道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「一家に一台チェンバロ」

2010-05-28 23:37:23 | 音楽
以前、湘南にあるチェンバロ屋へ、電子オルガンを試弾しに行った。

その電子オルガンはなかなかよくできていて、これで98万円なら安い、というものだったが、もちろん学生に手の出せる価格ではない。
ただ、もし将来、多少お金を稼げるようになったら、これを買うのはアリだな、と思った。
チェンバロ屋の社長も、「本物のパイプオルガンに強いこだわりを持つオルガニストは多いですが、教会に置くのでも、もうこれで十分ですよ」と言う。私は、教会に置く場合は、やはり本物のパイプオルガン方が音圧・響き・見た目の点で優れていると思うが、しかし社長の言うことにも頷いてしまうほど、その電子オルガンはよくできている。

ところが、脇に並べてあるチェンバロも弾かせてもらっていると、社長は「綺麗な音でしょう。電子でもチェンバロはありますが、やはり本物の弦が鳴るのが一番ですよ」と言う。

主張に若干整合性が無いような気もする。
しかし、やはり本物のチェンバロが素晴らしい音色ということは、間違いない。


その日は、買い物もしないのに、長居をして、お茶まで出してもらった。チェンバロ屋の社長はさすがに物知りで、ヤマハが楽器を作るようになったエピソード等を聞かせてくれて、大変面白い。

そんな会話の中で、社長は「今までは“一家に一台ピアノ”でしたが、これからは“一家に一台チェンバロ”を目指します」と言っていた。
その野望のために、一台60万円程の普及用チェンバロまで開発したという。



確かに、それもアリだと思う。
まず、『ソナチネ』や「エリーゼ」までだったら、チェンバロでも弾ける。ダンパーペダルを使わなければならない曲を弾くレベルまでピアノのお稽古を続ける人間は、それ程多くないと思う。
また、同じ音量で弾いても、チェンバロの音は壁を隔てればかなり小さくなり、ピアノよりも隣近所への迷惑が少ない。
そして、音色が佳い。これは主観的意見だが、しかし、少なくとも私が弾く限り、ピアノよりはチェンバロの方が綺麗な音が出る。きちんと打鍵しないとなかなか音は出ないが、少し弾けばすぐに慣れるし、下手くそが弾いてもそれなりに味わい深い音が鳴る。
(この話をヤマウチさんにしたら、「そしたらむしろクラヴィコードでしょう」と言っていた。確かにそれはそうだ。一台20数万円で、相当味わい深い音が出る。かつ音量は微弱、隣の部屋に聴こえるかすら微妙)


そもそも、私は、自分が弾くピアノの音は、あまり好きではない。最近はそれでもマシになった方で、まぁ、何とか聴ける音にはなって来ている。以前はひどかった。
ピアノというのは、鍵盤を叩けば音は出るのだが、叩き方を注意しないと音色がガタガタになる。それは楽器としての長所でもあり、様々な音色を打鍵の具合だけで鳴らし分けられるということなのだが、それには大変な神経を使う。とてもではないが、やんちゃ盛りのガキに扱える代物ではない。
私がバッハを好きになった遠因もここにある気がする。バッハの曲というのは、音色がガタガタでもそこそこ聴けるものが多く、かつ、弾いている者にとっては音色や響き以外の面白味がある。つまり、ピアノをうまく鳴らせなかったことも、私がバッハを好んで弾くようになった理由の一つなのではなかろうか。

最近、少しは音色に気を遣えるようになって来て、かつて使っていた楽譜を引っ張り出して弾いてみると、今更ながら「これはいい曲じゃん」と思うことが多い。まさに十数年ぶりの再評価。
昔は『ブルグミュラー』なんて曲が素直すぎて面白くなかったし、『ソナチネ』も指の練習くらいにしか思っていなかった。しかし、今弾いて見ると、『ブルグミュラー』の曲は、構造は単純ながら、多様にして自然な発想の数々が、ピアノの様々な音色を引き出してくれる。また、『ソナチネ』も、ピアノのピアノらしい良さを、存分に発揮させてくれる。
今まで不当に評価していてごめんなさい。



