道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「平成」

2012-04-03 19:23:09 | 言葉
 「平成」という年号は、「国の内外にも、天地にも平和が達成される」と解釈されるらしい。これを碩儒戸川芳郎氏は、「牽強な読みであって、ものを知らなすぎる」と評する(なお、朱子学では「地平天成」の「天」を「もの」と訓ずる)。

 この年号の、第一の出典は『尚書』虞書大禹謨篇、古の帝王舜が臣下である禹(後に帝位を譲られる人物)の功績を称えた言葉、「地平天成」である。しかし、この部分には、読み方はもちろん、そもそも本文の成立自体にも議論がある。
 第二の出典は『史記』五帝本紀、舜が八人の名臣を登用することにより、人々に教化が行き渡り、「内平外成」となったという語である。これもやはり「平」「成」両字とも動詞であり、「平」を「平和」と読むことはできないだろう。

 これらについて、戸川氏が詳細な論考「元号平成考」をなしている(『二松』第十一号、1996年3月、pp.330-375。リンク先はCiNiiにアップロードされているファイルのコピー)。しかし、46ページに亘る大作であり、また氏の文章はそもそも読みにくい。氏は、折に触れて「せっかくこれだけ指摘したのに、みんな『平成』や元号について、あまり議論しないんですよ」と言うけれど、読みにくさがその一因となっているのかもしれない。
 そこで、以下、少し説明を補いつつ、要点をまとめて示そう。

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 『春秋左氏伝』を調べると、「平」「成」ともに「たいらぐ」(講和を結ぶ)の意で用いられることが多く見られ、また、漢代以降では「平 - 成」を通じさせた訓詁が見られる。(pp.344-349)。漢語の通例として、一字では多義語であるが、同じ意味を含む字を並べれば、意味は一つに限定される。従って、「平成」「○平□成」といった場合、両字の意味は「たいらぐ」に限定されると考えられよう。
 「内平外成」については、政府によって示された『史記』と、全体的にほぼ同様の文が『春秋左氏伝』文公十八年の記事に見える。ただし、細かい語法を研究するに、戦国中期あたりに付加された説話と考えられる。これについての解釈は、「中華が統治され、夷狄が服従する」「家が治まり、国が治まる」といった諸説がある。「内平外成」という四字句自体は、この他にもいくつか見られるが、それぞれ文脈は異なり、『史記』『左氏伝』の内容とどのような連関があるかは不明(pp.349-351)。
 「地平天成」という字句の見える『尚書』虞書大禹謨篇は、そもそも東晋時代に偽作された偽書である可能性が極めて高い。しかし、「地平天成」の句自体は『左氏伝』の引く『尚書』夏書に見え、漢代の用例を考察すると、「(土木事業をうまく行って)天地を調和させる」といった意味がこめられている。また、偽書である現行『尚書』大禹謨篇に付けられた注釈でも、「水土がたいらぎ、五行の序列も叙(つい)でるようになった、つまり宇宙自然の順序、世界の秩序をとり戻した」と説明される(pp.352-356)。つまり、「地平天成」を「地平(たいら)ぎ、天成(たいら)ぐ」と読むのが伝統的解釈なのである。
 ところが、宋人は、唐代以前の儒学のあり方を大きく変革し、経典の読み方も大きく変更した。蔡沈(朱子の弟子)による注釈では、『尚書』大禹謨篇の「地平天成」を「地(みず)平(おさ)まりて、天(もの)成(な)る」とされた。これは、「平」「成」ともに「たいらぐ」の意を含むという語構成を無視した読みであり、換骨奪胎であった(p.357)。つまり、政府発表の「地平天成(地平かに天成る)」はこれに基づいた訓読であり、「内平外成(内平かに外成る)」もそれに引きずられているのである。

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 末尾に朝日新聞が紹介され、戸川氏の「なごやか元年」「しあわせ元年」といった案が挙げられている。確かに、天皇即位礼も中国式ではなく和式となった今、元号を漢字にする必要はどこにあるだろうか。右翼も、国粋を尊ぶのなら、何故、ひらがな元号を主張せずに、「天皇陛下万歳」などという漢語まみれの言葉を叫ぶのか(和語にすると、「おおいなるすめらぎよ、とわに」くらいであろうか)。少なくとも、漢語理解にとっては、「peaceful success」などという誤解を蔓延させるよりも、「平 - 成」という句作りを誤読するよりも、良いだろう。

