道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

古典の使い方

2010-09-28 01:59:15 | 国際関係
日本の為政者は、相変わらず古典を知らない。現代語で正論を吐くのもケッコウだが、「私は……と考える」という言葉が反発を受けやすいのは世の常である。
それよりも、「○○さんは……と言った」という言葉の方が、何となくありがたみがあるし、押し付けがましくないし、教養を共有したいというスノッブな願望を刺激して同意を得やすいものであろう。中国の政治家が、かつては四書五経の文句を散りばめた上奏文を作り、最近ではレーニン・毛沢東の言葉を引用しながらスローガンを作るのも、そういう箔があるからだ(つまり、中国人は特に、古典の引用に弱いのである)。

以前の日記で記したように、逆に古典を全く知らないことで中国の政治家と渡り合ったのはタナカカクエイだが、彼はあれがキャラクターだから、それで良い。強引で無知で無恥だからこそ、愛嬌があるのだ。(余談だが、神楽坂のあたりには、時間帯によって一方通行の方向が変わるというややこしい道がある。これは、かつて角栄が自分の出勤・退勤の便のために強引に決めたことが、今でも続いているためという。)


今回の「領土問題」の件で、日本側の言い分は至極まっとうにも思われるが、こんなので通じるわけもない。
では、如何にすべきか。
こういう時にこそ、同じ古典を共有してきた文化を利用すべきなのである。以下に、引用すべき故事の一例を示そう。


  二十三年,山戎伐燕,燕告急於齊。齊桓公救燕,遂伐山戎,至于孤竹而還。燕莊公遂送桓公入齊境。桓公曰:「非天子,諸侯相送不出境,吾不可以無禮於燕。」於是分溝割燕君所至與燕,命燕君復修召公之政,納貢于周,如成康之時。諸侯聞之,皆從齊。
  桓公二十三年、山戎という異民族が燕という国に攻め入ったので、燕は強国である斉に助けをもとめた。斉の君主桓公は燕を救援し、山戎を打ち負かし、北方の孤竹にまで追撃してから帰還した。燕の君主荘公は桓公を見送りながら、(感謝の思い余って)斉との国境を踏み越えて付いて来てしまった。そこで、桓公は、「天子でなければ、諸侯が見送りの際に相手の国まで入ってはいけないとされている。私は燕に無礼を働かせたくない」と言い、荘公がうっかりやって来てしまったところまでを燕国に分譲した。そして、燕君に命じて召公(かつての燕の名君)の時代の政治を復活させ、かつての成王・康王の時代のように、周王朝に朝貢させた。諸侯はこれを聞いて以後、皆が斉に従った。
(『史記』斉太公世家)


要するに、
「日本が既に実効支配してしまっているのだから、もう認めてくれたっていいでしょう。それに、東アジアの覇者になりたいのだったら、そのくらいの器量の大きさは持つべきでしょう」
と言うのである。

そして、
「空母を持つのも結構だが、本当の意味で覇権を取りたいのなら、徳が必要でしょう。そんなことは、まさにあなたの国の古典に書いてありますよ。まさか読んでないわけではないでしょうね」
という含みも持たせるのである。

政府のみならず、相手国の一般庶民にも聞かせられる言葉を述べるのも、外交の一つである。そのためには、古典の中からうまく持ち上げながら誘導する言葉を選び出す能力が必要である。


尖閣問題の今後

2010-09-27 01:20:03 | 国際関係
4年に1度のガス抜きとでも考えれば良い、というのが私の意見だが、しかし、不確定要素もある。それは、双方の国内輿論である。

領土問題というのは、うまく使えば、良いガス抜きになる。
例えば、竹島なんて領海にもほとんど影響しないカスみたいなところで、それに税金を費やして色々な書類を作ってやり取りするだけ無駄である。往年の朴大統領は、「あんな島、面倒だから爆破しちまえ」と言ったそうである。
しかし、竹島は不要だが、竹島問題は必要なのである。もし竹島問題が解決すれば、今まで竹島に上陸したり旗を立てたりしていたような勇ましい人達が、次にどこへ向かうのかが全く分からなくなる。そのエネルギーがもっと重大な問題でぶつかったり、勢い余って変なことをしでかしたりしても困る。
だから、日常茶飯事のように、無価値の島でガスを抜いていた方が、先が読みやすいし、全体には影響しない。