とにかく、ピアノというのは難しい楽器である。
それに比べたら、チェンバロの方が余程入門者向けだと思う。
少なくとも、かつての私のような大雑把なガキ(今も雜だが)には、チェンバロの方が向いている。
故に、「一家に一台チェンバロ」、実に酔い野望だと思う。







ところで、余談であるが、ピアノの分かりやすい魅力というのは、低音の豊かな響きだと思う。太く、重く、腹の中に染み渡る低音は、やはり打楽器ならではのものである。これはチェンバロでは真似できない。
そういえば、小さい頃も、家ではよくオクターブ低くして曲を弾いていた。そして、今でもする。たとえば「エリーゼ」なんぞを低く弾くと、実に渋く、かっこいい。
まだ試したことがなければ、オクターブ下げ弾き、ぜひお薦めしたい。

かなしみ

2010-05-26 23:04:24 | 精神文化
最近、社長が竹内整一を読んで、「かなしみ」ということについて考え続けている。

新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」を例に出し、「日本人は、“かなしい”ということによって現実をむしろ再肯定し、“かなしいから死のう”ではなく、“かなしいから生きよう”という精神性を得た」という話から始まり、
こういうことが他の国でもあるのか、この「かなしい」は中国の「悲」とはどう違うのか、桜が散り続ける美しさに悲しみを感じるのは何故か、ということを、会う人会う人に訊いて回っている。

私は、「はらぺこあおむし」の結末がかなしい、と述べた。
自分だったら、リンゴでもナシでもケーキでも、むしゃむしゃむしゃむしゃ食べているのが一番幸せで、見た目が芋虫でも大した問題ではない。
しかし、蝶になってしまうと、姿形がいくら美しくても、もうむしゃむしゃ食べていた頃には戻れない。
これは大変かなしい話だ、と。



「かなしみ」の語義は広い。かつ内心の感情を表す言葉であるから、私には万人が共通のイメージを持っているようには思われない。
「白鳥はかなしからずや」と「よごれちまったかなしみに」が指すのは、同じ悲しみではないだろう。

それでも考えてみるに、
かなしさというのは、喪失と有限性への思いなのではないだろうか。


お気に入りのハンカチをなくしてしまったこと、卒業・退職で仲間と会えなくなること、困っている人がいるのに自分の力では助けることができないこと、
或いは、大事な人との死別、そして自らの死。

失われてしまったもの、もう得ることができないもの、
そういったものを思う時の感情が、かなしみなのではあるまいか。



「人間は考える葦」と云う。

もしもただの葦だったら、失ったものや得られないものを思う力は無い。
しかし、なまじ考える能力があるがために、それらの「有って欲しいもの」を想い、それが無いという空白を心に抱えて生きて行かなければならない。


心に穴が空きそうになった時、「あのブドウはすっぱい」と言って繕うのは、足るを知る処世術と謂えよう。
一方で、その穴を思い切り広げ、歌い上げ、むしろ何より美しいものへと仕立てようとするのが、詩人という連中なのかもしれない。

メメント・モリⅢ

2010-05-25 22:19:26 | 形而上
自らの死というものについて、それに畏れ、或いは悲しみ、を覚える時、
そういった感情は、恐らく、有限性や喪失に向けられたものなのではないかと思う。
この世に如何なる関与もできなくなるかもしれないこと、何も知ることができなくなるかもしれないこと、そして、今まで得てきた全てを失うかもしれないこと。
そういった有限性や喪失への畏れ・悲しみというのが、死を生前に実感することなのではあるまいか。


やり残した仕事、残された家族、経験してみたかったこと、知りたかったこと、そういったことができなくなる。こういった身近な規模でも未練は残り、死を畏ろしく感じる。

そればかりでなく、(時間が無限に直線的に進むという前提の下であるが)自分の死後、自分が消滅したまま、何億年も何十億年も何百億年も時が流れる。何年経っても何年経っても、自分はそこにいない。何も見えないし何も考えない。そのような無が、未来永劫続く。このようなことを考えると、気が遠くなるような寂しさに、悲しみを感じる。
もちろん、いざ死んで絶対的な無の状態になれば、未練も寂しさも無くなるのだから、何も辛いことは無いだろう。
それでも、無限の時間の中に、何故、有限なる自己が存在しているのか。存在できるのは限られた時間で、それ以前、それ以後には、それと比較にならないほどの永い永い無が続く。それを思うと、自分は何のために存在しているのかを考えざるを得ず、更には、自分は本当に存在しているのかとすら思われて来る。

