徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

山本五十六

2019年11月17日 | 歴史

連合艦隊司令長官 山本五十六 半藤一利著 を読んで

 やって見せ 言って聞かせて させてみて 

         褒めてやらねば 人は動かじ 

と言ったのは山本五十六か

山本五十六は越後・長岡の人である。この本を書いた半藤氏も長岡の出身で同郷の英雄である五十六を非常に尊敬している。長岡藩は明治維新の際に幕府側についたせいで賊軍として討伐されていて、長岡の人はその後の明治政府から受けた仕打ちを根深く恨みに思っているらしい。そして、半藤はこう書いている ”西軍の末裔が太平洋戦争を始めて、国が亡びる寸前にまでしてしまったが、東軍の末裔が辛うじてこれを救ったのである。”と。

山本五十六はこの東軍の末裔として、非戦を徹底的に主張し開戦に反対し早期講和を目指した人であったと、この本を読んで初めて知った。

満州国が成立した後、日中は一触即発の状態にあり盧溝橋事件が勃発し日本は中華事変の泥沼に足を突っ込むことになる。この盧溝橋事件は日本の関東軍が中国侵略を目的としてエスカレーションさせたもので、停戦状態の中国軍に対し牟田口連隊長が独断で抗戦命令をくだし、事後報告をうけた河辺旅団長が無言のままそれを認可した、というのが真相らしい。この牟田口、河辺コンビというのが後にインパールで7万5千人の将兵を無策から白骨にした作戦責任者なのだ。

その後、日中戦争は日本軍が南京を陥落させ勝った勝ったとちょうちん行列で浮かれていると、毛沢東の八路軍と蒋介石の国民軍はどんどこ奥地に逃げ込んで、それを追う日本軍は都市は占領するが所詮点と線の占領で残る面の部分はゲリラの跳梁する中国側のエリアとなり、勝ってんだか負けてんだか良くわからない泥沼に足を取られた状況に陥っていた。

そんな中で欧州ではナチスが台頭してきて日独伊三国同盟を結ぶか結ばないか、喧々諤々の議論が続いていた。山本五十六らはこれを結べば米英と完全な敵対関係になることを恐れ海軍次官として徹底的に反対していたがナチスの電撃的な勝利を見た国民(衆愚)の国論には逆らえず同盟は締結され太平洋戦争へ突入していく。

そして真珠湾攻撃。これは山本が立案・実行した作戦だが戦術的には世界で初めて航空部隊を主力とした作戦であった。それまでは巨艦巨砲主義が主戦略であったのを180度転換した作戦で、結果として大戦果をもたらした。ちなみに、宣戦布告前の奇襲だとされているが山本自身は奇襲になる事態を恐れ何度も外務省に確認し宣戦布告後の開戦を模索していた。しかし、結果として外務省局員の英訳が間に合わず開戦二時間後に宣戦布告するという何とも間抜けな結果になりルーズベルトから散々卑怯な日本人というプロパガンダでアメリカ国民の戦意高揚を手助けする結果となった。

その後、ミッドウェー海戦での大敗北、ガダルカナル撤退など日本軍の負けが続く。エピソードとしてガダルカナルの激戦が続いている時期、戦艦大和はトラック島に停泊したままで作戦に加わらない。業を煮やしたガ島参謀がトラック島に怒鳴り込んでいくと海軍参謀から”実は燃料が無いんですよ”と言われ肩を落としたという話が書いてある。

山本長官は、作戦上捨て石になるラバウルを前線視察(実は全滅を前提とした別れ)に訪れ、そこから帰任する際に飛行計画を傍受した米軍のP38により撃墜され戦死した。

山本五十六という人は稀有な戦術家であり、日本軍にあって非戦を主張した数少ない軍人で、冒頭の警句にある人心掌握に優れた英雄であった、と

 

 

 

 


日本人の源流を読む

2018年12月31日 | 歴史

2017年に出版された最新のゲノム解析による日本人論、著者は斎藤成也・東大教授。

前半1/3は20万年前にアフリカで出現した我々ホモ・サピエンスが、どのような経過をたどって地球上に分布していったかをDNA解析を通じて解説している。これはこれで凄く面白いし最新の知見でこんな事まで解るのかという驚嘆すべき事実が述べられている。

ただ、私がこの本で最も注目したいのは日本人の3重構造説だ。従来より日本人の縄文系、弥生系の二重構造は定説になっているがゲノム解析の結果それだけでは説明しきれない事実が出てきた。

きっかけは出雲県人会の人たちのゲノム解析結果だ。

東京在住の出雲出身者でつくる出雲会メンバー21名の解析をしたところ関東人とは明らかに違う分布を示した。このクラスターは東北人のパターンと一致する。そう、松本清張の砂の器で語られた出雲と東北の類似性がDNA解析にも表れたのだ。

東北人のパターンは平均的日本人とは若干ズレているが沖縄・アイヌの縄文系パターンとも違う。著者は日本人は縄文の後に弥生第一波、弥生第二波の三段階の流入があったという仮説を立てている。

ここで思い浮かぶのが記紀における出雲神話と銅鐸の話だ。近畿地方の弥生時代遺構からは鏡は一枚も出ていないで出てくるのは銅鐸だ。

ここからは私の推測だが、この銅鐸のキャリア―が第二波の弥生渡来人では無かろうか。記紀における神武東征が4世紀初頭に実際にあってそれ以降古墳時代が始まる。考古学的には畿内で弥生遺構から一枚も出土しない鏡が、古墳時代以降北部九州と同様に大量に出土するようになる。そして、弥生晩期に見つかる畿内の銅鐸は姿を消す。

著者はこの第三波渡来人の分布をこう見る。

この図を見て頭に浮かんだのがこれ、

この図は1961年に早大問題研究会が作った未開放の全国分布図です。僕自身は未開放は縄文系の人々を後から来た渡来系の連中が駆逐して追い込んだ居留区だと考えていたが、実はそうではなく出雲系(銅鐸族)の居留区かもしれないという可能性が出てきた。東北地方はの空白地帯でその理由は蝦夷だと考えていたが蝦夷は縄文ではなく第二波弥生系ではないか。なぜなら、東北人のゲノムはアイヌ・沖縄とは一致しないことがはっきりしていて、むしろ東北・出雲・長野あたりでクラスターを作っている。(というより、北部九州・瀬戸内・近畿・関東以外と言ったほうが正しいかも)

最後に県ごとのゲノム分布を載せるが色々と考えさせて面白いね。


倭人伝を読みなおす 森浩一

2018年11月03日 | 歴史

普通、邪馬台国=ヤマタイコクと読む。しかし卑弥呼の後に共立された女王・台与の読みはトヨ。台をトと読む。この伝で邪馬台国を読むとヤマ・国となる。また邪馬台国に住む倭人の倭はヤマトとも読む。つまり、邪馬台国とはヤマト国のことであることに議論の余地はない。

そして倭人伝は対馬、一支(壱岐)、松ラ(松浦)、伊都(糸島)、奴国(博多)、不弥(宇美)と比定される北部九州の状況を正確に記述している。女王国の南には狗奴国がある、この狗奴国は熊襲のことで白川から南の現在の球磨郡あたりを本拠として南九州を治めていた。この狗奴国と女王国は敵対関係にあり、魏はそれを収めるために帯方郡から張政を送り込んできた。そして”卑弥呼以死大作塚”という記述になる。以死とは中国の歴史書の記述としては普通の死に方ではなく刑死、戦死、自死、殉職などの非業の死を意味し、卑弥呼の場合も自然死ではなくその政治状況から恐らく自死ではないかと森は推測する。

日本の古墳や弥生時代の遺跡からは銅鏡が多量に出土する。これに対し中国や朝鮮半島の墓からは1枚か2枚の銅鏡しか出ない。これは元々死後の世界で道具としての鏡が必要であろうとの理由で埋葬したわけだが、日本ではその意味付けが変容し、呪術的・権威付けなどの意味が付加され一つの墓から40枚などという大量の鏡が出土する。これは日本に特異的な状況なのである。