しあわせ二十四年四月三日


「東日本大震災」

2011-07-31 20:31:37 | 言葉
 名前の付け方というのは、非常に大切なことである。名前一つで、受ける印象が全く異なるし、実際の利害も変わって来る。

 今回の震災は、どうやら「東日本大震災」ですっかり定着したようだ。岩手・宮城・福島のみならず、茨城や千葉、更には東京でも被害があったのだから当然、ということなのだろう。被災者に寄り添ったネーミングとは謂えるかもしれない。しかし、これは、国益という観点からすると、あまりよろしくないのではなかろうか。

 以前、ハイチの大地震と豪華客船のことについて、少し書いたことがある(「ハイチに豪華客船」)。簡単に説明すれば、「被災地から160kmも離れたところへの旅行が無神経として非難されるのは不当であり、それで旅行がキャンセルされて現地の産業は困っているだろう」という内容。
 我々にとって、ハイチという国は、世界地図か地球儀でしか見ることはない。つまり、実に小さな島の、西半分でしかない。こんな小さな国で「ハイチ地震」なる大地震が起こったのだから、ハイチ中が壊滅状態だろう、という想像が働く。実際に、大手メディアでは、壊滅した光景しか放送されなかった。故に、そんなところに豪華客船なんて不謹慎だということになり、ハイチが実は2万7千平方kmも面積があり、全く壊滅していないで通常営業中の観光地があることには思い至らない。
 しかし、これがもしも「ハイチ南東部大地震」というネーミングだったらどうか。もっと多くの人が、問題の観光地がどこにあるかを調べ、160kmも離れているのか、じゃあ大丈夫だろう、ということになっただろう。

 「東日本大震災」も同様である。中国でも「東日本大震災」「東日本大地震」として報道され、その結果、「東京も東日本だろう。甚大な被害を受けたのだろう。旅行に行くのはやめよう」という話になる。何しろ、彼らにとっての日本は、日本人にとってのハイチ以上に、小島である。普段は世界地図でしか見ることのない存在である。仙台と東京の距離感など全く分からない。
 よく調べれば、東京は大した被害を受けていないが、すぐに分かる。しかし、旅行先は日本でも韓国でもヴェトナムでも良い、というくらいの気持ちで休暇を楽しもうとする人たちにとっては、よくよく調査するなどという面倒なことをする前に、「じゃあ日本に行くのはやめて韓国にしよう」ということになる。

 決してその他の場所で被害がなかったということではないが、「東東北茨城大震災」くらいにしておいた方が良かったのではないか、と思う(「東東北」というのは、まるで十六方位の一つみたいだが)。

日本語としての外来語

2010-08-30 21:18:49 | 言葉


中国人の友人と話していると、たまに、
「日本人が英語が下手なのは、カタカナ語のせいだ」
ということを言われる。

確かに、かつて父がアメリカに行った時、マクドナルドで「コーヒー」を注文したらコーラが来たという。これは、まさしくカタカナ語の弊害と謂えよう。
もっとも、「salad」を「沙拉(shala)」、「sandwich」を「三明治(sanmingzhi)」と呼ぶ中国人に言われる筋合いでもないだろう。


しかし、こうした中で、横文字の言葉を如何に表記すべきかという問題について、一律に教科書に従わず、工夫を試みる者もいる。

「丸の内ビルヂング」が「丸の内ビルディング」になったこのご時勢、「コーヒー」がこのように「コーフィー」と表記しても良かろう。この方が、アメリカに行ってもコーラを出されずに済むかもしれない。ならばいっそ「カフィー」にすれば良さそうなものだが、そこであえて「コーフィー」に留めるところに、こだわりが感じられる。

