徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

日本国の成り立ち、続き

2010年11月03日 | 歴史
ご存知かと思うが、韓国語でウリナラというのは私の国と言う意味である。ナラは奈良でもある。5世紀頃の奈良の戸籍が木簡で残っているが、調べると90%程度が渡来人姓であることがわかる。先に書いた宇佐周辺の平安時代の戸籍でも80-90%が渡来人姓である。従来の渡来人観というのは先端技術を大陸からもたらした明治維新の頃のお雇い外人のイメージであったが、90%がそれとなると、全く違う認識が必要になる。台湾の人口比率は本省人74%、客家12%、外省人12%、原住民2%となっているが渡来人の90%というのはこの感じに近い。台湾では約400年前、明の時代に客家をはじめとする漢民族が大挙して移住を行い、先住民を山に追いやってしまった。日本でもおよそ2200年前頃に同じような事が起こったのだろう。この頃の大陸や朝鮮半島は春秋時代の動乱で負け組みの離脱圧が高くそれが稲作と共に日本列島、特に九州、出雲に向かった。その子孫が私でありこれを読んでいる、あなたである。日本語というのは世界的に見てユニークな言語だが日本語と朝鮮語とは全く文法が同じで、日本人と朝鮮人が元々は同一民族であったという主張に反論する事は難しかろう。
もっと言うと、宇佐神宮は八幡宮の総本山であるが八幡は元々は”ヤハタ”と読む。この”ハタ”は秦に通じ八幡というのは元々は渡来系秦氏の神様なのである。その上で宇佐が天皇家の宗廟である事実を考えると、天皇家が渡来系の秦氏と深いつながりがあることは明らかであろう。
さて、渡来系弥生人が日本列島に大挙来日する前には縄文人が狩猟採集生活を送っていた。この縄文人はどこに行ったのであろうか? 問題というのがある。関西以西の地域では被差別がありそこに住む人々は、いわれの無い差別に今でも苦しんでいる。ところが不思議なことに東日本、関東、東北に行くとこのがほとんど無いのである。滋賀でも 稚鮎を全国に配布している漁業関係者や鈴鹿山脈には昔から山家(サンガ)と言われる人々が狩猟を糧として住んでいた。渡来人が大陸、朝鮮から九州、出雲を中心に移住して来たとすると縄文の人々は西から徐々に押されて北上すると共に、各地に島状にその居住地を残してきたのではないか?関東以北は平安時代以降も蝦夷=縄文が勢力を温存し、渡来人の侵入が容易でなかったので関西地域のような分布には為らなかった、と考えると現在の被差別民というのは縄文=先住民の末裔ではなかろうかと思えてくる。縄文血統に関してはATLウイルスでのトレースが知られているが、当のにおけるATLデータがあればこれを裏付ける事が出来るのではないだろうか。ちなみに私の亡くなった叔父さんはATLキャリアであったがその出身地は、女装した日本武尊のだまし討ちにあった土蜘蛛族の本拠地(青龍窟)の近くであった。

日本国の成り立ち

2010年11月03日 | 歴史
私の母の郷里は九州の豊前市で宇佐神宮との関わりが深いところです。宇佐神宮は伊勢神宮と並ぶ皇室の宗廟であり、代替わりのたびに皇室は勅使を送ってきます。歴史上では道鏡事件の際に和気清麻呂を勅使として宇佐神宮に送り、宇佐の神託を得た事でも有名です。ちなみに、もう一方の伊勢神宮には皇室はこの1000年間足を踏み入れていません。さて宇佐神宮の祭神ですが、応神天皇、比売大神、神宮皇后となっています。参拝するとわかるのですが、中央の主殿には比売大神が祭られ応神天皇と神宮皇后は全くの脇役です。この比売大神というのは何者か?という事ですが、宗像3女神の一人という俗説もありますが私はそうは考えていません。

話は飛びますが、魏志倭人伝の邪馬台国への道程に関しては諸説ありますが高木 彬光が邪馬台国の秘密という本の中でユニークな説を展開しています。彼はまず当時は縄文海進のなごりで海面が現在より7m-10m高かった事実から、定説とされている松浦=末廬国への上陸は無かっただろうと主張します。その代わりに上陸は縄文時代から海のシルクロードとして多くの遺跡が出ている沖ノ島、宗像ルートであったろうと至極尤もな議論を展開します。出発点が宗像神社であれば魏志倭人伝の記述通りに進めば宇佐神宮に到達することになります。なお、多くの研究者を悩ませていた後の文章にある”南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月”は帯方郡から邪馬台国への全工程を示しているとの解釈です。私自身も”女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり”という文章があるので奈良、大和が邪馬台国である可能性は薄いと考えていたので木説は眼から鱗の感を得ました。

宇佐神宮をGogleEarthで見ると判りますが、本殿はマウンド(築山)の上に立てられており、地元の人は皆、あれは御陵だと思っています。その築山の天辺の真ん中に祭られている女性名詞の比売大神を、私は卑弥呼ではないかと考えています。

またまた話は飛びますが”天文学者斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では4日)に北部九州皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。”という話があります。これで思い出されるのは古事記の天照大神が天の岩戸にお隠れになった伝承です。古代人にとって、卑弥呼が没した年に日が隠れ暗黒が襲った事実は印象が深く伝承として残ったと容易に推測できます。

これらより、私は邪馬台国は宇佐周辺にあった。宇佐神宮の主神は卑弥呼を祭っている。卑弥呼は天照大神であり天皇家の始祖である。と、考えています。

英語力についての関連記事

2010年11月03日 | 海外ボランティア
前回、英語力について思うところを書いたが、それに関する記事があったので紹介します。
------------------------------------------------------------------------------
 日本とフランスは比較的、互いの文化を尊重しているといえるだろう。しかしフランス旅行中 に、不快な体験をしたという日本人旅行者の声もある。これは、日本人とフランス人のコミュニケーションにおけるマナーの違いによるものが多いようだ。 
フランス人のブログ「Shinmanga」では、フランス人の筆者が日本人とフランス人のコミュ ニケーションの違いを紹介している。フランスでは欧米諸国と同様、言葉で明確に伝えるのがコミュニケーションの基本となる。そのため相手の意見を否定するときも、はっきり言葉で伝える。 しかし日本では、言葉はあくまで一手段で、沈黙や曖昧(あいまい)な表現なども含めて コミュニケーションしている、と筆者は語る。例えば、言い過ぎるよりも沈黙を選ぶことがある という。会議の席上で、言葉と言葉の間が欧米人よりも長いことがあり、フランス人の中にはこの沈黙の間に動揺する場合がある、とつづっている。また否定的な意見の場合は、率直に 言うのを避け、曖昧で、遠まわしな表現を使うのが、フランス人の感覚とは大きく異なる、と感じるようだ。 そのほか、日本人は相手の目を見ながら話さないという点にも触れている。相手の顔を 直視せず、のど元のあたりを見ながら話すという日本人も多い。フランス人同士ならばマナー 違反であるが、日本人の場合は悪意がないので、不快に思わないでほしい、と説明している。 一般的にフランスでは、日本人は人との輪を大切にする、静かな人たちであるといわれることが多い。一方で何を考えているのか理解しにくいという印象をもたれることもあるが、これは このようなコミュニケーションの違いが理由となっていそうだ。 国際化が進む中、欧米企業と取引が進む企業も増えている。語学習得も大切だが、それ ぞれの国の文化を知り、このようなマナーの違いを理解すれば、より円滑なコミュニケーションが可能になるだろう、と筆者は提案している。