そして、重要なことは北部九州の弥生期の墓からは銅鏡が多く出土されるのに対し、近畿地方の弥生期の墓からは一枚も、一枚もですぞ!銅鏡は発掘されていない。そして、古墳時代になると一変して近畿の古墳から大量の銅鏡が出土するようになる。これは世界的にも珍しい鏡の大量埋葬をする連中が、古墳時代初期に北部九州から畿内へ移動した明確な証拠ではないか。畿内へ移動して王権を打ち立て古墳時代が始まった。ついでに言うと、畿内の弥生遺跡から出土する例の銅鐸だが、記紀には銅鐸の記述は一言もない。銅鐸は出雲族のものでヤマト族のものでは無いからだろう。

記紀にある神武東征の物語と考古学的事実は一致する。古墳時代は4世紀初頭に始まる。卑弥呼の没年が247年、3世紀中葉で卑弥呼を天照とするとその5代目の神武が畿内を平定するまで50-60年。天皇の平均在位年は15年程度なので年代的にほぼ一致する。

卑弥呼に始まる邪馬台国(ヤマト国)の物語は記紀のアマテラスから神武東征の話までに完全にかぶる。ただし、記紀の年代が神武を紀元前600年に持ってきてるところに無理がある。今も昔も役人は文書を捏造するのだ。日本の皇統の歴史を中国に伍するため、当時の役人が年代を詐称して欠史八代の天皇や寿命を120歳とか150歳とかの出まかせを織り込んでしまったのが悲劇の始まりだ。いったんついた嘘は元には戻せないから宇佐神宮の媛大神=卑弥呼=アマテラスを神功皇后と混ぜてしまうようなごまかしをしたり、いろいろ苦労してる。中国人は歴史書において年代詐称なんてやらないんだけどね

話しが混ざってしまったが森浩一先生のこの本は単に邪馬台国がどこにあったか?なんて観点ではなく倭人伝の分析を正確に分析していてして非常に興味深い。こんな本に出合えたのは幸いです。

 


森浩一先生の本

2018年11月02日 | 歴史

図書館で歴史書を漁っていて、”敗者の古代史”という本に巡り合った。勝てば官軍というように歴史は勝者を正として伝えられる。しかし、実際に起こったことはそんなに単純じゃない...ということを、いろんな事例を出して丁寧に解説た歴史書です。饒速日とナガスネヒコとか熊襲と日本武尊とか興味深い話しが生き生きとした語り口で述べられている。

この本の著者が森浩一で、調べてみると同志社の名物教授で数年前に亡くなっている。他にどんな本を出しているかと調べるとワンサカ出てくるじゃないか。そこでアマゾンンで片っ端から購入することにした。敗者の古代史は手元に置きたかったのでまず購入。あと、日本神話の考古学、倭人伝を読みなおす、記紀の考古学、古代史おさらい帳、巨大古墳 治水王と天皇陵、対論 銅鐸、倭人・熊襲・天皇をめぐって、以上8冊を注文して読み始めている。

この先生の面白いところは記紀に真正面から向き合っていることだ。戦前の皇国史観の反動で戦後は神武東征などの記紀の記述に関してコメントすることがタブー視されるなか、考古学の観点から堂々と論陣をはる姿には感銘を覚える。

たとえば、弥生後期に九州北部では漢鏡が大量に出土するが、畿内からは一枚も出土していず、古墳時代になって畿内からも大量に出てくる事実をどう捉えるか。素直に考えれば記紀の記述にある東遷があって、九州北部の連中が畿内にその風習を持ち込んだと考えられるじゃないか。

今読みかけているのが倭人伝を読みなおす、という本。魏志倭人伝の原文と当時の東アジアの政治状況を丁寧にわかりやすく且つ妥協抜きで解説してくれる。とても読み流すなんてことのできない内容で、一行一行味わいながら読んでいるので追々紹介したいとおもいます。

この先生、松本清張とも交友があり(というより師匠かな)じつに納得のいく論を展開しているのでいっぺんにファンになりました。これからしっかり勉強させていただきます。

 


不平等は「暴力」によって解消される  という事実

2017年01月28日 | 歴史

不平等は暴力によって解消される、という記事を読んで考えさせられた。

「歴史上のどの時点においても、暴力が富の再配分を保証するのに必要だったということは、普遍的な事実です」と語るのはスタンフォード大学で人文学と古典・歴史の教授を務めるWalter Scheidel氏です。Scheidel氏は「The Great Leveler」の著者であり、本書の中で、石器時代から現在までの歴史の中で、多くの不平等が暴力によって解消されてきたという事実を明らかにしています。

http://gigazine.net/news/20170127-violence-inequality/

レーニンは暴力による革命こそが労働者を開放する方法だと説きロシア革命を導いたが、実は格差・不平等を是正する普遍的な唯一の方法が暴力だというのがここでの主張です。

つまり共産主義とか資本主義とかの枠を超えて、ヒトは石器時代からずっと不平等があれば暴力を行使してそれを是正してきたのであって、決してマルクス・レーニンがそれを発明した訳ではないということ。第二次世界大戦という究極の暴力で均された世界が70年たって格差・不平等がどうしようもないくらいに広がった現代。ルールに基づいた理性的なアプローチではこの解消は不可能だ、と歴史は示しているということ。これは極めてシンプルな真実であって、そのルールでの勝者を引きずり下ろすにはルールを変えるしかない、暴力によって...

そこで連想されるのがアメリカのトランプ新大統領のことです。就任早々、無茶な大統領令を連発して既存のレールを大きく逸脱しようとしている。何を馬鹿なことを、と思って見ていたのですが、実はこの暴力的なふるまいこそ格差是正の表れの一つでは無かろうかとふと思ったのです。

かって鉄鋼業や自動車産業で働いていた白人労働者たちは、その職場を追われ一部のセレブたちを横目で見ながら不満を募らせてきた。この不満を解消するには暴力しかない!それを体現しているのがトランプではないか。トランプは暴力的であるが故に存在価値があるということ。紳士的なオバマでは決して格差是正は出来ないだろう。

TPPの件にしても自由貿易の立場、と声高に言ったところでその恩恵を被るのは一部の金持ちだけであってプアホワイトには関係ない話。トランプが暴力的にふるまうことでガス抜きが出来ればある程度は収まるだろうが、そこで既存のエスタブリッシュメントが変わらなければ本当の流血のガラガラポンが始まる予感がする。

これはアメリカだけの話ではなく、今韓国で起こっていることも同根だし南北格差是正という意味での難民問題やヨーロッパでの極右の台頭なども同じ構図だろう。

さて、日本はどうなるかな、若い奴らはまるで去勢されたように見えるが暴力に打って出る元気が果たしてあるだろうか?

 

 

 

 


イタリア 池田信夫もたまには良いことをいう

2016年12月21日 | 歴史

最近、感心した論評 池田信夫はあまり好きではないがこれは穿った見方というべきか、

http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2011/06/post-337.php

経済は貧しいがローマの街は美しく、スパゲティはおいしい。製造業はまったくだめだが、ファッションではイタリアは世界の中心だ。人々の音楽や芸術への情熱は強く、著作権法が機能していないので、イタリアでは海賊版の映画やビデオがウェブで見放題だ。人々はみんな明るく、男性は若い女性にはすぐ声をかけ、女性は果てしなくおしゃべりしている。日本の自殺率はOECD諸国で最高だが、イタリアは最低である。

 これはたぶんイタリア人が、衰退に慣れているからだろう。日本人は戦後ずっと高度成長を続けてきたので、明日は今日より貧しくなるという生活になじめないが、イタリアの最盛期は古代ローマ帝国で、そのピークを超えることはできない。近代初期にもフィレンツェなどの都市国家が繁栄したが、その後は衰退の一途だ。戦後もずっと成長率は欧州のどん尻で、最近はマイナス成長である。

 


出雲大社へ行って来た

2016年07月19日 | 歴史

島根県の出雲大社へ行ってきました。出雲は古事記、日本書紀の神代の章の3分の1を占める古代日本における重要な場所です。

出雲大社は奇妙な造りになっていて参拝者は祭神である大国主命の正面ではなく左横から参拝する形式になっています。

これは出雲を武力制圧した大和の勢力が大国主命の祟りを恐れて出雲大社に拝殿を追加したのでこの様な形式になっているのです。拝殿の後ろの本殿は千木、鰹木を掲げた立派な造りです。

ところが、古代出雲の神殿はこんなものではなく6階建てビルに相当するような高層建築だったという記録文書が残っていてその柱のあとも発掘されています。神社のそばに島根県立古代史博物館があり、そこには古代出雲神殿の模型と柱の実物が展示してあります。何故このような高層建築を造ったかというと、古代日本海は中国・韓国との交易が盛んで出雲はその中心地であって、これが灯台の役目をしていたという説があります。

あと、出雲荒神谷から発掘された銅剣の展示も圧巻です。

しかし、本来出雲は銅鐸を祭祀とする文化で銅剣は敵の大和の祭祀物のはずです。なぜ荒神谷から大量の銅剣が出土したかについてはこの博物館では不明としています。しかし、梅原猛の説によると、敵の祭祀を破壊して埋める事で敵に呪いをかける呪縛の意図があったのでは無いかと書いています。そして銅剣を全て破壊するのは大変なのでXを刻んで埋めたのだという事でした。それでそれを確かめるために展示してある銅剣を仔細に観察しましたがXは私には見つかりませんでした?謎ですね... 

