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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

誕生日は、金武の銘酒 「 龍 ( たつ ) 」 で祝った。

2013-02-10 05:07:20 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







昨日、2月9日はボクの誕生日だった。
日中いつもどおり仕事をして帰ると、誕生日祝いの用意がされていた。

出前のにぎり寿しの他に、刺身や唐揚げがあったので、
いつものように泡盛を飲み飲み食べたら腹いっぱいになって、
デコレーションケーキまで行き着かなかった。
せっかくのケーキだったが、ローソクだけ消して息子たちに 「 食べれ! 」 と言って、横になった。

毎年のことながら、誕生日か来る度に 「 新人 」 の気持ちに切り替える。
競輪選手でデビューしたギラギラした新人の時の気持ちになるように意識するのである。
「 花なら蕾、こころは19、ハタチ 」 と言うようにだ。

いきなりだが、金武町は金武大川(きんうっかがー)に代表されるように水の湧く町である。
その金武町の銘酒 「 龍 」 は、金武酒造の泡盛である。

龍は、名水・金武大川の湧き水で仕込む金武酒造。
古酒なので25度だが濃厚な味わいが愉しめる泡盛である。
また、金武観音堂境内にある鍾乳洞での 「 古酒貯蔵サービス 」 が行なわれており、
全国にオーナーがいる。

金武酒造 : 沖縄県国頭郡金武町金武4823-1





北九州市戸畑区 ・ 国指定重要文化財 「 旧松本家住宅 ( 西日本工業倶楽部 ) 」

2013-02-09 05:06:58 | 近代化産業遺産・土木遺産



国指定重要文化財「旧松本家住宅(西日本工業倶楽部)」






















リズム感のある窓枠と連続した飾り板
























































階段の壁面にあるステンドグラス







洋間の天井







洋間の暖炉







和室の天井







和室の暖炉







和室から見た庭







細かくデザインされたデッキの天井孔







トイレのタイル







夜の松本邸







夜の松本邸












去年の12月に特別公開された国指定重要文化財の旧松本家住宅(西日本工業倶楽部)であるが、
もっと早くに掲載しようと思いながらも、次から次へと動画の編集が溜まり、
やっと掲載にこぎつけたものである。

この建物は、明治年間に父安川敬一郎とともに石炭業を興して成功し、
明治専門学校(現在の九州工業大学)の創立者のひとりであった松本健次郎が、
明治41年から44年にかけて自らの住宅と学校の迎賓館を兼ねて建てたものです。

 北九州市戸畑区に位置し、屋敷の周辺は木々の繁る丘陵地で、
敷地面積は約1.3ヘクタール、洋館と日本館から成る明治時代の典型的な貴紳住宅です。

 洋館は建築面積624.9平方メートルの木造二階建で、辰野金吾が設計を行ないました。
一階は広間を中心にして応接室、主人書斎、客室、食堂などが配置されています。
二階は主人夫妻寝室と子供達の部屋が並び、和室も設けられています。

 洋館・日本館とも第二次大戦までは松本家が住宅として使っていましたが、
戦後進駐米軍に接収され、昭和26年までは独身将校宿舎に使用されていました。
27年、北九州経済人の集まりである西日本工業倶楽部が設立されると同時に、
松本氏から土地、建物を譲りうけ、以後倶楽部会館として利用されています。

 この建物の特色は、洋館が外観および室内意匠、家具とも
アール・ヌーボー様式でデザインされていること、
しかもそのデザインが非常に優れていること、
また建築技術の面からみてもきわめて水準が高いものであるという点にあります。
日本におけるアール・ヌーボー導入の早い例であり、
かつもっとも本格的なものです。
家具に到るまで一貫してアール・ヌーボーで製作されている例は他にはありません。

 邸内には松本氏が国の内外から調達した家具調度品、
美術工芸品が数多く揃っており、
また金比羅山を背景にした庭園も四季それぞれに樹相を異にして観賞されます。

 建物および煉瓦造りの蔵二棟が昭和47年、国の重要文化財に指定されました。





■松本健次郎(1870~1963)

