、そこで思考停止すれば、
そこを足場として、生きていく「正常」な論理が組み立てられる。
そして、このように不可知論を断ずることで、論理の足場的前提を提供するものの代表が、
宗教であると思う。

最近、100年ほど前の中国知識人の論文を読んでいた中に、
「科学の発展によって、宗教はなくなるだろう」という言葉があった。
確かに、宗教の中のいわゆる「迷信」という要素は自然科学の発達によって滅ぼされて来ている。
しかし、科学的・論理的に突き詰めようとすればするほど、
「何のために生きるのか」というような問題について足場への欲求は強まり、
むしろ宗教は強く残っていくのではないだろうか。
それは、一昔前のオウムが理系エリート学生を多く集めたり、
昨今のインテリジェント・デザイン説の盛り上がりが、その例と言える気がする。

異常の論理

2006-07-21 23:46:46 | 形而上
今日、バイトでレジを打っていると、商品を買った人が、
「レシートを下さい」と言う。
「レシートはさっき渡しましたよ」
「もっと下さい」
「……じゃあ、領収書はいかがですか?」
「ハンコの付いてるのはいらない」
「んー、でも、押してしまいましたしー」
「じゃあ、外にあるヤツを下さい」
……外? 外に領収書なんかないのだが。。
よく見れば、その人、話し方、目つき、振る舞いが少し変である。

分からないし、忙しいので、
「外に領収書なんかありませんよ」「外の領収書って何ですか?」とは言わず、
「すみません、外のはお渡しするわけにはいかないんですよ」
「そうなの?」
「はい。私ではお渡しできないのです」
「ああ、そうか。じゃあ仕方ないね。ありがと」
「はい。申し訳有りませんでした。またのお越しをお待ちしております」
と言って、帰した。

お互い考えていることはまったく分からず、不思議な会話であるが、
内容について考えず表面のやり取りだけを聞けば、かみ合ってはいる。


「精神異常」というのは、いわゆる「正常」に対して異なるというだけであり、
本人の中では論理が成り立っており、ただ、その論理が他人に理解できないというだけなのだと思う。
それは、我々が夢の中で、奇怪なできごとを経験しても、それを必然として受け止め、
さらに必然の論理の中で奇怪な行動を取るのと同じである。

しかし、ここで考えなければならないのは、
「正常」な人同士でも、果たしてその思考の論理は同じと言えるのであろうか。
相手の頭の中を覗き見ることができない以上、お互いの知覚・認識・思考を取り出して対照することはできず、
「同じ」であることの証明は不可能である。
ただ、行動や言葉といった表象によって帰納する他無い。
その際、上に挙げた会話のように、表面上ではかみ合っていても、
心の中では全く理解しあっていないということもありえる。
今回は私が「外にレシートはない」という認識を対照させ、
「相手と自分の事実認識の論理にずれがある」ということを意識し、
相手をいわゆる「異常者」として扱った。
しかし、事実認識の論理のずれが著しく意識されず、
お互いに会話も行動も終始かみあっていれば、
自然に相手を「正常」と見なすのであるが、
果たして、本当に相手が「異常」でないと言えるのだろうか。
あるいは、自分が「異常」でないと言えるのであろうか。


「正常」という観念すら危うくなってきたが、
こんなことを考える私は、「異常」であろう。
私自身、表向きはいたって当たり前の振る舞いをしながら、
頭の中ではかなり異常な思考をしているのではないかと最近思う。

すもももももも

2006-07-20 23:35:58 | 旬事
今日は7月20日、10年ほど前に「海の日」として休日となったが、
「ハッピーマンデー法」で海の日が月曜日になったため、
現在では平日に戻ってしまった。

さて、国民の休日ではなくなったが、府中市民にとっては、
7月20日は今でも祭日である。
なぜなら、毎年この日に、大國魂神社で「すもも祭り」が開かれるからである。

すもも祭りは、海の日はおろか、その前身となった海の記念日の制定よりもはるかに昔、
時は平安、奥州の動乱を鎮めて帰還する源頼義・義家が武蔵国府(すなわち府中)に立ち寄り、
大國魂神社に戦勝御礼詣でをしてスモモを献じたのが始まりという。
以来、この日には境内にスモモ売りが集まり、大いに賑わっている。