そして銅鐸の数々、

出雲大社の直ぐ西側には稲佐の浜があります。イナサ=否・佐=YES or NO 大和の軍勢が出雲に降伏を迫った場所です。勝った大和はここで大国主を処刑しその祟りを封じるために出雲大社拝殿を造った。

翌日は出雲一の宮である熊野大社を訪れました。熊野大社の祭神は伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命、長ったらしい名前ですが要するにスサノウのことです。スサノウとアマテラス、出雲と大和の対立の構図。

ここにも立派な注連縄が飾ってあります。

熊野大社には亀太夫神事という面白い行事があります。出雲大社の宮司が火起こしの道具を借り受けるため餅を持参して来るのですが、それを受ける熊野大社の亀太夫という神官がその餅に難癖をつけてさんざん小言を言うのです。そして最後に出雲大社は出雲の人のおかげでやっていけるのだぞという意味のことを言う。

出雲大社は元々は灯台で、そこに大国主を祭ったのは大国主を殺した大和であって出雲大社の神官(千家)は大和が派遣してきたヘリコプター宮司です。それに対して出雲の地神である熊野は1600年前の恨みを未だに忘れていない、という事ですかね...

大和族が送り込んだ千家宮司と大和の王である皇室との繋がりは今でも深いようです。余談ですが出雲宮司の千家国麿さんに嫁いだ高円宮典子さんは出雲の田舎暮らしが嫌でしばしば東京にお帰りになっているようですねw 

熊野大社を参拝していると山のほうから大きな音がしてきていきなりの大雨になり暫く雨宿りをしていました。最後に雨に祟られた出雲参りでした。

 

追記 荒神谷の銅剣のX印の件ですが図書館で荒神谷発掘記録を探して読むとやはり実際に358本の銅剣のうち344本に刻印がされていたとの事 やはり梅原猛の敵(大和)の祭祀器破壊説は説得力がある。

 


イエス・キリスト その人

2016年05月06日 | 歴史

イエスは紀元前4年ごろガリラヤのナザレで生まれ、32歳のときにヨルダン河岸でヨハネの洗礼を受け(神の)啓示を聞き、それから2年間伝道をして34歳のときにエルサレムの神殿で暴れローマ兵に捕まり磔刑で処刑された実在の人物。

実在である以上、処女のマリヤが生んだはずも無く、死後に復活するはずも無い。新約聖書の内容はイエスの死後、教会がその権威を高めるため付加したお話がたっぷりと含まれている。それらの作り話を取り除いてイエスが何を語り、何を伝えようとしたのかを知りたいと思う。

犬や猫に意識があるか? 僕は無いと思う。サルも同様に意識は無いだろう。類人猿から分岐した人類はいつの時点から意識を持つようになったのか?アメリカの文化人類学者ジュリアン・ジェインズは著書”神々の沈黙”のなかで、紀元前2000年頃まで人類は明確な意識は持っていなかっただろうと書いている。それ以前の人類は右脳が発する(神の)声に無意識的に従って行動する二分心モードだったと。

あのエジプトの巨大ピラミッドは無意識の民衆がファラオが聞く神の声に盲目的に従って不平不満など一切無しに成し遂げた、と考えれば納得がいく。ちなみに、二分心時代には神は直接語りかけてきたので宗教は存在しない。よってピラミッドが宗教施設だという説は間違いですね。

紀元前5世紀頃、ユダヤ教、仏教、ゾロアスター教などの世界宗教が一斉に出てきたのは偶然ではない。意識の無い二分心の時代に人々には悩みは無かった。犬や猫が悩まないのと同じだ。しかし、意識を得た人間は悩みを持つことになる。その悩みを紛らわすのが宗教だ。

旧約聖書の失楽園の章にあるエデンの園。神の声を聞きそれに盲目的に従って悩みの無い生活を送っていた二分心の時代。しかし、意識が芽生えた人類には神の声は聞こえない。神無き世界に放り出された意識と悩みを持つ人間 これが失楽園の示す我々の世界だ。

しかし、今でも神の声が聞こえる人々が少なからず(人口の約1%)いる。統合失調患者と呼ばれる人々。人類が知性を持ち意識を持つに至った脳の生理的突然変異は統合失調遺伝子そのものなのだ。ネアンデルタール人は我々より大きな脳を持っていたが知性も意識も持たなかった。違いは数個の統合失調を起こす突然変異遺伝子だ。意識、知性、神、宗教、そしてホモ・サピエンスと言う種の存在そのものが統合失調遺伝子という一本の線で繫がっている。

イエス・キリストは統合失調患者だった、と書くと敬虔な(頭の固い)信者の皆さんから反発を食うのは必至だが、これは決して悪い意味で言うのではなく彼は事実として神の声を聞いた、という事を言いたいだけなので誤解召されるな。

 

 

 


神籠石

2015年11月20日 | 歴史

世の中には起源のわからない古代の遺跡というものがある。

これは郷里、北九州の山中にある神籠石と呼ばれている遺跡だ。先月帰郷した折に撮影してきた。

これは中世の城跡では無く、それより1000年ほど古い7世紀以前の遺跡であるらしいが、その目的や所以は良くわかってはいない。

どうも朝鮮式山城というのが定説のようだが、なぜ朝鮮の山城が北部九州に有るのか?

この遺跡の規模はかなり大きく、当時は山中に3kmの城壁が張り巡らせてあったようだ。その中には長期戦に備えて水を確保するための水門があり、食料を備蓄し長期間持ちこたえる準備をしていた。

稲作とともに渡来した人々は最初に北部九州に定着し、その勢力を南下あるいは瀬戸内海沿いうに広げていった。おそらく、この山城が有ったあたりはその勢力の重要な拠点であったと思われる。

この地域は豊前国京都郡と呼ばれる。豊の国、豊芦原瑞穂の国である。この遺跡の近くに稗田という地区がある。稗田阿礼の稗田だ。以前にも書いたが、記紀の天照大神は卑弥呼の事であり、その所在地は邪馬台国、東に海がありその向こうにも倭人の国がある位置。この遺跡はその条件に合う皇室の宗廟、宇佐神宮のそばに位置する。


玉音放送

2015年08月01日 | 歴史

本日、玉音放送の原盤音声が公開された。そこで初めて玉音放送の現代語訳を見て驚いた。日本国憲法前文に通じる文脈なのだ。昭和天皇とは一体どのような人物であったのだろうか...