では、死後も個人の人格が保たれ、永遠に続くとしたらどうであろうか。
しかし、それも最終的には同じことなのかもしれない。
何億年・何十億年という期間存在し続けると、始めの十万年くらいで知りたいこともやりたいことも(知ることのできる、やることのできる範囲内では)全て尽くしてしまい、もはや何もかもが以前の体験の繰り返しとなり、やはり気が遠くなるような時間を無意味に過ごすことになるのではないだろうか。
全く変化が無い、というのは、存在しているという一点を除けば、結局は無と本質的には変わらないようにも思われる。


繰り返し、と言えば、仏教には「劫」という時間を単位とする循環世界観がある。
一つの世界は有限で、「成(じょう)・住(じゅう)・壊(え)・空(くう)」という成立・安定・破壊・消滅のプロセスを経て完結するという。しかし、消滅の後もまた新たに世界が「成住壊空」する。今我々の生きている世界は有限だが、その有限の世界が、前にも後にも無限個存在する。
それぞれの世界同士の関係がどのようになっているのかは勉強不足にして知らないが、世界が無限個あるならば、その中で今の我々の世界が再現されることもあるだろう。すなわち、今の自己が死によって消滅しても、気の遠くなるほど未来ではあるが、後の世界で再び同じ自己が繰り返されるのではあるまいか。
つまり、(恐らく、この世界観自体が本来意図することではないのだろうが)、有限の世界の無限回の繰り返しの中で、自己は無限性を得るのではなかろうか。

もっとも、この無限性というのも、単に無限に繰り返すというだけである。100歳で死んだ人間が、別の世界で再現されても、同じ100歳を繰り返すだけであろう。この100年間は無限の繰り返しによって永遠に保たれるが、内容量は永久に増えない。
言ってみれば、その人にとって、世界の長さは100年間なのである。つまり、有限であることに変わりはない。


こうなってくると、「時間が流れる」という観念も問題にしなければならなくなる。以前の日記でも少しだけ触れたが、「時間が流れる」というのは、実感を表現する語として優れているが、しかし、真理であるかは分からない。
上の「永久に繰り返す100年間」ということを思うと、むしろ、時間は流れ行くのではなく、ここに在るもの、としても考えられる。現在(という言い方が適切かはさておき)、自分の肉体は、空間上で、ある決まった分量の体積を持つ。それと同様に、また、時間上でも「自己」は決まった分量の幅を有する。つまり、「今、自分がここにいる」という自己は、時間の推移によって消滅するのではなく、無限(或いは有限ながら膨大)に伸びる座標上の一点に、確かに存在する。
このように認識すると、喪失という問題は、最早なくなってくる。

しかし、有限性という問題は残される。というよりも、強められるのである。自分の一生が確固として存在していようと、いくら繰り返されようと、期間・体験が限られることは変わらない。
更に言えば、この時間観では、「昨日の自分」と「今日の自分」の同一性、「ついさっきの自分」と「今の自分」の同一性はなくなる。一つの「自分」が時の流れの上を進んで行くのではなく、時間軸上に範囲として存在するのだから、その一点一点は別々のものと考えるべきかもしれない。謂わば、パラパラマンガのようなもので、始まりから終わりへ至る範囲の中で連続性(に見えるもの)を有するために、それを順番にめくれば一体のキャラクターが動いているかのように見えるが、一枚一枚は別々の紙である。
「今この瞬間の自分」は確かに存在し、それは永遠に続くが、その一点のみの存在で、前後の自己もまた別個の「今この瞬間の自分」であり、分割され得る。記憶や痕跡というものによって「自分」が続いているかのように思われるが、それは茶碗の中の米粒を「一杯のご飯」と認識するようなことに過ぎない。その形・色・質感・位置から「一杯のご飯」として世界の他の存在から区分して認識するが、それは傾向から連続性を判断しているに過ぎず、一粒一粒は別の個体である。

