かなり前のことだが、田中成明氏の『現代法理論』を読んだことがある。
私は法学について完全に素人だが、法学に於ける「正義」について触れてみたかったのである。
田中氏は、「正義」について「形式的正義」と「実質的正義」とに分け、
司法の役割を、法を公正に運用する形式的正義のみならず、
それが実際的に正義である実質的正義の実現を目指すべきものとしている。
これは「悪法も法」を否定する現代法学の基本的な立場である。
しかし、何が「実際的な正義」なのか、
これが大きな問題であり、私が知りたいことである。
「実際的な正義」すなわち所謂「正義」の主張というのは、
宗教、倫理、イデオロギーの根本的な事柄であり、
古来膨大な主張や研究があったが、未だ絶対的な回答はない。
時代ごと、国ごと、そして個々人によって異なる見解を持つ以上、
「実際的な正義」についてうかつなことは言えない。
その点で氏はうまくまとめている。
すなわち、「実際的正義」について何か絶対的な基準を定めるのではなく、
裁判官が、何が現在一般的に「正義」として受け入れられているのか、を考慮し、
それを判断に反映させていくべき、というようなことを述べている。
また、他の箇所で、
多数派に従うということではなく、少数者の考えも汲み取り、それを尊重することで、
司法は、多数者の専制を防ぐ役割を有する、という旨を述べている。
要するに、何を「正義」とするかということについて、
少数者の抑圧にならないような判断も組み入れつつ、
同時代的な社会一般の通念に従うということである。
至極まっとうな論である。
何を正義とするか、という哲学的な問題に深入りせず、
社会通念という非常な曖昧なものを基準とさせることで、
無難で、かつ柔軟な運用を可能にするものである。
こういった判断は何も法学だけに限らないと思う。
例えば、「なぜ生きるのか」という命題について、
宗教や強い倫理意識でもない限り、
自己の深い思考に基づいた明確な解答を持っている人はそれほどいない。
深く考えれば考えるほど解答は遠ざかり、古来様々な哲学者が苦悩したものである。
しかし、我々は生きている。
「楽しいから」「生きるって素晴らしい」「死ぬのがイヤ」という利己的な動機もあれば、
「子孫を残すため」「自分が死ぬと困る人がいる」「社会に貢献したい」という利他的な動機もある。
利己的な動機は、ア・プリオリな判断、もしくは社会通念に拠る価値観であり、
これを哲学的に突き詰めると、大抵は虚無的な相対主義に陥る。
古来、精神的な健常性を保ったまま哲学的な論に耐え得たのは、
多くは後者のような、利他的な動機論である。
しかし、「誰かのために」と言う中に、その「誰か」が明確な生存動機を持っていなければ、
本当にその「誰か」の「ため」になるのかは分からない。
例えば「この子のためにはまだ死ねない」という言葉は、
その子にとって人生が意味あるものである、という前提を本に、
その子の人生のために貢献することに自分の人生の意味を見出すということである。
もし、その子自身が「生きる意味」を持っていなければ、
「その子のために生きる」という結論は導き出せない。
故に、生存についての利他的な動機というのは、他者に生存の意義を依存することと言える。
他者が、完全にその思考を理解することの適わないものであるからこそ(自分が相手になることは不可能であるため)、
その曖昧さに依存して、自分の生きる根拠を他者に押し付けることができるのである。
どうしても明確には言い得ないことを判断する際に、他者性の持つ曖昧さに依存する、
これは極めて優れた手段であると思う。
私は法学について完全に素人だが、法学に於ける「正義」について触れてみたかったのである。
田中氏は、「正義」について「形式的正義」と「実質的正義」とに分け、
司法の役割を、法を公正に運用する形式的正義のみならず、
それが実際的に正義である実質的正義の実現を目指すべきものとしている。
これは「悪法も法」を否定する現代法学の基本的な立場である。
しかし、何が「実際的な正義」なのか、
これが大きな問題であり、私が知りたいことである。
「実際的な正義」すなわち所謂「正義」の主張というのは、
宗教、倫理、イデオロギーの根本的な事柄であり、
古来膨大な主張や研究があったが、未だ絶対的な回答はない。
時代ごと、国ごと、そして個々人によって異なる見解を持つ以上、
「実際的な正義」についてうかつなことは言えない。
その点で氏はうまくまとめている。
すなわち、「実際的正義」について何か絶対的な基準を定めるのではなく、
裁判官が、何が現在一般的に「正義」として受け入れられているのか、を考慮し、
それを判断に反映させていくべき、というようなことを述べている。
また、他の箇所で、
多数派に従うということではなく、少数者の考えも汲み取り、それを尊重することで、
司法は、多数者の専制を防ぐ役割を有する、という旨を述べている。
要するに、何を「正義」とするかということについて、
少数者の抑圧にならないような判断も組み入れつつ、
同時代的な社会一般の通念に従うということである。
至極まっとうな論である。
何を正義とするか、という哲学的な問題に深入りせず、
社会通念という非常な曖昧なものを基準とさせることで、
無難で、かつ柔軟な運用を可能にするものである。
こういった判断は何も法学だけに限らないと思う。
例えば、「なぜ生きるのか」という命題について、
宗教や強い倫理意識でもない限り、
自己の深い思考に基づいた明確な解答を持っている人はそれほどいない。
深く考えれば考えるほど解答は遠ざかり、古来様々な哲学者が苦悩したものである。
しかし、我々は生きている。
「楽しいから」「生きるって素晴らしい」「死ぬのがイヤ」という利己的な動機もあれば、
「子孫を残すため」「自分が死ぬと困る人がいる」「社会に貢献したい」という利他的な動機もある。
利己的な動機は、ア・プリオリな判断、もしくは社会通念に拠る価値観であり、
これを哲学的に突き詰めると、大抵は虚無的な相対主義に陥る。
古来、精神的な健常性を保ったまま哲学的な論に耐え得たのは、
多くは後者のような、利他的な動機論である。
しかし、「誰かのために」と言う中に、その「誰か」が明確な生存動機を持っていなければ、
本当にその「誰か」の「ため」になるのかは分からない。
例えば「この子のためにはまだ死ねない」という言葉は、
その子にとって人生が意味あるものである、という前提を本に、
その子の人生のために貢献することに自分の人生の意味を見出すということである。
もし、その子自身が「生きる意味」を持っていなければ、
「その子のために生きる」という結論は導き出せない。
故に、生存についての利他的な動機というのは、他者に生存の意義を依存することと言える。
他者が、完全にその思考を理解することの適わないものであるからこそ(自分が相手になることは不可能であるため)、
その曖昧さに依存して、自分の生きる根拠を他者に押し付けることができるのである。
どうしても明確には言い得ないことを判断する際に、他者性の持つ曖昧さに依存する、
これは極めて優れた手段であると思う。
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