終戦の詔勅

-玉音放送- (1945.8.15正午)

http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/gyokuon.html

私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。 私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。

そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず、世界の情勢も我々には不利に働いている。それだけではない。敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明おも破壊することになってしまうだろう。そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

 私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる。国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。
しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。

 私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。 国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。

 天皇の署名と印璽
 昭和二十年八月十四日


雪野山古墳

2014年10月25日 | 歴史

平成元年に琵琶湖の東側、湖東平野の真ん中の雪野山(308m)の山頂から4世紀前半の古墳が未盗掘の状態で発掘された。それから25年、今日はこの遺跡に行って来た。

古墳は山の上だか麓に古墳公園があり比較的整備されている。

駐車場からすぐの場所の山の麓に八幡社古墳群というのがあり、15基の小規模な古墳が連なっている。

右玄室内部

その脇の山道を登っていくと、

開けた場所に展望台があり湖東平野が一望できる。

谷を登って尾根に出て尾根道をしばらく歩くと雪野山山頂に着く。遺構は埋め戻されていて、山頂には何もありません。この地下に玄室がある。

山頂から少し下ったところに遺構の説明看板がある。

この看板ちょっと問題がある。これだ、

この図を見ると看板の右側20mが玄室だと思う。ところが右側は山の斜面で玄室など無い。雪野山でググルといくつかのブログがヒットするが、例えばこの人 http://homepage2.nifty.com/island2/yuki.html なんかも完全にこの看板にだまされて頂上直下の斜面を探して、判りにくいですね、なんて書いてある。私も最初だまされて斜面を探したけれどそのような地形は無い。それでもう一度その地形図をよくよく見直すと北が右下を向いている、おまけに玄室の位置の等高線は看板より上だ!この図は180度ひっくり返してみる必要がある事がやっと解った。玄室は頂上直下なのだ。

発掘当時、玄室からは5枚の鏡と剣、武具、人骨が出ている。

剣,鏡、玉は大和王権の象徴だ。卑弥呼、つまり天照大神の没年がAC248年、3世紀半ば。その孫のニニギが日向に降臨し3代後の神武が東征し畿内に侵入したのが4世紀初頭。

元来、湖東平野、蒲生野は出雲族の土地だった。地神を祭る神社は出雲系だし、銅鐸はとなりの野州から大量に出土している。そこに剣と鏡を祭祀とする大和がなだれ込んだのが4世紀初頭から半ばにかけて。この雪野山に祭られている武人は地の神(豪族)ではなく大和が送り込んだ覇者の墓なのだろう。麓の八幡社=皇室祭祀もそれを物語っている。雪野山の麓に砦を築き蒲生野に睨みを聞かせた覇者の墓がこの遺跡と言うことだ。近くの竜王・鏡山がアメノヒボコとの関わりがあり興味が有る。

元来、蒲生野だとか遠野だとかの野とつく地形は平野で稲作が出来ない土地を指す。ここにアメノヒボコ=新羅系が率いる渡来人が移住し蛇砂川クリークを開削し稲作の出来る地に開墾したのが蒲生野だ。ここに大和族が4世紀初頃に進入した。

雪野山は滅び行く出雲族と、それを武力で征圧した大和族とのせめぎ合いの地、なのかもしれない

 

 


Gospel Truth イエス・キリスト

2014年05月26日 | 歴史

Gospel Truth 真説”聖書”、イエスの正体;ラッセル・シュート という本を読んだ。なんだか週刊誌のタイトルのようですが、なかなか考えさせる内容だったので紹介します。

まず、イエス・キリストと言う人物は実在したのか?という基本的な疑問がある。ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトゥスの歴史書がAC.93及びBC.100に書かれているがそこにはキリストの記述は一切無い。ただ、これ(非実在説)は少数意見である。

イエスが実在したとして、その人はどのような人で、なにを主張したのか?と言う事はキリスト教徒ではない私にとっても大いに興味がある。

イエスはナザレに住むユダヤ教徒の大工のヨセフの息子で、当人も恐らく大工だったと思われる。母親はマリアで、聖書では処女懐胎により身ごもったことになっているが、イエスが実在の人物であれば処女懐胎というのは合理的には受け入れがたい。通常の性行為の結果として生まれたと考えるのが自然だ。

その大工のイエスに一大転機が訪れたのは、バプテスマのヨハネのもとを訪れ洗礼を受けた時である。当事、ヨハネは有名な預言者として知られておりイエスも、のこのこナザレから砂漠地帯を越えてヨルダン河岸のヨハネを訪れたのだ。そして、おそらくイエスはそこでヨハネの弟子になって教えを得たのであろう。このときイエスは32歳であった。

驚くべきは32歳のイエスがヨハネの洗礼を受け伝道を開始し、その後ゴルゴダの丘で処刑されるまでたったの2年間しか無いということ。彼は34歳で死んだ。このたったの2年間の結果が世界史を書き換える事になる。

この間に彼は数々の奇跡を起こしたことになっている。水の上を歩いたり、水をぶどう酒に変えたり、魚とパンを5000人に配ったり、病人を治したり... これ等の話は事実もあれば後世の創作もあるだろう。心身症と言う症状がある。例えば戦場ヒステリーというのがあり、足が全く動かないケースや目が全く見えない兵士が終戦のニュースを聞いたとたんスタスタ歩き始めたり、新聞を読み始める。心因性の要因で身体に異常を起こすことは良くある。これを直すひとつの方法は心から信ずることだ。イエスを心から信じた心身症患者はイエスが立って歩け、と命ずることによりヒステリー状態が解消され治った。これが奇跡として伝承された、と言う事は合理的に納得できる。

これを裏付ける事実として、イエスはナザレでは奇跡を起こさなかった。なぜなら、ナザレの住民は覚醒前のただのイエス青年を良く知っていたので、彼の言葉をそれほど信じられなかったからだろうと...

イエスが伝道で行ったのは、神の国に言及したことと共食(共食いではなくきょうしょく)だ。一緒に食事をする事は当事のユダヤ社会では一般的なことではなかった。それをイエスは老若男女、主に貧しい人々と共にした。そのクライマックスが最後の晩餐だ。

神の国に関してはイエスの主張は実は良く解らない。イエスは神の国を語るときたとえ話をするのだが、その内容が支離滅裂で意味を成してない。

たとえば、マタイ伝13・33”天の国はパン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる”

 ここには何の寓意も無い。これは私見だが、このような脈絡の無い支離滅裂な文章は統合失調症の症例でよく見られる。

イエスは信者を増やしていく。そして、過ぎ越しの祭り(Pass Over)の最中、エルサレムの”神殿”で伝道騒ぎを起こし、ローマ兵に追われ逮捕され、裁判を経て翌日にゴルゴダで磔になり死ぬ。

実は私は仕事でイスラエルを二度ほど訪問したことがあり、エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を辿ったことがある。イエスが十字架を担いで喘ぎながら登った道だ。その道の果ての巨大な自然石の上に聖ゴルゴダ教会が立っている。伝道者イエスは32歳から34歳の間の2年間、共食と心身症の治療とよく解らない神の国の言葉で信者を増やし、最後にローマ兵により処刑された。それだけの事だ。しかしその言葉と行為には貧しきもの、悩めるものを等しく救済する救いが含まれていたが故に、大衆の心の中に深く浸み込んでいったのだろう。

問題はその後だ。イエスの真の教えは”神の愛や恩恵を得るのに仲介者は必要ない”と言うものだった。しかし、教会はイエスを仲介者そのものにする、という最大の矛盾を犯した。新約聖書にはマタイ、ルカ、マルコ伝があり、それとは独立に原始キリスト教に近い死海文書が発見されている。先のマタイ、ルカ、マルコ伝は教会の正当性を維持するための創作が相当部分を占めており、真のイエスの教義を伝えるものとは思えない。真のイエスの思想は死海文書や教会から異端とされたグノーシス派の教義に残っているのではないかと言う説がある。

だらだらと書いてきたがイエスの思想が新約聖書に書かれていると考えるのは間違いだ。宗教弾圧を行い、十字軍でイスラム世界に暴力的に侵入し、宗教裁判でガリレオを弾圧し、魔女狩りを行い、ユダヤ人を差別しホロコーストを引き起こしたのはキリスト教会だ。処女懐胎や奇跡の多くや復活の話は、教会が正当性を維持するための創作に過ぎない。ならば、イエスの真の思想はなんだったのか、これを真剣に考えるムーブメントが今キリスト教社会の中で起ろうとしている。

この本も、私自身もイエスを貶める気持ちは毛頭無い。しかし、イエスという人物が徒手空拳且つ、たった二年で世界史を書き換えた事実は教会の意図を超えて深く考える必要があると思う。

 

 


出雲大社の謎

2014年02月20日 | 歴史

昨年60年ぶりの遷宮を終えた出雲大社は、日本古代史の謎を秘めた神社です。

内陣のレイアウトがまず変わっている。普通の神社は本殿正面から御神座に向かって参拝するが、出雲大社では下図の通り御神座の右手側面から拝むことになる。参拝者に正対しているのはむしろ御客座五神と言うことになります。この御客座五神というのは、