すると、自他の区別というのも曖昧なのではないか。
今この瞬間では間違いなく「今この瞬間の自分」であるが、「さっきの瞬間の自分」とは同一ではない。それは、「今この瞬間の自分」と「今この瞬間の他人」とが同一でないことと、本質的に異なることはない。同じ茶碗の中の米粒同士というのが、異なる茶碗の中の米粒より近しいとは断言できないだろう。

かつ、「今この瞬間」というのを如何に考えるべきか。座標上に於ける点の如く、限りなく最小の時間幅と考えた時、それに「自己」を見出す意味こそ怪しくなって来る。
ゼノンのパラドクスは、小麦粉の一粒一粒は落としても音の出ないのに、大量に一緒に落とすと音が出ることについて疑問を投げかけた。それに対して原子論者は「小麦粉一粒を落とした時にも小さな音が出る」と答えて罠に嵌った。
「今この瞬間」の一枚一枚が重なって、一つの「自己」を生むことについて、如何に回答すべきか。


荘子は言う。
全ては斉しく、かつ無である、と。
彼にかかっては、そもそも「自己」は存在しないのである。失うものも無ければ、限られるものも無い。故に、畏れも無ければ悲しみも無い。

では、何故、我思う、のであろうか。

回答はこうである。
それも幻に過ぎない、と。



思うに、世界というのは、幻の「自己」の巨大な集合体なのかもしれない。
このように言うと、「では、その“幻の自己”を見ている主体は何者なのか」と問いたくなる。
それについて、「神(God)」と答えるのも良いであろう。極端な汎神論。
或いは、「無限の可能性(無にして為さざる無し)」と言うのもアリかもしれない。時空を問わないあらゆる可能性が同時多発的に表現されている幻の中の一つ一つに、「自己」が有ったり無かったりする。実現するかもしれないし実現しないかもしれないという無限の枝分かれの末に、幻としての「自己」が、あたかも連続した存在かのように、出現して来るのかもしれない。

メメント・モリⅡ

2010-05-24 10:09:58 | 形而上
以前、面白いと思ったのは、中世ヨーロッパだったか、
これから生まれてくる人間は、親(父親だったか)の体内にごく小さな人間の形をして入っていて、その小人の体内にはそのまた子供がやはり更に小さな人間の形をして入っている、という入れ子構造の人間発生モデル。
これは近代科学の発展によって否定されたが、しかし、個々人にそれぞれの魂が存在するという観念にはよく符合する。つまり、太古のアダムとイブ以来、最初から個々人の肉体が微小ながらも存在するのだから、その魂も当然そこから宿っていると見て良いだろう。論理的には何も問題ない。

もし、現在の科学的認識のように、男女の交合によって生まれた受精卵が新たな生命であるならば(人権を認めるのが妊娠何ヶ月か出産後かというのはさておき)、魂という代物はどの段階で宿るのか。
受精の瞬間に、天界かどこかが、いちいちそれに魂を吹き込む作業をしているのだろうか。
あるいは、男と女の魂が分裂・結合して、新たな別個の魂になるとでもいうのだろうか。もしそうだとすると、一個一個の性細胞にそれぞれ一個(半個?)ずつの魂が宿ることになる。すると、非常に高倍率の競争を勝ち抜いてうまく受精卵になったものだけでなく、そうではなく終わったものにも魂があったことになる。
子の魂がかつて親の魂の一部であったとしたら、それぞれの独立性、自由意志という問題に関わってくる。子を生む前に親が犯した罪は、親から分かれて生まれた子の魂にも属するのか。そして、これはまた、個々の霊魂の不滅との整合性も問題になってくるだろう。
しかし、彼の宗教が強いのは、全知全能の創造者を想定していることである。人間の論理では相矛盾することであれ、全知全能ならば我々の想像も及ばぬ力でなんとかする、という理屈が通っている。最終的な救いについては、思考を放棄しても、全知全能の存在を信頼することで安心を得られる。