なお、「building」についても、「ビルヂング」「ビルディング」以外に、独自の表記をするものがいる。それも大会社で。
去年だったか、空港が軒並み大赤字であるのに、空港ビル管理会社が免税店や駐車場等を独占的に経営することで巨利を得ていることについて、少しだけ報道されたことがあった。その代表格で、羽田空港を縄張りとしているのが、「日本空港ビルデング」という名称である。

また、その他、「ヒルディング」というものまである。



思うに、
そもそも、「ビルヂング」にせよ「ビルディング」にせよ「ビルデング」にせよ、
英語そのままの発音ではないのだし、日本語の中で使用される単語なのだから、
まずは日本語としての響きがどのようであるかを問題にすべきである。

古くから東京駅と皇居の間に立つ丸ビルが、「ビルヂング」と「ビルディング」のいずれの表記を採る方がその伝統と格式にふさわしいのか、いずれが雅な味わいを有するのか、考えてみるべきだったのではないかと思う。

例えば、地方紙にこのようなものがあるが、

「デイリー」と改称しないからこそ保ち続ける興趣というものがあるのではなかろうか。

いたずらに原語の発音への近さを追求すると、小賢しさをも通り過ぎて、却って野暮ったくなってしまう危険性すらある。


日本語としての見た目・聴こえをもう少し考えるべきであろう。


ただし、もちろん、それにも限度はある。
カタカナとアルファベットが離れすぎていてもいけない。
何事にも、バランス感覚は大切である。

・「Deneii」で「デンエー」


・「Angel Home」で「エンジエルハイツ」

「そうだ、彼岸、行こう」

2010-06-24 23:35:47 | 言葉
電通に言われるまでもなく、キャッチフレーズは重要なものである。(そういえば、電通自体の広告はあまり見かけない。)
毛沢東が数億もの人間を十数年に渡って煽動し続けるという空前絶後の偉業をなしたのも、彼の天才的なまでのフレーズ力に拠るところが大きい。
「你死我活」「造反有理」「人多力量大」「不爬長城非常漢」等々。簡潔でリズムも良く、しかも意味は極めて明瞭で憶えやすい。
かつて白話運動の提唱者胡適は、毛沢東の文章について、「白話を完成させるのは彼である」と述べたが、その評は実に正しかった。胡適自身の白話文学は見るに耐えないお粗末なものであるが、毛沢東の文章は芸術的なまでに完成された白話である。



ところで、日本で最も有名な仏教経典といえば般若心経で、真宗・日蓮宗を除けば、ほとんどの宗派で用いられている。
この経典は大般若経(オソロシク長い)のエッセンスを取り出して短くまとめたもので、非常に短いのにも関わらず効果抜群であるというのが最大のセールスポイントである。中でもその末尾にある呪文は、それを唱えるだけでもご利益があるというのだから、エッセンス中のエッセンスと謂えよう。
しかし、この呪文、漢訳では音写するのみで訳出されていない。
「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
というのも、原文がサンスクリット文法の規則から外れているため、玄奘も確信を持てる翻訳を行えなかったからであろう。
「gate gate paragate parasamgate bodhi svaha」
(中村元は試みに「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」と訳している。)
文法的に正確でなかったために訳出されず、東アジアの一般人には意味を理解できない音写であったために、むしろ「よく分からないけれどありがたい言葉」として歓迎されて広まったという側面もあるだろう。

この呪文について、サンスクリット及びパーリ語に詳しい先生に意味を訊いてみた。
「般若心経の"ぎゃーてー"って、サンスクリットでは、どんな意味なんですか?」
「"ガテー"というのは、恐らく命令形で、"行こう"という意味でしょう。」
「じゃあ、"はら"は?」
「"パーラー"は"彼岸"。」
「ということは、"羯諦 羯諦 波羅羯諦"というのは、"行こう、行こう、彼岸へ行こう"という感じですか? 何だかすごく簡単で、軽快ですねぇ。」
「そうそう、"ゴーゴー、彼岸へゴー"って感じ。」
「軽っ!!」

(以下、脳内BGM

「"はらそうぎゃーてー"の"そう"は?」
「"みんなで"という意味だよ。」
「じゃあ、"波羅僧羯諦"は"みんなでGO、彼岸へゴー"みたいな感じですか?」
「そうだねぇ、"Let's go to the HIGAN"みたいな?」
「うわ、さいてー。じゃあ、最後の"ぼーじーそわかー"は?」
「"ボーディ"は"悟り"、"スヴァーハー"は"幸あれ"だよ。」
「ってことは、"Have a Happy SATORI"?」
「You're Right!」
「さいてー」