天之御中主神

高御産巣立日神

神産巣立日神

宇麻志阿斯訶備比古遅神

天之常立神

の五神で、別天つ神であり天地創造の大和族最強の神様達なのです。この五神は御神座に奉られた大国主(大穴牟遅神)の正面を塞ぐ形で参拝者と正対する。これは”逆説の日本史”で伊沢元彦が書いている通り、牢に閉じ込めた大国主を見張る番人の役割に他ならない。

注連縄も通常の神社とは逆の左巻きになっています。

これも通常であれば注連縄は俗世界と神域を分ける境界なのですが、出雲では逆に穢れた死の世界とこの世を(逆に)分ける意味があり、大国主が結界から出て来ないように封じているわけです。

また、驚くことに拝殿から巨大な3本組みの柱の跡が発掘されており、古代の記述にある100mを超える高層建築が実在したことも判っています。

さて、大国主は何故こうまで恐れられ、出雲大社に封じ込められているのか?それは出雲を攻め滅ぼした大和が、大国主の祟りを恐れたからに他為りません。

元来、奈良盆地は出雲の勢力下にありました。出雲勢力の祭祀は銅鐸です。3世紀末まで大和を含む近畿一円から関東、北陸(越)では広く銅鐸が使われていました。しかし、4世紀になると近畿で突如、銅鐸から銅剣・銅矛に変わるのです。しかも、その時期の銅鐸は破壊され、村はずれに打ち捨ててある状態で発掘されます。これは記紀の記述にある東征が実際に行われたと考えられます。九州の大和族が近畿に侵入して元々住んでいた出雲族を駆逐したに他なりません。

しかし、出雲はその時点で滅んだわけではなく6世紀頃まで命脈を保っています。しかし、最終的に6世紀に大和は出雲を攻め滅ぼし、大国主の息子である 建御名方神は科野国(信濃)の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめられ殺され、諏訪大社に奉られます。そして、大国主は出雲大社の前の稲佐の浜(否、然=Yes or No)で国譲りを迫られ、それを承諾し処刑された。

亀太夫神事という面白い神事が出雲に残っています。出雲一宮である熊野大社に出雲宮司が詣でて餅と引換えに新嘗祭で火をおこすための火臼・火を受け取るのですが、その際に亀太夫という下級杜人が出てきて、持ってきた餅に対して餅が小さい、形が悪いなど…さんざん悪態をつきます。挙げ句の果てに「出雲の人たちのおかげで生きていることを忘れるな」とまで言う。

出雲宮司(千家)は大和から派遣された征服者の代理であり、亀太夫は地の出雲の民を代表しているわけで、出雲の大和に対する恨み辛みを代弁してガス抜きを計っているのでしょう。

出雲大社は日本古代史における最大の抗争の名残を秘めた神社です。そして、千家宮司以外誰も見た事の無い御神座に奉られているのは、稲佐の浜で落とされた大国主の頭骨... 

追記; 1984年に出雲大社の近くの荒神谷から銅剣358本が発掘されている。この銅剣の意味について梅原猛は”葬られた王朝”のなかで、これ等の全ての銅剣に×印が刻まれていて全て大和の方向(東)に向け、刃を上にして埋められていた事から、敵の祭祀を破壊する意味があったのだろうと解釈している。


日本古代史に想う

2014年01月06日 | 歴史

日本の皇室は三種の神器を祭祀しています。 剣と鏡と玉です。これは王権の象徴でこの3点セットを持つものが王の権威を得る事になります。八尺瓊の曲玉、八咫鏡・草薙剣ですね。

 

さて、この3点セットですが実は日本がオリジナルでは有りません。韓国西部の忠清南道に錦江という大河があり、その流域の遺構から細型銅剣と天河石半環式飾玉および粗文鏡という3点セットが幾つも見つかっており、おそらくこれが皇室の3種の神器の源流だろうと思われます。

この錦江流域出土品の年代は戦国初・中期(BC5-4世紀)と見られる古いものです。そしてその3点セットは日本で最も古い弥生遺跡・王墓である福岡市の吉武高木遺跡からも見つかっています。ここで発見された多紐細文鏡は朝鮮半島で作られたもので、この遺跡自体は朝鮮半島から来た渡来人の王族のものであろうと考えられています。

そして、この3点セットが畿内で見つかるのは古墳時代以降の事になります。そして、それは現在の皇室に引き継がれている。

ちなみにこの3種の神器を祭祀とするのは大和系渡来人だけで、出雲系の人びとの祭祀したのものは銅鐸であり、縄文系の人々のそれは土偶である。この祭祀に使われる神器は思いつきや偶然で選ばれるものではなく、その一族が継承する最も重要な宝でありその一族の歴史を物語るものなのです。

この3種の神器をたどることで見えてくる日本列島における農耕化とそれに伴う王権の確立は以下のように考えられます。

中国では紀元前5世紀ごろ国が乱れ戦国時代に入ります。その余波は朝鮮半島に及びその戦乱を避ける、或いは戦に負けた人々は強い圧力に晒され対馬経由で北九州地方に移住し稲作と共に定住した。この最終形が卑弥呼を女王とする邪馬台国でしょう。

そして、勢力を拡大し瀬戸内海経由で畿内に侵入して大和王権を確立した。それまで近畿一円で栄えていた銅鐸文化つまり、出雲系渡来人の文化は3世紀末ー4世紀初頭の北九州勢の侵入で一掃され一気に剣・鏡・玉を象徴とする文化に切り替わった。

古事記・日本書紀に記されている高天原は恐らく出発点である朝鮮西部地域であり、神武東征、出雲国譲り(征服)などは実際に起ったことだと思います。

ただ、記紀の問題点は正史編纂にあたって下手な下心をだして日本の歴史を中国に伍するよう古く見せかけるよう改竄した点にあります。つまり嘘を入れ込んだのです。下記のような寿命は事実とは考えられません。

安本美典氏の説によると歴史上確認の取れている天皇の平均在位年数は13年でそれを下記の帝紀にかけるとちょうど天照大神と卑弥呼が3世紀中葉で一致するとされています。

つまり、現在の皇室の源流は朝鮮西部にあり、そこから戦乱を逃れて北九州に移住し卑弥呼を女王とする邪馬台国をつくり畿内に侵入して大和王権を確立した、というのが大まかなプロットではないでしょうか。ヤマタイー>ヤマトですね。そして、卑弥呼は神話上天照大神として記録されたという訳です。

 

補足 歴代天皇の寿命

天皇名          『日本書紀』    『古事記』

神武天皇         127歳      137歳

綏靖(すいぜい)天皇    84歳       45歳

安寧(あんねい)天皇    57歳       49歳

懿徳(いとく)天皇     77歳       45歳

孝昭天皇         113歳       93歳

孝安天皇         137歳      123歳

孝霊天皇         128歳      106歳

孝元天皇         116歳       57歳

開化天皇         115歳       63歳

崇神(すじん)天皇    120歳      168歳

垂仁(すいにん)天皇   140歳      153歳

景行(けいこう)天皇   106歳      137歳

成務天皇         107歳       95歳

仲哀天皇          52歳       52歳

応神天皇         110歳      130歳


 


宇佐神宮の謎

2013年01月16日 | 歴史

 この三連休に九州に帰郷して宇佐神宮に参拝してきた。出雲大社と、この神社だけが二礼四拍手一礼となっている謎の神社です。そして天皇家と深いつながりがある...