ただ、行き過ぎると戦争にまでなるのが領土問題でもある。
19世紀後半からの帝国主義時代、植民地を巡って戦争を繰り広げていた国家の多くが民主主義国家で、戦争を支持したのが他ならぬ国民輿論であったことは、歴史的事実である。
さすがに最近で戦争はないだろうが、国交断絶くらいはあり得る。
何故なら、中国政府にとって恐ろしいのは、日本ではなく、13億人の方だからだ。13億人をうまく舵取りできなくなってきたら、最終手段を取ることもあり得る、ということである。
日本政府だって、1億2千万の審判に耐えるためには、折れるわけにはいかない。意地でも面目は保たなければならない。

もっとも、本当に危なくなったら、親分であるアメリカ合衆国が仲介に出てくるのであろうが、そこまで発展する前に沈静化したいものだ。

じゃあ、我々はどうすればよいのか。
ある程度騒いで言いたいことを言ったら区切りをつけて、玉虫色にしておくべきであろう。間違っても、問題の根本的解決を本気で目指すような輿論を盛り上げてはならない。そんなことをしたら、こじれるばかりだし、自らの幼稚さを世界に示すようなものである。
現在我々は、尖閣諸島よりもずっと大きな問題に直面している。財政破綻然り、エネルギー問題然り。さっさと次のことを考えるべきである。

尖閣諸島と経済制裁

2010-09-26 23:09:51 | 国際関係
最近、中国との関係冷却が報じられない日は無い。
あたかも、「冷やし中華はじめました」というような様相を呈している。

一連の中国政府の動きは、領土問題に於ける強硬姿勢としてクローズアップされており、それはもちろん間違いない。しかし、私は、交流制限とかレアアース禁輸とかを、中国政府がやってみたかったのだと思う。だから漁船衝突を良い機会に、今までやりたかったことを一気にやったのだろう。
日本では、中国から客が来なくなれば観光業その他は弱るし、レアアースが入って来なければ産業は成り立たない。逆に中国は、日本から客が来なくてもそれほど困らないし、日本が物を買ってくれなくても何とかなる。
そのくらい中国は強くなったんですよー、と主張したかったのだろう。これを示しておけば、今後の外交でだいぶ有利になる。

その他、 尖閣諸島にはだいぶ中国の漁師が魚を採りに行っているから、ここで強く出ないと彼らの食い扶持に関わるとか、あまり弱腰だと国内の批判が政府に集まるとか、そんな事情も当然あっただろう。
しかし、最も大きいのは、中国の今後の発言力を増すための、外交戦術的な理由である。

日本の三権分立を知らないわけはないのだから、検察がちょっと突っ張って自分の独立性を主張して、拘留を延長することはあっても、政府の判断で早期釈放があり得るとは向こうも思っていないだろう(実際に、今回の釈放も、管首相が日本に帰って来た後にすればその圧力があったものと見えるから、それを嫌って早めに行ったに過ぎない)。
それでも「早く釈放しないと云々」と言い続けたのは、要するに、「我々の警告にも関わらず云々」という大義名分をつけて、経済制裁をしてみたかったからなのだ。
だから、少なくとも中国政府にとっては、今回のおおよその落としどころは始めから分かっていたのだろう。

そして、これから日本政府が賠償金など払わないことも知っているだろう。
向こうにとっては、それで良いのだ。何故なら、この事件を「未解決」としておくことによって、外交カードが一個増えるからだ。

元々自分の領土であろうとなかろうと、とりあえず手を出せそうなところに手を出しておけば、色々な使途がある。
戦争にまでなると大損だが、落としどころが分かっている相手と揉めるのなら、先も見えるし手も打ちやすい。内政で何か問題があったら、すかさずどこかの領土問題カードを切って、不満の目を外に逸らすこともできる。
これが外交巧者のやり方である。

戦略というのは元来こういうもので、「領土問題」を「領土問題」としてのみ扱うような正直者は、一国の戦略を担うべきではない。そうではなく、「領土問題」をネタに、二個も三個もやりたいことをやるのが真の戦略である。
(ただ、今回の件で、かなりの無関係の人間が迷惑を被ったように、良識的にはあまりよろしくない手段である。)