○訳出
「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
⇒「ゴーゴー、彼岸へゴー! みんなでゴー! ハッピー悟り!!」

○結論
般若心経の末尾にある陀羅尼は、思想的な内容は全く無く、経典全体のエッセンスというよりは、宣伝用キャッチフレーズ。語呂よく軽快な言葉で、多くの一般的インド人を大乗仏教へ勧誘したものと想像される。

続き

2010-06-22 12:22:39 | 言葉
親鸞が阿弥陀を信じる理由として、「賜はりたる信心」、即ち「我々は、阿弥陀によって、阿弥陀を信じる力を与えられているが故に、阿弥陀を信じること」を述べたというお話は、論理が非常にすっきり通っており、大変感心致しました。

ところで、「信じること」が本質的に「信じさせられること」であるということについて、英語の語法を用いて説明なさろうとして失敗していましたが、
今少し考えたのですが、英語ではなく「信じる」という我々の言葉自体が、原義からすれば受身から成り立ったものではないでしょうか。

「シンじる」というのは「カンサツする」と同様、「漢語+す」で作られた言葉で、謂わば漢語です。
では、「信」の原義が何かというと、「マコト」という和訓があるように、「言った言葉が真実であること」という形容詞です。
「その壁は青い」と同じような文法構造で「その話は信である」と言うわけです。

つまり、「信じる」というのは、「その話が信である」と思うことであり、謂わば「その話」によって「信じさせられる」ということです。(ただ、漢語の特質として、能動・受動の別は語法でははっきりしませんが)
喩えてみれば、その成り立ちは、「壁が青い」ということについて、「私はその壁を青ずる」というような感じでしょうか。対象自体が青いために「それが青だ」と認識させられることを「青ずる」と表現する。「信じる」というのは、このように、客観的事実によってそのような認識をさせられる、という形で生まれた言葉と謂えます。


ただ、蛇足ながら、認識について少し踏み込んで考えれば、「その話が信(まこと)である」という「客観的事実」も、結局は私がそう認識するということをしか表していないわけではあります。しかし、それはまた別の話でしょう。「その壁は青い」というのも、究極的には「私にはその壁が青く見える」ということを述べているに過ぎません(そして、光学的には、その壁自体は青以外の全ての色を吸収するが故に青く見えるのであり、謂ってみればその壁の色自体は本質的には「青以外の全て」になるわけです)。
しかし、それを言い出すと、全ての言葉が、「我思うと我思う、故に我在りと我思う」状態になるわけで、これは語意の話とはまた別個に論ずべき、存在と認識に関する問題でしょう。


もう一度整理しますと、
「信」の原義は「それが真実であること」で、
それを元にして「それが真実であることによって、それを真実と思わされること」という「信じる」が派生したわけです。

使えそうでしょうか?

草々

變換

2010-05-02 23:25:28 | 言葉
最近、いまいち平仮名が読めない。
「岐阜とセット」には笑ったが、我が身を振り返ると実は笑えない。
ひらがなといふものはいみのゆれはばがおおきいうへにたんごのくぎれめがひじやうにわかりにくいものだとおもふ。

脳味噌にATOKをインストールしたい。



更にヒドイのは、横文字。
「Today」を「東大」と読みそうになるのは愛校心の表れとしても、
「Meidaimae」を見ると「マイダイメー」「メーデーメー」等と言いそうになる。
「Kichijōji」なんぞは上に付いている点や棒の多さに目が眩む。痴気情事。
「Toei Bus」に至っては、「都営ブス」。なんとヒドイ!