 以下にその謎について書かれたサイトの内容を転載するので御参照下さい。

 http://homepage3.nifty.com/washizaki/kodaisinoumi1.pdf

 

卑弥呼と宇佐神宮比売大神
本稿は『古代史の海』61~65 号(2010 年 9 月~2011 年 9 月。「古代史の海」の会)
に連載されたものです。
鷲崎弘朊(歴史研究家)


はじめに

本稿は、富来隆に始まる邪馬台国宇佐説(「魏志『邪馬台国』の位置に関する考察」―『大分大学学芸
学部紀要』1953 年に掲載)を新たな視点から解明し、邪馬台国は大分県中津平野(宇佐市~中津市)
から北は福岡県京都郡にかけての豊前地方とする。まず「第Ⅰ章 宇佐神宮」で、①卑弥呼、天
照大神、宇佐神宮比売大神の三人は同一人物、②宇佐神宮の建つ亀山が卑弥呼の墓、③近くの百
体神社の地に「百余人」が徇葬されたことを論証する。「第Ⅱ章 魏志倭人伝」では、倭人
伝の里程日程・方向と現实の地理・海流を照合し、宇佐中津(豊前)説が合理的であることを証
明する。「第Ⅲ章 年輪年代法と年代遡上論」では、年輪年代法による弥生時代・古墳開始期の
100 年遡上論は誤りで、畿内説の最大根拠が崩壊していることを示す。なお、『三国志』版本は、
「邪馬台国」および女王「台与」を「邪馬壹国」「壹与」と記す。しかし「壹」は「臺(台)」の
誤りとするのが通説で、本稿では原則として「台」字を使用する。

第Ⅰ章 宇佐神宮

1 宇佐神宮と卑弥呼

道鏡事件と宇佐神宮
大分県宇佐市の亀山(別名は菱形山、小椋山)という小高い丘の上に建つ宇佐神宮は応神天皇・
比売(ヒメ)大神・神功皇后を祭り、伊勢神宮と共に天皇家の二所宗廟とされる。社殿は向って
左から一の御殿(八幡大神=応神天皇=誉田別尊)・二の御殿(比売大神または比大神と記す=三女神)・
三の御殿(神功皇后=大帯姫=息長帯姫)と並び、普通に考えれば中央の比売大神が主神で天皇・
皇后より高い神格を持つ。比売大神は宗像三女神の異名同体説が有力だが、古くから異論も多く
諸説入り乱れ謎の神社とされる。道鏡事件(769 年)で伊勢神宮は無視され、宇佐神宮の神託が
皇位継承を決定した。女帝称徳天皇は天皇の位を道鏡に譲るかどうか悩み、宇佐神宮の判断を仰
ぐため和気清麻呂を派遣し神託を求めた。神託は「皇統でない者を天皇にしてはならない」で、
道鏡の野望は潰えた。これは、皇祖神(天照大神)を祭る真の宗廟が宇佐神宮であることを意味
すると考えられる。
(注)宗像三女神
天照大神と素戔嗚尊の誓約により男 5 人と女 3 人が生まれた。この女 3 人が、『古事記』:多
紀理毘売・市寸嶋比売・多岐都比売、また『日本書紀』本文:田心姫・市杵嶋姫・湍津姫で、
それぞれ宗像の奥津宮・中津宮・辺津宮に祭られ宗像三女神と総称する。
この当時、道鏡は称徳天皇の深い寵愛を受け、太政大臣禅師また法王として位、人臣を極めて
いた。神護景雲三年(769 年)、大宰府の役人である習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につければ、天下は太平になるであろう」との宇佐神宮の神託があったと偽りの奏上をしてきた。これが事件の
発端である。皇位を天皇家の血筋を引かない臣下の道鏡へ譲るのは、禅譲による王朝交代を意味
し、天皇家の一大事である。この非常事態に際し、称徳天皇は当然のこととして皇祖神の判断の
神託を得る必要が生じた。天皇家の皇祖神は天照大神で伊勢神宮に祭られている。ところが、誰
も伊勢神宮の神意を問おうとせず宇佐神宮に神託を求め、結局、この事件は伊勢神宮抜きで決着
してしまった。これは何を意味するのか。それは、天皇家と朝廷が皇祖神を祭る真の宗廟は宇佐
神宮と考えていたと判断するしかない。奈良朝から江戸幕末まで、天皇家は近くの伊勢神宮には
千百年間も参拝すらしたことがないのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使
が遣わされた。このように、伊勢神宮と宇佐神宮は「二所宗廟」として共に皇祖神天照大神を祭
るが、实際には宇佐神宮のほうがより重視されていたとも言える。それでは、天照大神は宇佐神
宮のどこに祭られているのか? それが次に述べる比売大神である。
卑弥呼、天照大神、比売大神
『日本書紀』は神代編の冒頭で天照大神の誕生を次のように記す。
「伊弉諾尊と伊弉冇尊は、『吾すでに大八州国および山川草木を生めり。何ぞ天下の主者
を生まざらむ』と共議して、共に日神を生む。大日孁貴と号す、これをオオヒルメノム
チと云う、「一書に云はく、天照大神という。また一書に云はく、天照大日孁貴という」、
「一書に曰く。伊弉諾尊が曰くには、『われ、大日孁尊・月弓尊・素戔嗚尊を生む』」。
この内容からすると、天照大神の本名は「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」となる。大日孁貴
の「大」「貴」は美称尊称で、核心は「日孁」で「ヒルメ」と読む。ヒルメの「ル」は助詞の「ノ」
の古語で、現代語で言えば「日の孁」すなわち日孁=ヒメである。「日孁」と「日ル孁」の関係
はJR「山手線」「山の手線」と同じである。そうすると、天照大神=ヒメすなわち比売大神で、
比売大神は皇祖神・天照大神を祭っていることになる。道鏡事件で称徳天皇が皇位を臣下に譲る
かどうかの決断を、この皇祖神・比売大神(天照大神)の神託に求めたのである(表 1)。
(注):「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語
「ヒルメのルは、神魯岐(かむろき)・神魯弥(かむろみ)のロ、神留伎(かむるき)・神留弥(かむ
るみ)のル、ヒルコのルと同じく、助詞のノの意の古語」(岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』
上巻 87 頁の頭注、1967 年。校注は坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋)。
表1:卑弥呼(ヒメコ)=比売(ヒメ)大神=天照大神(本名:ヒメ) また、卑弥呼は最近こそ「ヒミコ」だが、第二次大戦まで一貫して姫の尊・姫児・姫子・日女
子=「ヒメコ」と読まれた。「弥」字は通常「ミ」と発音するが、女性の「姫」を意味する場合
は「メ」と読むのが古文献の約束事(『元興寺縁起』・『上宮聖徳法王帝説』・『釈日本紀』・『延喜式神名帳』
に 9 事例がある)で、卑弥呼=ヒメコが本来の発音である(坂本太郎「魏志倭人伝雑考」―古代史談話
会編『邪馬臺国』1954 年に掲載)。この卑弥呼の「ヒメ」が比売大神の「ヒメ」で、卑弥呼(ヒメコ)
=比売(ヒメ)大神である(表 1、表 2)。
表2:「弥」文字は、古代は「ミ」「メ」に読み分けられた
応神朝以前で卑弥呼の人物像に該当するのは天照大神である。白鳥庫吉は明治 43 年(1910 年)
論文「倭女王卑弥呼考」(『東亜之光』第 5 巻第 6・7 号)で卑弥呼と天照大神を比較し、次のように
述べている。
「つらつら神典の文を案ずるに、大御神は素戔嗚尊の荒き振る舞いを怒りて、天の岩戸に隠
れさせたまえり。このとき天地暗黒となりて、万神の声は狭蝿のごとく鳴りさやぎ、万妖こ
とごとく発りぬ。ここにおいて八百万神たちは天安河原に神集いに集いて、 大御神を岩戸
より引き出したてまつり、ついで素戔嗚尊を逐いやらしかば、天地照明となれり。ひるがえ
りて【魏志】の文を案ずるに、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無礼を怒りて、長くこれと争い
しが、その暴力に耐えずして、ついに戦中に死せり。ここにおいて国中大乱となり、いちじ
男子を立てて王となししが、国人これに朋せず、たがいに争闘して数千人を殺せり。しかる
にその後女王の宗女壹与を奉戴するに及んで、 国中の混乱いちじに治まれり。これはこれ
地上に起これる歴史上の事实にして、かれは天上に起これる神典上の事蹟なれども、その状
態の酷似すること、何人もこれを否認することあたわざるべし」
この卑弥呼=天照大神説に従うのは和辻哲郎・藤井英雄・和田清・林屋友次郎・市村其三郎・
栗山周一・飯島忠夫・安本美典・久保泉・高木彬光・大羽弘道・安藤輝国・鯨清・井沢元彦・徳
丸一守・石井好・小原正哉などで、筆者も同様である。この卑弥呼=天照大神と前述の比売大神
=天照大神を合わせると三人は同一人物となる(表 1)。そして、比売大神は卑弥呼=天照大神を
祭る。ただ、「天照大神」との名称は後に 4 世紀前半畿内大和王権で発生した。崇神天皇は天照大神を笠縫邑に祭り、次の垂仁天皇が伊勢神宮を創建した。この時初めて「天照大神」の名称が
成立したと推定される。このため、宇佐には「天照大神」の名称は存在せず、本名「ヒメ」が比
売大神として祭られた。