安川敬一郎の次男として生まれ、1890年、伯父松本潜の養子となる。
ペンシルベニア大学で財政経済学を学んだ後、
父敬一郎が経営していた炭坑業(のちの明治鉱業株式会社)に参画。
さらに、紡績、電機、製鋼、窯業等の事業を興した。
1907年には、父敬一郎とともに私財を投じて明治専門学校(現九州工業大学)を設立。
この時、評議員の一人として辰野金吾博士が迎えられ、
それが機縁で松本邸洋館の設計が同氏に委ねられた。



今日 ( 2月8日 ) の雪

2013-02-08 17:06:07 | 日記 ・ イベント






朝5時にムサシの散歩に出たときは降っていなかったのに、
しばらくして外を見ると薄っすらと雪化粧していた。
雨ならば雨音で気付くが、
雪はハラハラと舞い降りるので気配を感じ難いのである。

雪の中の仕事は雨よりもマシだが、
爪先が冷えてジンジン痛いくらいだった。




沖縄県宮古島  「 鏡原馬場と人頭税廃止100周年記念碑 」

2013-02-08 05:05:54 | 沖縄の文化財



「鏡原馬場跡」









かつての競馬の審判台







城間正安と中村十作の顔がある 「 人頭税廃止100周年記念碑 」












「 史跡 鏡原馬場跡 」 と刻まれた石碑の隣には70センチ程度に積み上げた石垣作りの審判台。
あの記念すべき年、審判台の上に立った4人の目には何が映ったのだろうか。
宮古島の南西にある鏡原馬場に大歓声が沸き上がったのは1894年(明治27年)3月。


琉球処分で沖縄が日本に併合されてから15年後のことだった。
宮古の農民代表として人頭税廃止を国会に請願し、
税撤廃の確信を得て帰島した城間正安、中村十作、平良真牛、西里蒲の慰労祝賀会。
漲水港で4人を出迎えた農民数百人は鏡原馬場まで約3キロの道のりを宮古の伝統舞踊クイチャーで練り歩く。
そののち、島内から優れた馬を集め、当時、農民に禁じられていた競馬を催した。
そんな悪税が廃止に近づいたとき、宮古農民は禁を犯して喜びを競馬にぶつけたのだった。

琉球王国が琉球藩となった1872年(明治5年)、
沖縄本島では士族だけに制限していた乗馬を農民にも許可している。
ところが、宮古島では翌1873年の富川親方規模帳(琉球王府高官の布告)で、
農民の乗馬を改めて禁じ、競馬に参加した場合にはムチ打ち刑に処すと通告した。

本島と離島・宮古島の温度差。宮古方言で「ヌーマピラス」と呼ばれた競馬も本島とは性格が異なる。
娯楽的な色彩はなかった。

宮古島は平坦地が比較的多く、馬が最も警戒するハブ(馬は微量の蛇毒で絶命)も生息していないため
馬産に適しており、王朝時代から沖縄最大の馬供給地になっていた。

1653年から琉球王府の江戸上り(慶賀使、謝恩使派遣)が始まると、宮古上布とともに宮古馬も献上させた。
その献上馬の選定会が競馬だった。
献上先は首里王府、薩摩藩に加えて徳川将軍家である。
記録には残っていないが、よほど精錬された走りが求められたのだろう。

明治から昭和初期の宮古競馬は鏡原に加えて友寄、宮国、新里、与那覇、友利、福里、新城、比嘉の馬場でも行われたが、
ムチを振るうと失格になったという。本島にはそこまで厳格な決まりはない。

「水の入った茶碗を騎手の手のひらにのせて走らせても、水がこぼれなかったという。
乗る人に震動を感じさせない絶妙な走法」(宮古研究第4号・宮古の在来馬)
という宮古競馬は王朝時代の精錬された献上馬選定の名残りである。

そんな献上馬の安定供給を図るため、琉球王府は常駐した御目利(馬役人)に馬帳(馬の居住台帳)を提出させ、
生死も毎年届け出を命じる徹底した管理ぶりだった。




沖縄県宮古島市  ・  平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 人頭税石 」

2013-02-08 05:03:43 | 沖縄



宮古島の 「 人頭税石 」


















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


人頭税石(じんとうぜいせき、にんとうぜいせき)は、
沖縄県宮古島平良字荷川取にある高さ143cmほどの石柱。
他に「賦測石」(ふばかりいし、ぶばかりいし)などの呼び方がある。