受精によって生命が生まれるという認識によく整合するのは、日本の南方諸島にある古代信仰らしい。そして、それは本土の古代の信仰でもあっただろう。
そこでは、神々を呼び出す時、2つのものを依り代とする。向こうの世界から2つのものとして到来し、こちらの世界で合わさって一体の神となるという。
これは、生命の誕生を象るらしい。すなわち、我々が生まれる時、その霊魂は彼岸から2つのものとしてやって来て、此岸で合わさって一人の人間となる。これはまさしく男女の交合であろう。
そして、一人の人間が死ぬと、それは再び2つのものに分かれて、彼岸へ帰って行く。

では、帰って行った後、その分かれてしまった個人の霊魂はどうなるとされたのか。
勝手な推測だが、個人としては存在しないのではないだろうか。向こうの世界の様々な霊魂と混ざり合い、またある時にはそこから分かれて此岸へ到来して別のものと融合して別の人間となる。
とすると、霊魂の要素は不滅だが、個人としての自分は、やはり死後に消滅するということだろう。少なくとも、生前に「私は○○という人間」と認識していたような自我は失われるように思われる。


それに対し、仏教の輪廻の概念では、霊魂の個別性は保たれる。
一つの霊魂が兎に宿り、鳥に宿り、人間に宿り、虫に宿る。様々な媒体を経験し、忘れ、また経験し、忘れ、その生老病死の苦しみの繰り返しが輪廻であるという。
しかし、霊魂の個別性が保たれても、記憶が失われるのであれば、それはやはり自我の消滅と謂えるのではないだろうか。自我を形成するのは記憶であり、前世の自我を形作っていた記憶がなければ、それは全く新しい別のものである。

思うに、仏教は、その自我へのこだわりから脱することを説いているのである。自他を区分する認識に捉われている限り、この輪廻の苦しみに永遠に囚われたままとなる。
ひねくれた言い方をすれば、記憶や感情といった自我が死によって失われることの苦しみから、むしろ自我を否定することによって脱出するのである。
そうであるならば、自我を撥無することによって、死による自我の喪失という苦しみから逃れるというのであれば、もはや生前に自我を撥無しようとしまいと、死ねば結局同じことなのではないか、と私は思ってしまう。


その点、荘子の思想はシンプルである。
やはり輪廻をするのだが、霊魂と物質という二元論ではない。人が死んだらその肉体が鼠になったり鳥になったりするが、そこには物質の自然な変化というもの以外、何も作用しない。
人になろうと鼠になろうと鳥になろうと、人なりに鼠なりに鳥なりに生きるに過ぎない。鉄が「私は莫邪(という宝剣)になりたい」と言わずに鍛治屋に従うように、我々も「人のみ、人のみ」と言わずに造化の働きに従うのみ。
そして、自我の存在すら否定し、万物が一体で、かつ全て無であることを説くのである。

岡野玲子に『消え去りしもの(Missing Link)』という作品がある。
舞台も登場人物も西洋的なファンタジーだが、物語の鍵となる「変成術」というのが、極めてこの荘子の死生観に近い。変成は究極の働きとして描かれるが、死もまた変成の一つの形態という。人が死ねば、ゆっくりと土に還り、木となる。人もまた、世界の源(ソース)の一部分であり、生前も死後もそれは変わらず、ただ変成するのみなのである。

メメント・モリⅠ

2010-05-23 14:01:24 | 形而上
以前の日記に書いた寓話は、中学生の頃に考えた話である。
私は、小学校に上がるか上がらないかという頃に、自らの死について考えていた記憶がある。おそらく、今まで最も長く考え続けたことであろう。

死後の世界、というのは、有るのか無いのかわからない。
ただ、脳細胞が傷ついただけで怒りやすくなったり、思考・判断が変わったり、記憶が失われたりするのだから、死んで脳味噌が丸々なくなれば、少なくとも生前の人格は保存されないであろう。
スピリチュアルの類で、死後の霊魂が生前の人格のままに語りかけるという話はある。しかし、その生前の人格というのが一体どの時点の人格なのかを聞いたことはない。例えば88歳で末期癌で脳に腫瘍ができている状態で亡くなった人だったら、亡くなる直前の、記憶も感情も大変な状態の人格で霊魂が存在するのだろうか。そうでないとしたら、病気になる直前の85歳くらいの「健康」な状態の頃の人格だろうか。それとも、80歳とか60歳とか40歳とか、もっと若い頃の人格だろうか。あるいは、88年間の生涯全ての瞬間の記憶と性格と価値観が統合されたものだろうか。結局、あれは、霊魂を呼び出したのが事実であれ虚偽であれ、その場にいる生者が見たいと思っている故人の人格を見ているに過ぎず、死後の人格そのものについては、何もわからない。
残された者たちが「死霊」に何を見出すかは残された者たちの認識であって、死んだ当人にとっては何も意味をなさないだろう。