天照大神の岩戸隠れの際には天地暗黒となり、万神の声、さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女
王が没した後にも、国内は大乱となった。天照大神が岩戸より出ると、天下は、もとの平和に帰
った。倭王台与の出現も、また、国内の大乱をしずめた(和辻哲郎著『日本古代文化』岩波書店 1920
年)。つまり、卑弥呼+台与=天照大神で实像は神代に送られ、いっぽう、神功皇后は卑弥呼・
台与の虚像(年代を合わせただけで人物像が異なる)である。そして、伊勢神宮と宇佐神宮は共に卑
弥呼と台与を祭り、宇佐神宮では比売大神として祭られている(表 3)。
表3:伊勢神宮と宇佐神宮の祭神(二所宗廟)
比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座され、一女神(卑弥呼)→二女神(卑弥呼、台与)→三女神
(卑弥呼、台与、神功皇后=卑弥呼・台与の虚像)の推移が基本である(図 1)。しかし『日本書紀』
は神功紀に魏志倭人伝および晋起居注を引用すると共に(ただし、邪馬台国・卑弥呼・台与の文字は
使用せず、単に「倭国」「倭女王」とする)、摂政治世 69 年間を AD201~269 年と設定し邪馬台国時
代に合わせたが、神功皇后の人物像は卑弥呼・台与とは異なり、関係があいまいである。このた
め三女神の神名が混乱し諸説(太古より鎮座する地主神、玉依姫、豊玉姫、豊姫、神功皇后、三女神、宗
像三女神の異名同体説など)が入り乱れ、謎の神社となった。最終的には宗像三女神の異名同体説
が有力となったが(この説は平安時代の『先代旧事本紀』に始まる)、この橋渡しをしたのが『日本書
紀』一書の「三女神を宇佐嶋に降り居さしむ、今は海北道中に在り」で、これにより三女神の中
味が変化した。そして、神功皇后の独立イメージが強まった平安時代(823 年)に三の御殿の大
帯姫(神功皇后)廟神社が建立された。すなわち、三の御殿が建立(823 年)される前の神功皇后
は、二の御殿の比売大神=三女神(卑弥呼・台与・神功)の一人として祭られていた。また応神は
新王朝の創始者(皇統の入り婿)で、高句麗好太王と朝鮮半島の覇権を争い(414 年建立の好太王碑
文)、母后の神功皇后を通し正統王朝とされ、邪馬台国の故地・宇佐に八幡神=武神として祭ら
れた。『日本書紀』の編纂過程(681~720 年)で、応神を卑弥呼との関係でどこに祭るか試行錯
誤があり、当初は鷹居社(712 年)や小山田社(716 年)としたが、最終的にはズバリ、卑弥呼が眠る
亀山の地に祭られた(725 年)。

なお、二の御殿(比売大神)は 731 年の神託を受け 733 年に遷宮により造営されている(『八幡
宇佐宮御託宣集』、『八幡宇佐宮縁起』)。この 733 年の遷宮をもって二の御殿は一の御殿(725 年建立。
応神天皇)より成立が遅いと理解する向きも多いが、それは誤り。遷都と遷宮は意味が異なる。
遷都は都の地理的移動を示す。しかし、遷宮は同じ場所での建て替えである(伊勢神宮の遷宮と同
じ)。従って、二の御殿の社殿は 725 年以前から存在し一の御殿より成立は早く、伝承通り比売
大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。また『弥勒寺建立縁起』(844 年作)も、比売大神は
応神天皇より以前から亀山に鎮座していたと記録する(太田静六「宇佐宮本殿形式の成立問題―八幡
造の祖形と源流」。九州歴史資料館編『大宰府古文化論叢』下巻、吉川弘文館 1988 年に掲載)。

2 百余歩の冢(ちょう)=宇佐神宮の亀山
冢は前方後円墳ではない
2009 年 12 月、中国河南省で魏の曹操(220 年没)の墓が発見されたとの大ニュースが流れた。
自然丘陵を利用し墓道(長さ 40m)を持つ地下式で、墓域の総面積は 740 ㎡と狭い。墓の平面図
は台形で東辺 22m、西辺 20m、東西の長さ 18m。レンガを積んだ玄室に壁画はない。また副
葬品 250 点も生前に愛用したものばかりで豪華でなく、薄葬令を裏付ける(宝賀寿男「曹操墓の発
見」。『古代史の海』59 号 2010 年 3 月掲載より抜粋)。234 年、蜀の諸葛孔明は五丈原で病没し漢中の
定軍山に埋葬された。遺命の「山を墳とし、墓は棺を入れるで足りる」に従い自然の地山を利用
し山頂に手を加えた程度と推定され、いわゆる「高塚古墳の築造」ではない。このように、三国
時代(220~280 年)の中国や朝鮮では薄葬が一般的であった。魏の墓制の影響を受けた卑弥呼(247
または 248 年没)の「冢」も、封土があってもあまり高くない(楕)円状で、前方後円墳ではない(森浩一「卑弥呼の冢」。上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集『ゼミナール日本古代史』上巻~邪
馬台国を中心に:光文社 1979 年に掲載)。『三国志』魏志韓伝の「居處は草屋土室を作り、形は冢の
如し」は竪穴式住居のことだが、この「冢」も円形を示し、魏志倭人伝の「其の死には棺有りて
槨無く、土を封じて冢を作る」および卑弥呼の「径百余歩の冢」も同様である。また、卑弥呼死
後が内戦に陥った状況下で、「大いに冢を作る」と言っても、箸墓(全長 280m)のような巨大前
方後円墳を築造する余裕はない。
亀山は墓所
①宇佐神宮が建つ亀山の山頂(直径 70~80m)に、伝承通り北麓の菱形池を掘った土で盛土した
のが卑弥呼の「径百余歩の冢」。また『八幡宮本紀』は本宮が建つ山上の周りを 390 余歩と記す
ので直径は 125 歩となり、「径百余歩」と一致する。一方、亀山の下半部に第二次大戦時の防空
壕が残っており、地層が歴然と露呈し自然の地山である(原田大六著『卑弥呼の墓』六興出版 1977
年)。しかし、初期古墳でも自然丘陵を利用し山頂部分に手を加えた例が多く、亀山も同様であ
る。
②昭和大造営(昭和 8~17 年)の昭和 15 年頃、地下に宝物殿を造るため拝殿前広場を長さ数十メ
ートル、深さ数メートル掘り下げたが地層は全く存在せず、性質の違う玉石や角石が無数発見さ
れ、山頂は人工的に盛土されている。
③『八幡宇佐宮御託宣集』は「宇佐廟」、また『延喜式』神名帳は「大帯姫(神功皇后)廟神社」
とする。「廟」は「みたまや」とか「もがりの宮」で、山頂は墓所=冢である。
④神社と廟は、もともと同義語で墓所を意味する。大帯姫廟神社は「廟神社」と言葉が重複して
いる。この重複を知りながら、あえて「廟神社」としたことには深い意義があり、亀山が墓所で
あることを強調している(市村其三郎「神功皇后廟神社の謎」。秋田書店『歴史と旅』1976 年 6 月号に掲
載)。
謎の石棺の目撃証言
宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されている(明治 40 年、昭和 16 年)。明治 40 年(1907 年)、神
楽殿前の広場にそびえる楠の大木と、内陣・三之御殿の向って右側にある楠の巨木が根を張り出
し、建物の一部が傾きかけた。そこで、内陣の部分をある程度掘り返し、根を切断すると同時に
建物の一部を修理する工事が行われた。その時、巨大な石棺がその全貌をあらわした。目撃証言
によれば、「角閃石の一枚岩をくりぬいて作ったと思われる完全な長持形の石棺だった。石の節
理の条件からいって耶馬渓付近のものと思われるし、国東半島にはこういう石は存在しないそう
である」「この石棺にふれることは許されなかったので、目測にたよるほかはなかったわけなの
だが幅も高さも1メートル強、長さは2メートル数十センチ、しかも表面はまるで鉋(かんな)
でもかけたようなきれいな平面になっていた。とうぜんのことだが、蓋はべつになっており、そ
の間からはみ出したと思われる朱が、横に一線正確な直線を真赤に描き出していた」(目撃者の山
本聴治の証言を高木彬光が著書『邪馬台国推理行』角川書店 1975 年で紹介)。