ひとたび「Bus」を「ブス」と読み出してしまうと、ついに自動誤変換装置はカタカナにまで侵食し始め、他の色々な「バス」が「ブス」に見えてくる。
京王ブス。
小田急ブス。
路線ブス。
長距離ブス。
夜行ブス。
高速ブス。
ブスターミナル。
ブスガス爆発。あるいは、ブス爆発。

ううむ、これはビョーキだ。もう街を歩けない。

漢文教育の意義について

2010-03-22 23:41:21 | 言葉
自分が何を専門にしているのかを他人に話す時、
「中国哲学」「古代中国の思想」と言っても反応がいまいちな場合、
私はよく「まぁ、具体的には所謂”漢文”を読む仕事です」と言う。
非常に語弊があるし、実際に多大な誤解を伴うのだが、普段していることを手っ取り早くイメージしてもらい、更には、早くこの話題を片付けたい場合に、この手が簡便なのである。

「漢文を読む」と言われると、普通の人は、振り仮名や送り仮名、「レ点」や「一二点」といった返り点の類が施されたものを訓読したことを思い出すと思うが、私が普段読んでいるのは、そういう日本的加工が一切なされていない「白文」と呼ばれるもので、句読点すらないものも珍しくない。
漢文というのは、少なくとも古代の中国人が書いた文章というのは、本来はそういうものなのだ。
反対に言えば、中等教育の授業で読む「漢文」というのは、8割程度は既に日本語に訳されているものなのである。つまり、授業でいくら優秀でも、外国語としての漢文を読解する能力を習得することはあまり期待できない。

更に言えば、漢文の授業で教鞭を取る教師たちも、その多くは、やはりその能力がない。漢文教師というのは単なる国語科教員に過ぎない。国語科の教員免許を取得するために必要な漢文読解能力など、無いに等しい。古代中国の文献に関わる専門分野で研究をしていたならともかく、そうでなければ漢文読解能力を身につける機会がほとんど無いまま大学を卒業してしまう。(ひどい言い方をしているようだが、これは事実である。しかし、私はそれでも彼らを尊敬している。自分の専門外のことを生徒に教えるために、彼らは大変な努力を払い、大変なプレッシャーに耐えて教壇に立っているのだから。)

つまり、現在の中等教育では、どうやっても、外国語としての漢文が読めるようにはならない。

付け加えれば、もしも、多大な努力を払って、外国語としての漢文を何とか読めるようになったとしても、それで現代中国語が読めるようになるわけではない。というのは、漢文は基本的に古代語であり、当然ながら現代語とはかなり異なるからである。日本語でも、例えば一人のフランス人が『源氏物語』の原文を読めるからと言って、彼が村上春樹を読めるとは限らないだろう。



では、中等教育で漢文を教えるのは、意味がないことなのだろうか。
私はそうではないと思う。

確かに、古代中国語を読む能力も、現代中国語を読む能力も、期待できない。
訓読の規則に従って送り仮名や「レ点」が施された、まさに中等教育用漢文と謂うべきものを読めるようになるだけで、実際的な語学能力は一切身につかない。
しかし、漢文教育の意味というのは、実際的な語学能力とは別のところにある。
それは、白文であれ返り点だらけであれ完全に和文に書き下されたものであれ、そういった漢文もしくは漢文由来の日本語は、紛れも無く我々の文化の重要な一部であり、それを無視してはならないものだということである。

古来、日本人は中国から大量の書物を取り入れ、それを読んで来た。
そもそも、初期にはあらゆる文書は漢文で書かれたし、仮名文字の発明以降も多くのものが漢文で書かれた。
こういった経緯から、言語・文学・倫理など、様々な精神活動が漢文によって直接・間接の影響を被って来た。
日本語の中に漢文由来の要素が大量に含まれていること。
日本人の手になる漢詩文はもちろん、『枕草子』の中にある中国の故事、『平家物語』が何故「漢文調」と呼ばれるのか、といったこと。
倫理規範や価値意識、国家観や芸術観に於いて、中国の典籍の影響がどれだけ大きかったのか。
こういった事柄は、いずれも、自らで漢文にあたってみないと分からない。
『徒然草』や『奥の細道』を読んでおかなければならないのと同様の理由で、
『論語』や『老子』、あるいは唐詩の類にも触れておくべきなのである。

