道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

存在

2010-01-06 00:05:54 | 形而上
「観測」というのは何なのだろうか。

たとえば、シュレーディンガーの猫の例えがあるが、
「箱の蓋を開けるまで、生きてもいて死んでもいる猫がいる」という言葉は、猫自体を観測者としては認めていない。
もちろん、あれは別のことを言おうとしている例え話なのだから、ここにツッコミを入れるのは彼の意図を汲まない行いである。
しかし、更につっこみたい。
猫が毒ガスを嗅ぐことを「観測」とするかどうかはさておいても、
毒ガス発生装置が粒子を検知することだって「観測」かどうかが問題になる。
人間の知覚のみが「観測」ではあるまい。

この問題を簡単に片付けるとしたら、干渉計の実験でも何でも、
とにかく粒子の経路を遮るものが全て「観測」なのだ、と言えば良いのだろう。
つまり、「観測」という言い方のみの問題と言ってしまえばそれまでである。
シュレーディンガーの猫も、装置を現実に存在させることができない、ということで問題は片付く。

しかし、宇宙観の話になると、それで良いのだろうか、と少し思う。
宇宙が同時に多数存在するとしても、一つの「重なり合い」であるとしても、
何を以って量子状態を崩す「観測」とすべきなのか。

そして、よく分からない議論の中で、しばしば見かけるのが、
「宇宙を外から見る神のような存在」
という単語。
こういう言葉を不用意に持ち出すから、益々わけがわからなくなる。

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極めて個人的な考えに過ぎないが、
もしも全知全能の存在がいるとしたら、それは人を裁くものではないと思うし、「自分が持ち上げられないくらい重い岩」を作り出すようなものでもないと思う。
それは、
絶対と相対との対立をも超えた絶対的な、
超越と平凡との対立をも超えた超越的な、
そういう視点で世界を見て、かつ見られている存在だと思っている。

一握の白砂があるとする。
この砂の中で、
あらゆる砂から、あらゆる砂を、そしてあらゆる時間に渡って見る。
ほんの一握りの砂に過ぎないが、想像もつかないほど壮大で、気が遠くなる。

このような見方を、
全ての空間の、全てものについて、かつ同時に、
行っているのが、全知全能の存在なのではないかと思う。

こうなってくると、
全てのものはその存在の一部と謂えるし、
全ての瞬間はその認識の一部と謂える。
こんな考えを述べている私自身もそのうちの一部である。
更に言えば、自我というのは、無数のものと無数の時間の中の一点として存在するものでありながら、無数の可能性の繰り返しが同時に存在することによって、「時間的連続性」というものを意識するように実現された知覚だと思う。だから、過去はないのだがあるし、未来はないのだがある。世界の無限性と同時性の中で、存在していないのだが存在する。自我はこういうあり方をしているのではないかと思う。一粒の白砂として。

これは、一神教の神についての解釈とはもはや言えまい。
万物斉同論についての理解と謂う方が良いかもしれない。
そういえば、渾沌の神話にも通ずるものがある。

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こういう考えは、あまり理解されない。
しかし、「宇宙を外から見る神のような存在」というのは、
本当は、これよりも遥かに分かりにくい言葉と思う。

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