長谷部恭男の、”憲法とは何か”という本を読んで、色々と考えさせられたのでちょっと書きます。
これを読んで、一番衝撃的だったのは、国とは何か?戦争とは何を目的にしているのか?愛国とはどういう意味か?という事がズバッと書いてあったことです。
国と言えば緑の祖国と、そこに住む国民をを思い浮かべますが、ところが、実は国の実質は憲法であり、戦争は敵国の憲法を書き換える事を目的に戦う... これが著者の結論です。
中世以前には憲法というものは無く、人は単一の価値観;宗教で括られていました。ところがヨーロッパではカトリックとプロテスタントの間で宗教戦争が起こり、血みどろの戦いが続き、この経験から、人には決して相容れない価値観があり、その個別の価値観の範囲である私的領域と、お互いに殺しあわないようにルールを決める公的領域を明確に分離する必要がある。これが近代立憲主義の出発点だと著者は言います。私的領域というのは言い換えると基本的人権で守られた、個人の自由の領域を指します。
戦前の日本を考えると、全ての日本人は公私の区別無く皇室を崇拝し、人の生活領域のすべては、天皇との近接関係によって評価され、自らの良心に照らして自由に判断し、活動しうる領域は誰一人として持ち合わせておらず、同時に、誰もが上位者への服従と奉仕を名目として、いかなる行動をも正当化しうる社会、これが日本型ファシズムです。
20世紀初頭に長距離高精度兵器の発達で、戦争形態がナポレオンの一点撃破戦略は不可能となり、敵を塹壕で包囲し殲滅する総力戦に変わってきました。そして、この変化により国民皆兵の必要が出てきた。逆説的ですが国民皆兵の前提は福祉国家なのです。戦争で死んでもらうために高福祉を保障する必要がある。
この時期には世界に三種類の国家が覇権を争っていた。立憲主義国家、共産主義国家とファシズム国家です。そして、第一次、二次世界大戦を通じて立憲国家と共産国家が手を握りファシズム国家を倒し、その憲法を書き換えさせた。日本では日本国憲法だし、ドイツでは東西に分かれ立憲主義憲法と共産主義憲法に書き換えた。
その後、長く冷戦が続いたがコンピュータ、インターネット等の情報技術の発達により共産国家は崩壊し東欧諸国、ロシアは自らの憲法を立憲主義に書き換え冷戦は終結した。
つまりは戦争は相手の憲法を書き換えるために起ったというわけで、日本が押し付け憲法を貰ったというのも、敗戦の当然の結果なのです。
最後に愛国とは何かという点、 国の実質が憲法であるなら、愛国とは現憲法を守ることだと著者は主張します。公務員は憲法99条で愛国者であることを義務付けられているし、愛国的な国民も憲法を守ることがそれに繋がるという事ですね。
ブータンも近年、憲法が発布されました。これでやっと近代国家になれたわけです。