いつもは中国人の先生と日本人の先生との討論を聴く授業、
今日は日本人の先生がお休みだったので、
中国人の先生と我々学生とが討論することになった。
討論の中で、「魯迅の社会批判は、社会批判という形式を超えて、罵倒である」
という話になったのだが、その際、
「魯迅が採った手法は『毒を以って毒を制す』であり、
自ら毒の役割を担当したのは、人一倍責任感が強かったからだと思う」
というような言葉を、そのまま中国語で言った。
すると先生はこう言った。
「『人より責任感が強い』という表現はちょっとおかしい。
人は誰でも責任感を持っているものであり、
その強さ弱さというのは、頭の中のことだから、他人が分かることではないし、
誰かの責任感が、他の誰かの責任感より強い、ということは言えない」
それはそうなのであるが、ではどのように言えば良いかについて訊ねると、
「この問題について、彼は責任感を保持した」とのこと。
そうすると、中国語的感覚で「責任感」というのは、
とある問題に対して「ある」のか「ない」のかというものであって、
一個人の「責任感」という要素が「強い」「弱い」という考え方はできないのかもしれない。
なんでもないことのようであるが、こういった語感の違いが、
「戦争責任」などの問題を考える際に重要な要素になるのではないだろうか。
今日は日本人の先生がお休みだったので、
中国人の先生と我々学生とが討論することになった。
討論の中で、「魯迅の社会批判は、社会批判という形式を超えて、罵倒である」
という話になったのだが、その際、
「魯迅が採った手法は『毒を以って毒を制す』であり、
自ら毒の役割を担当したのは、人一倍責任感が強かったからだと思う」
というような言葉を、そのまま中国語で言った。
すると先生はこう言った。
「『人より責任感が強い』という表現はちょっとおかしい。
人は誰でも責任感を持っているものであり、
その強さ弱さというのは、頭の中のことだから、他人が分かることではないし、
誰かの責任感が、他の誰かの責任感より強い、ということは言えない」
それはそうなのであるが、ではどのように言えば良いかについて訊ねると、
「この問題について、彼は責任感を保持した」とのこと。
そうすると、中国語的感覚で「責任感」というのは、
とある問題に対して「ある」のか「ない」のかというものであって、
一個人の「責任感」という要素が「強い」「弱い」という考え方はできないのかもしれない。
なんでもないことのようであるが、こういった語感の違いが、
「戦争責任」などの問題を考える際に重要な要素になるのではないだろうか。
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