道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

続き

2010-06-22 12:22:39 | 言葉
親鸞が阿弥陀を信じる理由として、「賜はりたる信心」、即ち「我々は、阿弥陀によって、阿弥陀を信じる力を与えられているが故に、阿弥陀を信じること」を述べたというお話は、論理が非常にすっきり通っており、大変感心致しました。

ところで、「信じること」が本質的に「信じさせられること」であるということについて、英語の語法を用いて説明なさろうとして失敗していましたが、
今少し考えたのですが、英語ではなく「信じる」という我々の言葉自体が、原義からすれば受身から成り立ったものではないでしょうか。

「シンじる」というのは「カンサツする」と同様、「漢語+す」で作られた言葉で、謂わば漢語です。
では、「信」の原義が何かというと、「マコト」という和訓があるように、「言った言葉が真実であること」という形容詞です。
「その壁は青い」と同じような文法構造で「その話は信である」と言うわけです。

つまり、「信じる」というのは、「その話が信である」と思うことであり、謂わば「その話」によって「信じさせられる」ということです。(ただ、漢語の特質として、能動・受動の別は語法でははっきりしませんが)
喩えてみれば、その成り立ちは、「壁が青い」ということについて、「私はその壁を青ずる」というような感じでしょうか。対象自体が青いために「それが青だ」と認識させられることを「青ずる」と表現する。「信じる」というのは、このように、客観的事実によってそのような認識をさせられる、という形で生まれた言葉と謂えます。


ただ、蛇足ながら、認識について少し踏み込んで考えれば、「その話が信(まこと)である」という「客観的事実」も、結局は私がそう認識するということをしか表していないわけではあります。しかし、それはまた別の話でしょう。「その壁は青い」というのも、究極的には「私にはその壁が青く見える」ということを述べているに過ぎません(そして、光学的には、その壁自体は青以外の全ての色を吸収するが故に青く見えるのであり、謂ってみればその壁の色自体は本質的には「青以外の全て」になるわけです)。
しかし、それを言い出すと、全ての言葉が、「我思うと我思う、故に我在りと我思う」状態になるわけで、これは語意の話とはまた別個に論ずべき、存在と認識に関する問題でしょう。


もう一度整理しますと、
「信」の原義は「それが真実であること」で、
それを元にして「それが真実であることによって、それを真実と思わされること」という「信じる」が派生したわけです。

使えそうでしょうか?

草々

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