また、日本語の語彙のセンス、あるいはリズム感といったものも、
漢文訓読の影響を多大に受けている。
直接に漢文訓読をしたことがなくても、漱石や芥川といった人々を通じて、
あるいは漱石や芥川の文章の影響を受けた人の言葉を通じて、
我々には、漢文訓読の感覚を肌で身につけているのではないか。
私はこういったことを「伝統」と呼ぶのだが、
「伝統」の上で成り立っている言語感覚を洗練させるのにも、
「伝統」を深い部分で支えてきた漢文訓読に触れることが役に立つように思う。

つまり、これらのような意味があるからこそ、
外国語としての漢文ではなく、国語としての漢文訓読を学ぶべきなのである。
中国人から見ても西洋人から見ても奇怪なものであるし、現代に於いて実用に供する技術とは思えないが、
日本人はこの漢文訓読という方法に拠って中国由来の語彙・論理・観念・価値観を取り入れ、日本化して来たのである。
魚を得れば筌は忘れ、兎を得れば蹄は忘れ、甚だしくは「狡兎死して走狗煮らる」という喩えすらあるけれど、「伝統」を承け継ぐということについて言えば、筌蹄を失うべきではない。
我々の奥底に、朧気でよく見えないが、しかし確かに存在する伝統的感覚というものを、目に見える形で確認する。この作業が、中等教育の漢文科目が果たすべき役割なのである。だからこそ、中国語がまるで専門外の国語科教員たちに漢文教育が託されているのではないだろうか。


以前、英語教育についての問題で「国語教育が云々」という話が提起されたことがあった。
これについて、私は別の日記の中で述べたように、まるで筋違いな意見だと思っているのだが、
少し残念なのは、「最近の日本語の乱れ」を気にするのであれば、
もうちょっと古文・漢文教育の重要性について議論を深めて欲しかった。



なお、蛇足ながら、同じ理屈で、
西洋文学の翻訳物を国語科で扱うことにも意味があると思う。
例えば、シェークスピアは原文で読まないと本来の意図が分からない、とはよく言われるが、
それでも、原文の意図を損ねながら翻訳されたものを我々は読み、
そこで得られた知識や感覚によって、日本語による新たな文学作品が生まれている。
「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」等は、既に人口に膾炙した言葉となっていて、それがネタとなった表現も多い。
こういった著名な翻訳作品に多く触れることも、やはり重要なのではないだろうか。
少なくとも、以前にも書いたが、ギャグの元ネタが分かるというのは、大事な教養のように思う。

「支那」が一発変換できない

2010-01-04 00:00:35 | 言葉
「支那」なんて言葉は普通は使わないということか。
「支那蕎麦」を「中華蕎麦」と言い換えるご時世。
しかし、戦前の論文を引用するような我々にとっては少し不便。
いや、まぁ、それでも辞書登録すれば良いだけなのであるが。

そもそも、「シナ」ってそんなの悪い言葉なのか、と思うこともある。
あんまり詳しくは知らないけれど、要するに「秦」から来たとか何とかかんとか、「China」が云々かんぬん、という話はよく聞く。
つまり、元々は蔑称ではないのだ。
しかし、おそらくは歴史的経緯によって、悪いイメージが付加されたのだろう。
そうしたら、やはり使うのは控えないといけない。
原義の問題ではなくて、歴史的問題。


「盲人(これは一発変換できた)」はまだギリギリセーフらしいけれど、
「めくら(「盲」に一発変換できない)」と言うのはアウトらしい。
これも要するに、軽蔑する文脈で使われ続けた経緯があるからだろう。
今後の我々の意識次第では、「視覚障害者」というのも差別用語として別の語に言い換えられる日が来るかもしれない。


そういえば、「碍」を常用漢字にする案は通らなかったらしい。
だから、「障碍者」は今後も公的には「障害者」とか「障がい者」と書き続けることになる。
「碍」と「害」では意味が少し違うのだけれど、仕方ない。言葉はこうやって役所の都合でも変わっていくものなのだ。
「恢復」を「回復」に書き換え、
「疏通」を「疎通」に書き換え、
それぞれその時には反対意見があっただろうが、今の我々の感覚では「回復」「疎通」が当たり前になっている。