自分の死は、本人の問題である。
周囲でいくら人が死のうと、それによって親しい人との死別の悲しみに慣れることはあっても、自らの死に慣れることはない。他人の死と自身の死は全く別の物である。死の先に何が有るか、あるいは無いかは、生前の経験で得ることはできない。
たとえ生前に死後のことを知ったとしても、死後が無であれば、あらかじめそれを知っていようと知るまいと、同じく無意味なことであろう。生前に得たもの全てが失われることを知った悲しみですら、死後には失われる。そして、悲しみを失う悲しみすら、死後にはないかもしれない。
それでも、自分の問題に他ならないからこそ、常にこの不可知なことを考えてしまう。そして、考えてしまうからこそ、こうした生者に対し、死後の情報を宗教が提供するのである。

【質問】「阿蘭(alan)」という歌手はご存知ですか?

2010-05-19 22:32:33 | その他雑記
私は、好きなことを好きなように言う。

今日、突然、知人から人生相談のようなメールが来た。
「人と人とは分かりあえるのかしら」

回答:
「分かりあえません。それぞれ人によって世界の認識も異なるし、それどころか自我の存在すら幻かもしれないのに、他人の心を理解するなど、錯覚に過ぎません。他人の心を理解できないというのも、やはり錯覚です。表面上の言葉のやり取りに矛盾がなくとも、それぞれがイメージする内容は一致していないと思います。
 しかし、錯覚にもそれなりに傾向があり、言葉のやり取りにも表面上の規則性があります。それを踏まえてうまくコミュニケーションを取ることで、互いに心地良い錯覚を抱くことは可能です。「分かりあっている」という心地良い錯覚を共有すること(とはいえ、相手がそれを有しているかは本当は分からないけれど)は、分かりあいと謂えるでしょう。」

先方はこういう話をしたかったのではないだろう。
だが、私は、こういう話をしたかったから、した。愛読書は『荘子』。
おそらく、彼女は私のことを「こいつとは分かりあえない」と思ったことだろう。


そんな自分勝手な私だが、何故か、形而下・形而上を問わず、よく相談を受ける。
先程、PCメールをチェックすると、中国で記者をしている友人から、こんな質問が届いていた(原文は簡体字だが、表示の都合上、繁体字に改める)。

有個問題請教,你是否知道有个藏族的歌手叫“阿蘭”的?聽説在日本還挺紅。又或者你的朋友是否有知道或喜歡這個歌手的?這個問題是代我一个同學問的,他是一家綜合雜誌的記者,只是問日本是不是很多人知道“阿蘭”,别的問題倒是没有……挺奇怪吧?
(ちょっと教えて欲しいのだけれど、「阿蘭」というチベット族の歌手は知ってる? 日本では結構流行ってるらしいんだけれど。それから、友達でその歌手を知ってたり好きだったりする人いる? これは私の学友からの質問で、彼は総合雑誌の記者やってるんだけど、日本で「阿蘭」を知ってる人が多いかどうか、ということだけについて訊いてきて、他には何も訊ねないんだ……なんか変だよね)


【ということで本題】

どなたか、「阿蘭(alan)」という歌手をご存知の方はいませんか?
私はさっきGoogleに教えてもらいました。
もしご存知の場合は、コメントして頂けると助かります。
また、何か好悪などその他一家言あれば、それについても仰って頂けると嬉しいです。

コメント力

2010-05-14 00:58:19 | 趣味愛好
この写真は金文(殷周の青銅器に鋳こまれた文字)の「歩」だが、
秦代に同文同軌が実施される以前というのは、相当おかしな字がたくさんある。
これもこれもこれも同じ字かよ、おいおい、と思いつつ、
古代中国人の奔放さにひたすら感心させられる。