蛙2

2010-09-12 01:24:41 | その他雑記
続いて、カエルグッズ。


これは財布。とりあえずカワイイ。


この財布は若干リアルだが、まだカワイイ感じである。

ところが、下のような財布になると、リアルすぎて――というか本物のカエルの皮を使っていて――ちょっとビミョー。財布として使うには手足が長すぎる。

なんか、「うげー」ってなってるし。



本物といえば、友人がこんなものを持っている。

カエルの干物というのは、いったい何に使うものなのかよく分からない。漢方薬か何かに使えそうな感じもするが、謎である。


その友人、カエルがだいぶ好きで、長靴はカエル。


スポンジもカエル。


ゴミ箱だってカエル。



このゴミ箱の口の開け方は、カエルならではのワザと謂えよう。
これを利用したものに、上野公園入口の噴水がある。



同様に、私のメモばさみも、カエルのその形状を活かしたものである。





逆に、カエルの形状を全く活かしていないものもある。
これらは、特にカエルである必要は無いが、
まぁいいのだ。カワイイから。

・カエル水筒


・カエル風鈴


・カエル毛布


・カエルステッカー

これは先日アップしたパンダのステッカーと同じシリーズだが、カエルの方が数段かわいかろう。


カエルを意匠としたものは、個人で持つためのグッズに留まらない。
たとえば、マンホールだってカエルになる。


少し話はそれるが、このマンホールは、アヅマ大で見つけたもの。
アヅマ大敷地内には、「東京帝國大學」やら「一高下水」やら、
他所では見られないマンホールがいくつかある。
普段踏みつけにされているが、観光名所にすべきであろう。

話を戻して、
工事現場などで使う立ち入り禁止のバーを立てる台も、カエルデザインのものがある。


――もっとも、このバー立てはそれほどカワイイとも思わない。おなかに穴空いてるし。


ちょっと、「やってしまった」系ではある。


それから、これは大分の寺で見つけたものだが、何のために設置されたものかさっぱり分からないカエル。確か本殿に上がる下足箱の脇にあったのだが、みんなよくわからないままに賽銭なんかを入れてしまうものだから、口から「げえー」ってなってる。




この着ぐるみは、文句ナシにカワイイ。

ただ、これは、カエル着ぐるみがカワイイというよりも、仔猫が佳いのかもしれない。



どうだろうか、カエルの魅力を伝えられただろうか。
最後に、実際の、生きているカエルの写真を紹介しよう。


これは冬の真っ最中に、雨で土が崩れ、寝てる最中だったのに転げ落ちて目が醒めてしまったカエル。巣穴に戻ろうとするのだが、寝起きでかなりどんくさいから、階段を上がるのを手伝ってやった。

(なお、波津彬子の描いたカエルがこんな感じ。)



それから、これは、どこに生息するか忘れてしまったが、体が透明なカエル。

心臓まで透けて見える。

カエルグッズのみならず、実際に生きているカエルも相当の種類があり、
かなりのヴァリエーションに富んでいる。

そんなカエルの多様性を活かしたグッズが、山と渓谷社のカエルカレンダー。
http://calendar.yamakei.co.jp/shousai.php?id=840360
カエルファン必携の一品である。


カエル道、奥深し。

蛙について1

2010-09-11 01:24:09 | その他雑記
先日は、パンダを用いたキャラクターのビミョーさについて考察したが、今回はカエルについて論じてみよう。



はっきり言って贔屓目であるが、カエルを使ったキャラクターは概してカワイイと思う。それは私がカエルを好きだからであるが、しかし、それにしてもパンダよりもずっと愛嬌がある。


リアルに描写してもデフォルメしてもカワイイし、愛嬌を前面に出せばインパクトのあるキャラクターになる。例えば、下の絵は「アルハラヤダピョン」。

「むぎゅ~」とした感じが非常によく出ている。


時代を遡れば、かの太閤秀吉もカエルを好んだようで、次の写真は彼が愛好した蛙石。かつて大坂城にあったものだが、現在では元興寺に置かれている。


上に乗っているカエルは、いったいいつから乗っかっているのかよくわからないが、とにかくチャーミング。



この蛙石、元々は色々な祟りをなしたらしいが、途中で「極楽カエル」に成就して、「福かえる」「無事かえる」の由来になったとか。その真偽はさておき、「蛙」と「帰る」との語呂合わせはよく用いられる。これも、カエルというキャラクターの使いやすいところである。