また、スモモ以上に名物であるのが、「からす団扇」である。
真っ黒な団扇に鴉の絵が描かれたこの団扇は、
扇げば農作物の害虫は駆除され、玄関先に飾れば魔を祓いその家に幸福が訪れるとされる。

思うに、この祭りは源頼義・義家父子の奉納が起源なのではなく、
もともとは、稲が実る直前の時期の、病害虫の厄を祓い豊作を祈る行事だったのではないだろうか。
鳥扇で虫害を除くという故事はかなり前の文献に見られるものであり、
農業を中心とした古代の民俗習慣から考えてもごく自然なものである。
先に虫祓いの行事と鳥扇の習慣があって、
そこにこの時期に実るスモモが付加されたのであろう。
源義家の逸話は史実かどうかは分からないが、桃やスモモは古代では破邪の意味があり、
鳥扇の虫祓いと重なる点で、できすぎた話であり、
後世の仮託である可能性もあるだろう。


さて、今年は7月20日は平日昼間であったが、私は幸い授業はなかったので、
バイトを済ませてから、すもも祭りに立ち寄った。

平日の割にはまあまあ賑わっていたが、ただ、感想を一言言えば、
「普通の縁日」である。
以前は、すもも売りが軒を連ねていたものだったが、今年は、いつもより少ない。
数えるほどしかない。
そして、あとはどこの縁日でもあるような屋台が並ぶばかりである。

「どこの縁日でもあるような屋台」といったが、
近年は、餡餅やサーロイン串焼き、ドライフルーツ売りなど、
従来なかった新しい屋台が増えてきているので、それなりに楽しめる。
しかし、逸話が史実かどうかはともあれ、「すもも祭り」と号するからには、
もうちょっとスモモ売りがいても良かったのではないかな、と思った。

酒飲みの本懐

2006-07-08 22:16:58 | 精神文化
友人が帰国するというので、知り合いが集まってお別れ会をした。
彼が通っていた語学学校の目の前の飲み屋で、店の主人も感じの良い方で、
みんな目一杯騒いだ。

7時過ぎから始まった宴会も、あっという間に時間が過ぎて、
そろそろみんな終電がなくなり始める。
私は徹夜で騒ぐつもりで来ていて、実際に徹夜をしたのであったが、
中には帰らなければならない者もいて、抱きしめあって別れを惜しんだ。

最も激しかったのは、台湾から来たクラスメート、
駅の改札前で、何度も何度も大声で「行くな!」と言いながら抱きつく。
もともと友情に厚い気性なのであろうが、それに大量の酒が拍車をかけて、
壮絶な別れのシーンを作り上げていた。
いい男である。

そんな彼が持っていた紙にこんなことが書かれていた。
「一杯紹興提神醒脳
 二杯紹興飄々欲仙
 三杯紹興馬上吐」

紹興酒は、
一杯飲んで精神を呼び醒まし、
二杯飲むとふらりふらりと仙人にでもなろうかという気分。
三杯飲めば、すぐに吐く。

――酒飲み、かくあるべし。

愛国心と食糧自給

2006-07-08 21:58:13 | 政事
先日、ロシアから来た友人が、3ヶ月の語学研修を終えて帰国した。
素直で明るくアクティブなナイスガイで、たまに会っては一緒に騒いで、ここ3ヶ月はとても楽しかった。

そんな彼は非常に日本贔屓で、日本の食べ物なら何でも食べ、酒は日本酒を好み、
ワールドカップは日本を応援し、K-1でも日本人選手に声援を送る。
なぜそんなに日本が好きかと訊くと、寿司を片手に「日本のメンタリティ」、
すなわち「武士道」であると答えた。

ロシアでずっと暮らして、周りの人のマナーが悪く、治安もよろしくなく、
官憲のモラルも低いのにうんざりしていた頃に上海に留学し、
そこで出会った日本人たちの親切さと礼儀正しさに感激したという。

