毎日新聞で毎週土曜に「七転び八起き」という連載がある。書き手は野坂昭如。野坂は蛍の墓の原作者だがその他にも、アメリカひじき、とかエロ事師たち、とかを書いた立派な焼跡闇市派で、誰に媚びるでもなく、誰を恐れるでもなく、自分の二本足でしっかり立っている私の好きな作家だ。
その野坂が今週、原発問題を書いている。彼らしく原発労働者の話題から始まるのだが、後半は原発・エネルギー問題に言及する。(太字参照)
これから先、日本のエネルギーをどうするべきか、...ぼくらは便利でいいだろう。しかし未来の者たちの血をすすり、骨をかじって生きているともいえる。文明という便利なものを手に入るだけ手にし、一方で死の灰をつくり出し、その後始末はぼくらの子孫に押し付ける。どうにかしてくれるだろうと。こんな傲慢な振る舞いが許されるのか。...せいぜい自分の子供に害が及ばなければいいという程度の狭い考え方で科学技術にからめとられ、いつの間にか哲学的な思考を放棄した。原子力エネルギーを考える上で、とりあえずの安全性を言う前に、ぼくは一人一人の哲学的とらえ方が、まず必要だと思う。
野坂の言うとおりである。事故が起きたのは安全設計が足りなかったせいだとか、津波の想定が低すぎたので見直すべきだとか、原発事故の補償金は原発コストに繰り込むべきだとか、ひどいのになると原発が無ければ快適な生活が出来なくて困るでしょとか、皮相的な議論は色々ある。しかし、いくら安全な原発を造ったところで稼動すれば死の灰が出る。この2万4千年の半減期(プルトニウム)を含む死の灰の処分方法を人類は解決していない。
原発問題を考える時、野坂の言うように、とりあえず安全にといった安直な思考ではなく、長い将来をも含めた深い議論が必要だろう。