たとえば、「客」は、こんな字こんな字もある。
実にユニークである。

思想も同様で、儒・仏・道といった枠組みが確定して以降のものは、
解釈改憲も真っ青な牽強付会によって、経典の内容をうまく自分の主張や現実のニーズに合わせるという、その職人芸の巧みさは面白いが、
やはり既存の枠組みの中にあるという印象は残る。
それに対して、先秦諸子の言論というのは、実に自由で、力強さを感じる。孔子にも老子にも全く気を遣わず、言いたいことを好き放題に主張する。読んでいて、実に爽快な気分にさせてくれる。

文字にせよ、思想にせよ、
統一的規範の下では端麗で水準の高い作品が生まれるが、
好き勝手やっている自由奔放さにも、捨てがたいものがある。


ところで、こんなサイトがある。
特に、「篆書でGO! 1」が佳い。
奔放な字体をたくさん掲載しているが、それについて奔放な解説を附しているのが真に秀逸。

限られたスペースの中で、面白いコメントをつける文章力は凄い。

このサイトもコメントが非常に面白い。
例えば、これなど、内容は非常に下品なのに、このコメントには管理人の品性を感じる。


短く、要を押さえ、かつ奔放な面白さを盛り込む。
このようなコメント力を目指したいものである。

国債通貨説

2010-05-09 12:52:26 | 社会一般
ところで、ギリシャは破綻状態だが、では、日本はどうなのか。
テレビや新聞で、国家財政を家計に喩えた絵を度々目にする。確かに、家計や普通の企業だったら、とっくに破産しているプライマリーバランス。借金の支払いを借金でまかなうのだから、所謂「雪だるま」。
しかし、先日、運用会社の人と話していて、「国債の金利では赤字なので、売買で利ざやを稼ぐ」という、まぁ言われてみれば当たり前な話を聞いて、ふと思いついた。
――投機の対象であれ、国債が流通し続けている限り、大丈夫なのではないか。謂わば、通貨のようなものなのではないか。
通貨も国債も、信用だけで成り立っている紙切れで(むしろ、最近ではデータのやり取りに過ぎないものも多い)、「流通できる」ということに価値がある。他人にそれを渡して何か別のものと交換できるという前提を信じているからこそ、それを得ようと思う。金本位制ならばともかく、現在では政府の裏づけではほとんど保証に足りず、純粋に流通可能性だけが価値のようなものである。
故に、いくら国債が大量に発行されようとも、それが投機その他の対象として買われ続け、流通し続ける限り、政府の弁済能力の有無に関わらず、謂わば「擬似通貨」のようなものとして価値を保つのではないだろうか。それに、国債の取り付け騒ぎが起こるようなことがあったら、むしろ通貨自体の価値も危うくなる。
以上は、全くの素人考え。しかし、国の財政というのが、必ずしも家計に喩えられるものではないことは確かだと思う。
(余談だが、フランス革命中に、公債が通貨となったこともあるらしい。ただし、これは大インフレを引き起こした。)

ただ、ここで不思議なのは、国債の金利よりも大きな利ざやを稼がなければならない運用会社が数多く存在すること。彼らは投機で儲けているからこそ従業員を養っているわけだが、彼らが売買の繰り返しで儲けた利益の分だけ、誰かが損しているのだろうか? 個人投資家が年に何百人破産したところで、巨大運用会社の何個分の利益になるのだろうか。

もしかすると、世界全体で考えると、帳簿上で、通貨の総量自体が膨張しているのだろうか。
私の原始的な知識では、物質的蓄積と生産力の増大に合わせて通貨流通量が増えるのは自然なことだと思っていたが、最近のは何となくそういうレベルではないような気がする。
国債の金利には通貨流通量を増やすという働きがあるのだが、運用会社の人たちの話を聞いていると、どうも国債の金利や生産力の増大を遥かに超えたペースで、額面上の通貨が増えているのではないか、と思う。
もしそうだとすると、国債が雪だるまで膨れ上がっている以上に、通貨が雪だるまで膨れ上がっていることになる。すると、もはやプライマリーバランスなど問題ではなくなる。
いったい、どうなっているのだろう。