字自体の改変もまた然り。
元々異なる字だった「芸」「藝」、「余」「餘」、「予」「豫」、「弁」「辨」「辯」はそれぞれ一つの漢字にまとめられたが、
今更書き分けろと言われても、大変。

音通や形の類似で用字や言葉が変わっていくのは大昔からのことなのだから、伝統やら原義やらを持ち出して、古きに帰れと主張する気はあまりない。
それよりも、今の字体で入力したものを、後から「やっぱり旧字の方がかっこいい」とか何とか言って、よく知りもしないで置換をかけて、本来「余」であるべき字まで「餘」にしてしまうことの方がオソロシイ。


しかし、それでも美意識というのはあるべきだと思う。
今回、「聘」も通らなかったらしい。
以前ロシア人の友人を日本に呼ぼうとした際、外務省に提出を要求された書類が「招へい書」。

「招へい書」

文書の一番始めの一番目立つところに一番大きな字で
「招へい書」

……かっこわる。。


思わず「招聘書」に書き換えたくなったが、末端でも公式文書なので、フォーマットに従って「招へい書」にせざるを得ない。

これはかっこ悪い。
このかっこ悪い名前の文書が、年間膨大な数作成されている。しかも、それはおそらく外国人に見られる書類として。――国の恥。
ちょっと何とかして欲しいと思う。書き換えでも何でもいいから。

紛らわしい

2009-09-20 15:12:44 | 言葉
……と思うのは、自分だけだろうな。


新聞を読んでいたら、
「モンドセレクションスピリッツ及びリキュール部門にて最高金賞受賞。でも焼酎」
というようなキャッチフレーズで、「Mellowed KOZURU」なる酒を宣伝していた。

そうかそうか、國府鶴なのに焼酎か、だから「でも焼酎」と言うんだな、
と思った。
(國府鶴(こうづる)というのは、府中の野口酒造が造っている日本酒である)

しかし、一瞬考えてみると、そんなわけはない。
國府鶴は特にうまい酒でもない。
焼酎を造ってみたところで、モンドセレクション最高金賞など取れるであろうか、
と思ったところで、よくよく見ると、鹿児島県日置市のメーカー。
調べてみると、「小鶴」なる焼酎を製造している。


ローマ字というのは、なんとなく紛らわしい。
もっとも、「KOZURU」と書かれて、「國府鶴」を思い浮かべる人間など、まずいない。
小正酒造も、野口酒造のことなど知るはずもないだろう。
私の主張は、関東以外の地域から来た人間に、「メイダイと言ったら、明治大学でしょう」というようなものである。

それでも、「小鶴」と書いて欲しかった。


いや、ホントにどうでもいい話ですが。

「丸の内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に変わってしばらく経つが

2009-08-06 01:20:49 | 言葉
「ビルヂング」という言葉も根強い。
日本ビルヂング協会連合会

そして、「ビルデング」というのもある。
日本空港ビルデング株式会社


私個人としては、分かれば何でも良いと思う。

漢字の音読みと同じで、
原語の発音と全く関係ないものにはしないけれど、
どうしても、日本人的な発音になるのだから。

ただ、「ロミ男とズリエット」なんて言われると分からないし、
「スィーディーラジカセ」というのも分かりづらい。
「ディジタル」というのは最近よく見かけるが、何となく衒学的。

「論語」は「ろんご」ではなくて、本当は「りんぎょ」が原語の音韻体系に忠実なのだが(実際、江戸時代の仮名書き本では「りんぎょ」というものがある)、
日本語としては、やはり「ろんご」だろう。
また、「輪廻転生」を「ろんかいてんせい」では意味が通じない。

しかし、ネイティブ(ネイチブ?)の人達からすれば、
「ズリエット」だろうと「りんぎょ」だろうと関係ない。
日本人が勝手に読み慣わしているに過ぎない。


「みぞうゆう」と言って物議を醸した人がいたけれど、
私は「みぞうゆう」でも良いと思う。
あれを「みぞう」と読むようになった理由を知っている人が、
果たしてどれだけいることだろう。


そういえば、ふと思い出した。
高校の時、英語教師が、
「DVD」を「ディーブイデー」と言っていて、
みんなで笑ったのだった。