道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

リン

2009-09-21 16:36:34 | 政事
昨年末に、こんなものができたらしい。


化学肥料で育てた農産物は栄養価が低いという話はよく聞くし、
それに対して、人工的な窒素固定によってこそ、今のこれだけの農業生産が可能になった、という話もよく聞く。

しかし、化学肥料の本当の問題点というのは、リンなのではないか、と思う。

かつて高校時代の授業でATPとかADPというのを習ったが、
リンは、およそ生物は全て必要とする元素で、
従って、生物がいるところには必ずある。
残飯・死体はもちろん、老廃物にも排泄物にも含まれる。
しかし、今の農業は、一般に、リン鉱石から取り出されたリン分を、田畑に撒く。
伝統的農業では糞尿から補充していた窒素とリンを、
近代農業では、人工的に窒素固定したものとリン鉱石由来のものに替え、
それによって、安価で大量の生産を可能にした。

その結果、鉱石としてのリン資源は、枯渇して来ている。

まぁ、当然の結末であろう。
窒素は空気中からいくらでも取り出してアンモニアに固定できるが、
リン鉱石は地球上に限られている。



先日、『モーニング』を読んだら、
「ドラゴン桜」の作者が今連載している作品で、
やたらと近代農法を称賛していた。

有機農業への信仰に疑問を投げかけること自体は良いのだが、
リン資源枯渇について触れていないのは、
アンフェアのような気がする。

紛らわしい

2009-09-20 15:12:44 | 言葉
……と思うのは、自分だけだろうな。


新聞を読んでいたら、
「モンドセレクションスピリッツ及びリキュール部門にて最高金賞受賞。でも焼酎」
というようなキャッチフレーズで、「Mellowed KOZURU」なる酒を宣伝していた。

そうかそうか、國府鶴なのに焼酎か、だから「でも焼酎」と言うんだな、
と思った。
(國府鶴(こうづる)というのは、府中の野口酒造が造っている日本酒である)

しかし、一瞬考えてみると、そんなわけはない。
國府鶴は特にうまい酒でもない。
焼酎を造ってみたところで、モンドセレクション最高金賞など取れるであろうか、
と思ったところで、よくよく見ると、鹿児島県日置市のメーカー。
調べてみると、「小鶴」なる焼酎を製造している。


ローマ字というのは、なんとなく紛らわしい。
もっとも、「KOZURU」と書かれて、「國府鶴」を思い浮かべる人間など、まずいない。
小正酒造も、野口酒造のことなど知るはずもないだろう。
私の主張は、関東以外の地域から来た人間に、「メイダイと言ったら、明治大学でしょう」というようなものである。

それでも、「小鶴」と書いて欲しかった。


いや、ホントにどうでもいい話ですが。

「めぐり逢う朝」

2009-09-12 22:45:45 | 音楽
私は、マラン・マレの「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」という曲が好きだ。
未だに曲名をちゃんと言えないけれど。
(ちゃんと憶えていないから、「マラン・マレのアレ。聖ジュヌ何とか教会の鐘」という、年寄りみたいな言葉になる)

そして、ある時、「めぐり逢う朝」という映画の中でこの曲が使われている、ということを知った。
更に、この映画、どうやらマラン・マレが登場するらしい。

これは見るしかない。
ということで、見てみむとして見るなり。

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蔦谷からDVDを借りてきて、パソコンに入れる。
すると、最初のシーンでこの曲が流れてくる。

宮廷楽団がマラン・マレの前で合奏しているのだが、
何とも緩慢なテンポ、全然揃っていない野暮ったい響き。

あーあ。
期待ハズレだよ。


映画の中でも、マラン・マレ先生が怒っている。
「もういい、なっておらん」とばかりに、
演奏を中止させて、説教を始める。

曰く、音楽には陰が必要だ、と。

そして、自らヴィオラ・ダ・ガンバを弾きながら、
彼の師コロンブについて語り出す。


こうして、物語は始まる。

つまり、マラン・マレについての映画だとばかり思っていたけれど、
実は、マレは登場人物兼ナレーターに過ぎず、
主役はその師サント・コロンブだったのだ。

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サント・コロンブという人物については、実は、あまりよく分かっていない。
現在分かるのは、
ヴィオールの名手だったということと、
宮廷にはつながりがなく、在野で二人の娘と共に音楽会を催していたこと、
そして、その弟子にマラン・マレがいること、くらいである。

だからこそ、フィクションの幅が広く、音楽観を語らせることができる。



この映画の中では、コロンブは、早くに妻を亡くし、
以来、娘と共に隠棲した人物として描かれている。
偏屈で、宮廷から使いが来ても、椅子を振り回して追い返す。
そして、夜な夜な、一人でヴィオールを奏で、至高の音楽へと登っていく。

世俗から離れた孤高の人、というか、変態。

自分は一人で、お金も儲けず、ひたすらに音楽を究め、
二人の娘は生活のために農作業してる。
娘さん達、チョー迷惑。

マレを弟子に取るけれど、
雨の音や立小便の音から音楽性を見出させようとする変態っぷりを発揮して、
マレ、大弱り。
更には、マレが宮廷で出世した途端に、「破門」。
マラン・マレ、チョー可哀想。

それでも物語は進み、
最後のシーンで、コロンブはマレにこう教える。
「音楽は、死者への慰めだ」と。

ド変態。

マレも、それを理解する。
ついでに、死者を見えるようになったりもする。

こいつも変態。

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こうして、コロンブがかなりの超俗的変態として描かれているのだが、
これを見ていると、なんとなく、東文研の某変態准教授を思い出す。

凡そ世俗のことに興味がなく、ひたすら本を読み続ける。
古い本のスキャンを取る時には、「紐の質感」にこだわる。
こないだは、「鄭玄の経学は、絶望から生まれた」と言っていた。

変態。

変態。

コロンブみたい。

というか、そのうち、自分も、マレみたいになるのかな。
ああ怖い怖い。

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ともあれ、
「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」を聴こうと思って借りただけだったのに、
曲自体は全然面白くない中途半端な演奏で終わった。

しかし、それを犠牲にして始まった物語が、思いのほか面白い。
栄光を窮めたマレの語り口が、良い感じに枯れている。
何より、コロンブが、ド変態。

これは、良い映画だと思う。