基礎演習

2010-05-08 10:09:34 | その他雑記
今でもあるのかどうか分からないが、かつて私が学部一年生だった時、「基礎演習」なる文系科目があった。
細かい内容はそれぞれの教師の裁量に任されたが、おおまかには、自分の調べてきたことを発表し、議論するという、ゼミ発表の入門編のようなものだった。

その時、我々のクラス(正確にはクラス半分)を受け持った先生が強烈に面白い人で、専門は日本史なのに、ケルトのことを調査しにアイルランドへ行ったり、シベリウスについて論文を書いたり、色々なことをしていた。
授業の最後の日には研究室で飲み会を開いて、そこで「皆様には全員“優”を差し上げたいのですが、東大には“三割規定”なるものがございまして、大変申し訳ないことにそういうわけにはいかないのです。“良”になってしまった残り七割の方にも79点は付けさせて頂きますので、ご容赦下さい」なんて言っていたけれど、夏休みが終わって成績を見てみると、みんな「優」。おそらく、夏から秋にかけて海外に調査に行っていたから、教務課が連絡できないのをいいことに、規則を破って高笑いしていたのだろう。
私は授業の外でもだいぶ仲良くさせてもらい、ギネスやウィスキーを飲みながら、様々な下品なことを教えてもらった。今では名誉教授になっているらしいが、私は彼の不名誉なことをたくさん知っている。が、むしろそうであるからこそ、私は彼を尊敬している。
入学直後から、あそこまでの変人に出会えたというのは、非常に幸運なことだったと思う。

その「基礎演習」に於いて、私は最初の発表を担当した。
入学式の後に飲み会にも行かず、図書館で数日後の発表のために調べ物をしたのが記憶に残っている。
発表の内容は、EU拡大とそれに伴う問題、というようなものだった。ピヨピヨの一年生が一週間で用意したものだから全く大した内容ではなく、ほとんど忘れてしまったし、レジュメももう手元にない。しかし、その中で、一点だけ記憶に残っているのが、ユーロ経済圏について、両替という調整弁のない状態で財政赤字国が存在することに伴う危険について報告したこと。国債が増発され、金利が上がり、投機が集中しても、通貨のレート変動によってバランスを取ることができない、という内容。自分としては非常に重要で興味深い話だと思ったのだが、聞いている人のほとんどが沈没していた。
それから7年後、今まさにその危険が現実味を帯びているのだが、果たしてどうなることやら。

ハイル・リヒター

2010-05-07 17:12:44 | 音楽
カール・リヒターというのはかなり前に亡くなった演奏者だが、
彼の残した録音は、今尚バッハ演奏の金字塔として輝き続けている。

彼の演奏というのは、一言で言えば、古臭い。
チェンバロを弾いた録音は、力強すぎる。そもそもモダンチェンバロの音色自体が、今となってはとてもではないが聴けた代物ではない。
オルガンはそれよりはだいぶ良いが、パッサカリアなどを弾いているのを聴くと、いかにも昔のレジストレーションである。

しかし、彼ほど気合の入った演奏者は稀である。
特に宗教曲には恐ろしいほどの情熱が込められており、カンタータや受難曲に於いて彼を超えることなど不可能のように思われる。
また、彼の指揮した管弦楽組曲やヴァイオリン協奏曲を聴いていると、端整で古雅でありながら、時折、底知れぬエネルギーが感じられる。

恐らく、グレン・グールドとはまた違った意味合いで、普遍的な価値を残した人物なのではないか、と私は思っている。
これは私の持論なのだが、楽器の仕組みや調律方法をいくら学問的に追究して「本来の演奏」を実現したとしても、それはあまり大事なことではない。音楽の本質というのは、もう少し別のところにある。使用するのがピリオド奏法であろうとモダン楽器であろうと、聴く人間の琴線に触れる音楽を奏でれば、それは佳い演奏なのだ。



ところで、リヒターが「楔のフーガ」を弾いている録音を見つけた。
http://www.youtube.com/watch?v=oRO4ZpIugCE&feature=related

これでおかしいのは、コメント。国籍は分からないのだが、一人が「Heil Richter!」と書き込んで、別の人から注意をくらってる。
「Heil」というのは「万歳」くらいの意味らしいので問題ないと思うけれど、「リヒター」っていう発音が、なんとなく例の人名を連想させるのかもしれない。