日本を好きだというのはありがたいが、
自分の祖国について「ロシアさいてー」と言いながら、
日本のものについては何でも手放しで誉めるのには、
若干の危うさも感じた。
何かきっかけがあった時に、「日本さいてー」ということになってしまうのが少し恐い。
もっとも、彼はまだ20歳前であり、バランス感覚はこれから身に付くものと考えれば、
それほど危惧することでもないかもしれない。


ところで、帰国数日前に、彼を我が家に招待した。
寿司を出前に取って、肉じゃがとから揚げは自前で、
ビールを山ほど買って、宴会である。
その時に、母が日本の食糧自給率についての話題を出した。
つまり、日本で日常口にするもののほとんどは、
外国から輸入したものであるということである。
また、彼は納豆を好んで食べ、「そんなもの食べられない」というアメリカ人に対して
「チーズもワインも同じ醗酵食品だろ。何故、食べもせずに「食べられない」というんだ!」と反論したこともあるが、
その納豆の原料である大豆も、95%は輸入である。
これには、彼は少しショックを受けた様子であった。
悲しませてしまって悪いことをしたが、しかし事実である。


全ての食糧を自給するというのは非現実的であり、輸入は必要であるし、
我々の食卓はそれによって大分豊かなものとなっている。
しかし、食糧輸入というのは、生産国の環境や水問題、輸送にかかる燃料など、
様々な問題を抱えている。

そして、彼のように、日本の食文化を愛してくれる人もいる中で、
その伝統食の原料が、日本の土壌で育たないわけでもなく、
ただ単に安さのためだけに、多くを輸入に頼っているというのは、
恥ずべきことかもしれない。

私は外国産品を排するべきとも言わないし、ナショナリストでもない。
しかし、「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛する」のであれば、
伝統の食文化を外国に支えてもらっているというのは、不健全とするべきであろう。

楽しい献血

2006-07-01 22:05:32 | その他雑記
私はよく献血に行く。
高校の時は、お菓子やジュースを目当てに、
学校のある国立から立川まで自転車を漕いで献血をしていた。

都心近くの大学に通うようになってからは、池袋・新宿・秋葉原など色々な所に行ったが、
ここ数年で一番良く行くのは、駒場から歩いて行ける、渋谷にある献血センター、
そして、渋谷には何個か献血センターあるが、
JR渋谷駅から歩道橋を南に渡ったところにある、
「SHIBU2(「しぶしぶ」と読めてしまって良くないのではないだろうか)」に頻繁に通っている。
文化村通りにあった時は、学校やバイト先から近いという理由でそこによく行っていたのだが、
駅前に移転後も、DVDが充実しているので、やはりここに一番よく行く。

「よく献血をしている」というと聞こえは良い(?)が、
実は景品目当てであり、お菓子目当てであり、最近では特にDVD観賞のためである。
「三銃士」「Shall We ダンス?」から「HERO」「ラストサムライ」に至るまで、
私の名画鑑賞体験の多くは、献血のベッドの上であった。


前回見たのは、「誰も知らない」。
献血時間の都合で3回もかかってしまったが、
非常に素晴らしい映画だった。
独特の雰囲気の中、話の展開は自然にさりげなく、
我々にとっては異常なシチュエーションだが、主人公たちにとってはそれが当たり前であり、
非日常的な物語が、まるで日常的なことのように感じられてしまう。

説明は決して饒舌ではないが、話の中で設定は自然に分かり、
その状況を細部に渡る工夫がしっかりと支えている。
そして、それを演じ切る俳優たちはもっと凄い。
中でも、主演の柳楽優弥の演技は、やはり非常に素晴らしい。
しっかり者だが、時には我を忘れることもあり、
小さい子供のように無心に笑うこともできないが、愛想笑いができるほど大人でもなく、
あの年頃の男の子の難しい心の動きを見事に演じ切っている。
2年前の話題ではあるが、カンヌ国際映画祭最優秀男優賞受賞というのには納得である。

さて、前回の献血から2週間経ったので、時間があったら、明日また行こうと企んでいる。
次見る映画はまだ決めていないが、
それこそ、ぶらりその日その時気の向くまま選ぶから楽しいのである。