そして、語呂合わせは「帰る」だけではない。




そこで、私もこのようなものを作ってみた。

友人にこれを送ると、彼のサイト更におかしなものを作ってくれた。

それから、これは、「蛙」から作った新字。



とにかく、カエルというのは、ネタに不足しない、非常に便利なキャラクターである。

もちろん、中にはハズレもある。以下は、手を入れすぎて、バカ画像になってしまった例である。






しかし、やはり、非常に絵になる佳い動物であることは間違いないだろう。

宣伝の良し悪し

2010-09-08 17:24:55 | 街中
先日、京都の四条烏丸で、知人と夕飯を食べようと店を探していた。
まず最初に目についたのが「魁力屋」というラーメン屋だった。
ちょうどラーメンを食べたいと思っていたところだったので、入ろうとしたところ、知人が「そこは高いからやめよう」と言う。店の前に貼ってある紙を見ると、「本日のおすすめ」と称して3、4種類のラーメンの写真があるのだが、いずれも900円を超えている。
確かに高い。
結局、その日は、少し奥に入ったところにある一風堂でラーメンを食べた。

後日また通りかかり、どうも気になるので思い切って入ってみた。
同じくらいの時間でも、一風堂より客がだいぶ少なく、余裕を持って座ることができる。
そして、メニューを手に取ると――安い。
安いというと語弊があるが、醤油ラーメン一杯650円なら、平均的と謂うべきだろう。少なくとも一風堂よりは安い。

出てきたラーメンも、そこそこ旨い。650円なら文句は無いくらいの味である。
系統が違うから簡単には較べられないが、少なくとも私の好みからすると、一風堂より美味しい。


あのラーメン屋は、味も値段も立地も一風堂より良いのに、客は遥かに少ない。
結局、あの入り口に貼ってある宣伝で損をしているのだろう。

自信を持って勧められるラーメンを宣伝したい気持ちは分かる。
しかし、それが900円以上となると、初めての客は敬遠したくなる(いくら京都とはいえ、ラーメン屋で一見さんお断りというわけでもなかろう)。

どこに行くか決めかねている客に見せるのは、650円の醤油ラーメンで良い。
それで店内に入って来て、ほとんど網にかかった状態の客に、はじめて900円以上の本当のオススメを見せるべきなのだ。


客を惹き付けるための宣伝はなかなか難しいが、客を寄せ付けないための宣伝は簡単にできる。
故に、宣伝を打つ時は、よくよく注意しなければならないのである。

パンダ

2010-09-07 00:51:25 | その他雑記








パンダを使ったキャラクターは世に溢れているが、
よくよく冷静に見てみるとカワイクナイものも多い。
知人によると「大半はパンダへの愛が欠如している」という。
そこまで言うのは極端だが、
例えば一昔前に流行った「たれぱんだ」などは、本当にカワイイのか、疑問が残る。
ダリの時計の絵にも似た、その妙な質感と非現実感は、
「きもかわいい」ならぬ、「シュールカワイイ」というべきものではあるまいか。
とにかく、パンダを用いたキャラクターを手放しで「カワイイ」と言うことには、
懐疑的にならざるを得ない。


このような目で見れば、新たな視野がおのずと開けてくる。

たとえば、これ。

単体なら見ようによってはカワイイが、
何個も並んでいると多少おそろしげでもある。


これもまた、さらし首のようである。

そして、ここまでデフォルメすると、実にかわいくなくなってくる。


かと言って、パンダをリアルに描くとこうなる。



そもそも、パンダはリアルで見てかわいいものなのかどうか。
かつて、まだ上野公園にパンダが健在だった頃、
真夏なのに冬眠しているような鈍重なパンダを見たことがあるが、
あまりかわいくなかった。

しかし、
テレビで四川のあたりの子供パンダを写した映像を見ると、これは実にかわいい。
ころころもこもこしているのが、ころころもこもこ動き回るのだから、
相当の破壊力だ。

概して哺乳類は、大人よりも子供の方がかわいい。
してみると、パンダのキャラクターに関しても、
子供のパンダを描くべきであって、大人のパンダを描いてはならない。
手足を細長く描くなど、論外であろう。

(パンダが二十四式太極拳をしている柄のTシャツ。これを見ながら練習しようとしたのだが、自分では自分が着ているTシャツを見ることはできない)


自分のコレクションを見渡してみて、かわいくないパンダの写真ばかりあるのは、撮影者の趣味というバイアスがかかっているためではあるが、それにしても、「パンダ=カワイイ」というフィルターを外して見ると、なんとかわいくないパンダが多いものか、と気付かされる。
また、「かわいくないパンダ」という前提で作られたキャラクターすらある。

・京成パンダ



・パンダザラシ(勝手に命名。実際の名称は不明)