中津市に住む山本聴治は地質の専門家で長年にわたり大分県の職員をしていた。明治 40 年当
時は 10 才ぐらいの子供で、父親につれられ修理工事中の囲いの隙間から内陣に入り石棺を目撃
したという。昭和 50 年(1975 年)1 月 28 日、高木彬光は三重野元(大分県観光休養課)、佐藤四
五(宇佐神宮禰宜)と共に宇佐神宮の現場で先程の証言を聞いている。また昭和 54 年 12 月 8 日には、宇佐市内の若者たちで結成している新邪馬台国建設公団(高橋宜宏代表、十人)は山本聴治
(当時 83 才)を現場に招き同様の証言を聞いており、このことが西日本新聞などで報道された。
石棺の2回目の目撃は昭和 16 年(1941 年)である。これについて、高橋宜宏は次のように述
べている。
「次にこの石棺が目撃されたのが、昭和の大造営の時だ。やはり工事中に石棺が現れ人々の度肝
を抜いたという。当時は国家神道の時代で、宮司も内務省から派遣された横山秀雄氏。造営も国
家の威信をかけて行われた事業で、同じく内務省技官の角南隆氏が派遣されていた。皇室の宗廟
の地から発見された石棺を白日の下にさらしてはならないとの判断からか、横山、角南両名の厳
命で、当然のようにもとのところに埋め戻されたそうだ。ただこの時に石棺を目撃した人は、昭
和 54 年当時には何人か存命しており、私もこの中の一人に直にその事实を聞いたことがある。
彼は後に宇佐神宮の権宮司に就任した元永正豊氏だ。彼は宇佐神宮に勤めて間もない頃だった
が、ハッキリこの石棺を見たという。銅剣等の副葬品もあり、名前はあかさなかったが、この銅
剣を持ち去った関係者がいたことも証言している。ただここで一つやっかいな問題がある。それ
は昭和 16 年に出てきた石棺の場所だが、一説には、第二神殿前の申殿の下だったとも言われて
いる。元永氏から私と同じように石棺の話を聞いた方が、例の石棺は申殿の下にあったと聞いた
と言うのだ。私の固定観念が場所の確認を怠らせてしまったのだが、元永氏はすでに物故なされ
ており、確認のしようがない。返す返すも残念でならない。もしそうであるならば、宇佐神宮の
亀山には石棺は2つあることになる。」(論文「高橋宜宏のヤマタイ国論」2010 年 4 月。HP『新邪馬台
国の秘密』掲載)。
以上、明治 40 年と昭和 16 年の目撃証言は極めて貴重である。なお筆者は、卑弥呼と台与は
ともに亀山に埋葬されたと考えているので、石棺が 2 つ存在しても不思議ではないと思う。
3 徇葬百余人と百体神社
亀山の西 900m余に境外末社の百体神社があり、付近に百余人を徇葬した。卑弥呼の墓(亀山)
と徇葬百余人(百体神社)をセットで提示するのは宇佐説しかない(久保泉著『邪馬台国の所在とゆ
くえ』丸の内出版 1970 年)。百体神社の西横 30mに小さな円墳の凶首塚があり(現況は石室が露出)、
720~721 年の隼人征伐時に賊の首級を持ち帰り凶首塚に埋葬した(『八幡宇佐宮御託宣集』)。しか
し玄室(遺体を安置する部屋)は開口幅・高さ共に 1.5m、奥行き 2.5mの小規模で 100 個の首級
を置く広さはなく、持ち帰った首級は最大でも数十個で凶首塚と百体神社は関係ない。また、『続
日本紀』(797 年作)も養老五年(721 年)7 月 7 日条に、「征隼人副将軍従五位下笠朝臣御室、従五
位下巨勢朝臣真人ら帰還す。斬首した者と捕虜合計は千四百余人」とするだけである。
百体神社の付近に卑弥呼が交戦した狗奴国(隼人、熊襲)の捕虜 100 人を徇葬した。捕虜を奴
隷として使用していたが、卑弥呼死去に伴い「百余人」として徇葬したのである。一方、隼
人征伐時の首級を凶首塚に埋葬したが、単に「首級を持ち帰り」とし 100 個とする記録は存在
しない。そもそも首級は「1 体、2 体、3 体・・・100 体」とは勘定しない。ただ同じ隼人を百
体神社の近くに埋葬したので、二つが合体し社伝(百体神社は隼人征伐の霊を祭る)が形成された。
しかし、「百体」の淵源は卑弥呼に徇葬された百余人=狗奴国の捕虜 100 人である。4 豊前地方の考古学
宇佐市内の遺跡は 333 ヶ所、うち古墳は 156(大分県教育委員会発行『宇佐市内、駅館川大規模圃
場整備区域内 埋蔵文化財分布一覧』。賀川光夫その他による学術調査を要約)。また明治末期に日豊本線
工事の際、福岡県側の行橋~新田原の 4km の間で 60 の古墳が取り潰された。また昔、この線
を汽車で旅行した時は、古墳の群にさえぎられて海が見えなかったという話も伝えられている。
2002 年には国道 10 号線の工事に伴い、山国川下流域の唐原地区遺跡群で、吉野ヶ里遺跡・原
の辻遺跡に次ぐ大環濠集落が発見され、竪穴式居住群・水田跡・甕棺・石棺墓・ガラス玉・鉄製
品・内行花文鏡片などが出土したが全貌はまだ明らかではない。更に、1931 年(昭和 6 年)発行
の小野精一著『大宇佐郡史論』(大分県宇佐市役所刊)には、「宇佐郡から出土した鏡は 300 枚を下
らない。中国製も相当数あった。宇佐市四日市向山古墳群からだけでも 50 面以上」と書かれて
いる。ただ残念ながら、これらの鏡は全て盗掘され、どこかに持ち去られてしまったという(高
橋宜宏 HP)。
倭国大乱で使用されたと考えられる弥生時代の鉄鏃の全国出土は 2172 個で、福岡 398・熊本
339・大分 241・佐賀 58 に対し、奈良県は 4 個に過ぎない(川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』広島大
学 2000 年)。この北部九州 4 県が倭国大乱の主戦場で、畿内大和は関係ない。一方、古墳発生期
の鏡が出土した遺跡総数 112 ヶ所の中、福岡 41・大分 2 で両県が 38%を占める(樋口隆康「卑弥
呼の使った鏡」。王仲殊・樋口隆康・西谷正『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院 1997 年に掲載)。しかし、
福岡 41 のうち昔の行政区分の豊前に属すのが 17 有り、組み直すと豊前 19・筑前筑後 24 で豊
前地方の遺跡が予想以上に濃厚である。伊都国から 1500 里では、筑紫平野南部・熊本県北部と
宇佐中津が邪馬台国の候補になるが、考古学的には三者は同レベルである。弥生時代は九州~中
四国に銅剣銅矛文化圏があり、豊前は筑紫と並び中核を形成していた。豊前は関門海峡を制し、
また日本の地中海と言われる瀬戸内海に面して、この文化圏の中央に位置し、地理的にも考古学
的にも邪馬台国の資格が十分にある。
なお、年輪年代法による弥生中後期・古墳開始期の 100 年遡上論は完全な誤り。すなわち、
基本となる標準パターンの奈良時代~現代は正しいが(例:紫香楽宮跡の No.1~4 柱は 742~743 年
伐採)、飛鳥時代以前は 100 年古く狂っている。記録と照合可能な 14 事例(法隆寺五重塔心柱・法起
寺三重塔心柱・元興寺禅室部材・紫香楽宮跡 No.6~9 柱・東大寺正倉院 No.1~3 板、No.8~11 板)では、AD640
年以前を示す測定値が全て 100 年狂っているのは明白である。これら以外に記録と検証可能な
事例は存在しない。また弥生・古墳時代も、池上曽根遺跡・石塚古墳・勝山古墳などの測定値も
100 年狂っている。従って、古墳時代の始まりは従来通説の 300 年頃が正しく、邪馬台国はま
だ弥生時代で、最近の畿内説が最大根拠とする弥生・古墳時代の年代遡上論は根底から崩れる(本
稿末尾の第Ⅲ章参照)。結論として、「箸墓=卑弥呼の墓」「纏向遺跡=邪馬台国の王都」説は全く
の誤り。