この石が、現在立っているのは、「ンミャガーニのウプユマタ(宮金家の大通り)」と呼ばれた場所であり、
かつて平良の荷川取地区の人々が多く集まった場所であった。
立っている場所は、過去に確認できるだけでも3度移転を繰り返している。

なお、一般に史跡と誤解されているが、国、県、市などの史跡に指定されているわけではない。

の侵攻により琉球王国は薩摩藩に支配され、税を支払わなければならなくなった。
財政的に困窮した琉球王府は、1637年に宮古・八重山地方などへ厳しい人頭税を課した。
その際に宮古島では、人頭税石と同じ背の高さになると課税されたと伝えられている。
この伝承を、大正時代に宮古島を訪れた民俗学者・柳田國男が、
著書『海南小記』に書き記したことから全国に広まり有名になった。

しかし、人頭税は、実際には身長ではなく年齢で課税されており、
人頭税石と同じ背の高さになると課税されたという歴史的事実はない。
宮古島には、1714年頃から正確な戸籍があり、人頭税の対象を15歳から50歳までの島民としていた。

この石が、何のための石であったかについては、
人頭税の課税の目安であるという説の他にも様々な伝承が残っており、
いくつかの説が唱えられている。
その中には、かつて蔵元(宮古島内の貢租を取り扱った場所)の中庭にあり、
霊石信仰の対象であったとする説や、陽石、図根点とする説などがある。
石垣島にも同様の形状の石がいくつか残っているが、課税の目安であるとの伝承はなく、
農作業のための天体観測の基準点であるなどと伝えられている。


所在地 : 宮古島市平良 荷川取


沖縄県宮古島  「 ニブス川と唐の主・豆腐の神・水の神 ( 龍宮 ) の拝所 」

2013-02-08 05:01:17 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



正面にニブス川の拝所、右に唐の主などを祀った拝所がある







ニブス川 ( 平和の犬川 )






唐の主 ・ 豆腐の神 ・ 水の神 ( 龍宮 ) の拝所





張水御嶽や蔵元跡の近くにニブス川の拝所がある。
この拝所の詳細は解らないが、豆腐や水の神などの神があることから、
飲食業の方がお参りする拝所かもしれない。




2月7日の朝の月

2013-02-07 06:15:09 | 朝の風景とその他の風景






このところ雨が多い。
なので現場では濡れて作業をすることが多くなる。
仕事をしている時は気合いが入っているので、
冷たさなどはそんなに気にならないが、
家に帰るとそれが一気に襲って来る。
だから、着ていた物を全て洗濯機に放り込んで回し、
それからシャワーでカラダを温める。

新しい衣類に着替えてムサシと遊んでいると、
ピ~ッと洗濯機が終了の合図を送ってくれる。
あとは干してしまえば完了である。

そうそうそんなことよりも今朝の月だった。
これは午前5時前に撮ったものだが、
南東の空に浮かんだ三日月である。

西からの風が冷たい朝だった。





鹿児島県加計呂麻島 「 待網埼灯台 」

2013-02-07 04:50:18 | 奄美群島の灯台








































大島海峡の夜明け( 奄美大島と加計呂麻島の間の海峡 )






所在地 / 鹿児島県大島郡瀬戸内町 待網崎
塗色  / 白色
構造  / 塔形   構造材質 / コンクリート造
灯質  / 単閃白光  毎3秒に1閃光
光度  / 実効光度 560カンデラ  
光達距離 /  8.0海里       
頂部までの高さ / 9.4m
平均水面から灯火まの高さ / 17.93m
現用灯器  / LD管制器Ⅱ型    電球 / D-1
設置、点灯および業務開始年月日 / S34.12.18



待網埼灯台は、奄美大島の南にある加計呂麻島の待網崎の下に立つ灯台である。
この場所は奄美大島と加計呂麻島の間にある大島海峡の安全を守る重要な役割を果たしている。
岩の上に立つ灯台の高さは9.4mで、平均水面から灯火までの高さは18mとなっている。
灯台付近は岩場になっており、上陸するには小型船外機で満潮時に接岸することになる。
一度、待網公園から山を降りる方法をとったが、急斜面なうえ道も無く、
ハブの脱け殻があったので海からのルートに切り替えた。