・熊猫人



・パンダ仮面





そのようなことを考えていた折、
冒頭の知人がレターセットをくれた。









これはかわいい。

睡眠不足が引き起こすものの一例

2010-09-04 23:25:51 | 身体
人から頼まれた翻訳の仕事と、オルガンのパイプ掃除のアルバイトが重なった。
そこで、7時半~6時半にパイプ掃除、帰って来て食事をしてから4、5時間翻訳作業。その他なんだかんだで関係ないことをこなして、睡眠時間は3時間。というスケジュールで一週間通してみた。

掃除バイトは、居眠りでもしてパイプを傷つけたら大変なことになるので、朝に栄養ドリンク、休憩の度にコーヒー、という工夫を凝らす。
こういう時のために、普段は栄養ドリンクはもちろん、コーヒーも紅茶も飲まないようにしているので、効果抜群。全く問題なく、作業は快調。

論文の翻訳は、本当に眠くなったら床に入るようにしていたのだが、パソコン画面の光は刺激が強いらしく、あまり眠くならない。
やはりこちらも快調。


――普段は人よりだいぶ多めに睡眠時間を確保して来ていたが、実際は3、4時間ずつで十分ではないか。

そう思っていた矢先に、火がボーボー。
昨夜、仕事の後で、雇い主が飲みに連れて行ってくれて、しこたま飲み食いして帰宅。
すると、何と、顔全体がボコボコにむくんでいる。手や腕もいくつかジンマシンのようなむくみがある。
翻訳作業は諦めて、早々に寝たのだが、今朝起きても、顔のむくみは残っている。ほとんど気付かない程度まで回復したのは、つい先程。
睡眠不足の影響が、まさかこんなところに出てくるとは思わなかった。


人間に睡眠が何故必要なのかはよくわからないのだが、やはり大切なものなのだ。
できる限り、無理せず、しっかり眠るべきである。

「能く游ぐ者の教ふベきは、水を軽んずればなり」

2010-09-01 22:34:02 | 世間話
歓喜のダイブでおぼれた2人を救助しようと水死 琵琶湖(朝日新聞) - goo ニュース

まさか、ボート部員が泳げない訳はあるまい。
先にダイブした2人が溺れ、救助しようとした1人が溺れたのだから、
溺れて然るべき状況であったはずなのだが、この記事からは全く分からない。

あるいは、入賞のみならず、酒にも酔っていたのであろうか。
1984年、ちょうど私が生まれた年に、東大山中湖事件があったが、
夜に酔っ払った状態でボートを漕ぎ出したことが原因だったという。

いずれにせよ、救いようのない大惨事である。

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この記事を読んでいて、『列子』黄帝篇にある寓話を思い出した。

孔子の高弟顔回が、「舟を漕ぐことは、学習で身につくものですか」と渡し守に尋ねたところ、渡し守はこのように答えた。
「可。能游者可也,善游者數能(できる。泳げる者には漕ぐことを教えられるし、泳ぎが上手い者なら何回か練習すればすぐできるようになる)」

顔回はにわかには理解できず、孔子にこの意味について尋ねた。
すると、孔子は、このように説明した。
「能游者可也,輕水也。善游者之數能也,忘水也(泳げる者には漕ぐことを教えられるというのは、水を恐れないからである。泳ぎが上手い者なら何回か練習すればすぐできるようになるというのは、水のことを忘れるからである)」
「彼視淵若陵,視舟之覆猶其車卻也(泳ぎの上手い者にとって、淵は丘と変わりがないし、舟がひっくり返ることなど、車が後ろに戻ってしまうことと大差ない)」

舟を漕げるようになるための条件として、「水を軽んず(水を恐れない)」や「水を忘る(水のことを忘れる)」といったことが挙げられている。つまり、水に対する恐怖心を取り払わなければ、舟を漕げるようにはならない、というのが『列子』の主張なのである。
(なお、蛇足ながら、『荘子』や『列子』など道家系の文献に登場する孔子の言動は、道家が自らの都合の良いように創作したものに過ぎない、と考えるのが普通である。)

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先日琵琶湖で溺れてしまった彼らは、舟を漕げるのだから、少なくとも「能く泳ぐ者(泳げる者)」であり、もしかすると「善く泳ぐ者(泳ぎが上手い者)」であったのかもしれない。
それでも溺れてしまったのは、「水を軽ん」じた、もしくは「水を忘」れたためであろう。

『列子』の本義とは外れるが、奇しくも言葉尻は一致する。

くれぐれも、水への恐怖心を失ってはならない。