待網埼灯台へのアクセス
待網埼灯台へは、古仁屋港から海上タクシーで瀬渡しをしてもらった。
料金は皆津崎回りで行ってもらったので、1万2千円だった。
ちなみに生間港までが3500円の相場となっている。
瀬渡しは事前に予約となっている。 ℡ 0997-72-3629



沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 アトンマ墓 」

2013-02-07 04:48:25 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











石門の下から見たアトンマ墓






石門や石垣を上から見た







墓の横から見たもの







墓の入り口に立つアトンマ墓の説明板







仲宗根豊見親の墓の上に立つ路標





平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


アトンマ墓は、仲宗根豊見親墓の南方50mに所在する。
忠導氏ゆかりの墓で同氏族の継室 ( アトンマ・後妻 ) だけを葬ったことから
俗に “ アトンマ墓 ” と称されている。
墓の様式は岩盤と切石を組み合わせた彫り込み囲い墓である。
この墓がいつの築造されたか定かでない。

「忠導氏系図家譜」によれば、12世玄似(1764~1804)、
13世玄陳(1780~1840)、14世玄安(1815~1871)、
玄盛(1824~?)らが、それぞれアトンマを迎えているが、
そのなかで14世玄安(13世玄陳とアトンマ金免嘉との子)は、
1863年から1871年まで平良の頭職を勤め、権勢を誇った人物であった。
このことから、この墓が改修・整備されたのは12世玄似~14世玄安・玄盛の頃と推定される。

忠導氏は、16世紀初期に宮古の支配者として君臨した仲宗根豊見親を元祖に数多く頭職を出し、
勢力を誇った系統である。
その勢力・財力を背景に宮古の風習として本妻と同じ墓に葬ることが出来なかったアトンマの墓を設け、
その霊をとむらったものと思われる。


所在地 : 宮古島市平良 西仲宗根真玉
国指定文化財




近代競馬150周年を記念した 「 3冠馬の切手シート 」

2013-02-07 04:45:42 | 競馬・ボート







近代競馬150周年を記念したかつての名馬や記憶に新しい3冠馬が切手になった。
切手になった馬は、セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、
メジロラモーヌ、ナリタブライアン、スティルインラブ、
ディープインパクト、アパパネ、オルフェーヴルの3冠馬10頭である。
現役牝馬で11頭目の3冠馬ジェンティルドンナは切手の配置上、
残念ながら切手になっていないが、どの馬もその時代を築いた名馬ばかりである。

これら3冠馬の他にもたくさんの名馬がその時代、その時代を彩っている。
たとえばハイセイコー、タケホープ、タニノチカラ、
トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス、
カツラギエース、オグリキャップ、メジロマックィーンなどのように、
記録でも記憶でも残る名馬もたくさんいる。

なかでも・・・
キーストン、ハマノパレード、キシュウローレル、テンポイント、テスコガビー、
ライスシャワー、ホクトベガ、ワンダーパヒューム、ノアノハコブネ、
サイレンススズカ、エリモダンディ、メルシーアトラ、ケイエスミラクル
シンボリインディ、タガノテイオー、ムーライトタンゴ、エガオヲミセテ、
チアズシュタルク、メモリージャスパー、カツノコバン、
レガシーワイス、ニホンピロアンデス、マティリアル、
アストンマーチャン、コスモサンビーム、ハートランドヒリュなど

できれば急逝したこの馬たちのことも忘れないでもらいたい。




沖縄県宮古島  ・  平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 仲宗根豊見親の墓 」

2013-02-06 05:13:32 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



仲宗根豊見親の墓








ピラミッドのように階段状になっている






墓の前庭にある井戸















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、
父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと伝えられています。
墓の構造は、宮古在来の「ミャーカ」の形式と、
沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。
この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。
外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けて有ります。
内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、
中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に仕切られています。
手前は棺ならびに副葬品、奥には洗骨後の骨カメの安置所です。
仕切中央は幅1,27m高さ1,70mの出入り口になっており、
かつては観音開きの扉がついていたことを示すカンヌキの跡が上下に各2箇所ずつとどめています。
宮古の支配者としての仲宗根豊見親親は1500年、
八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、
また島内においては井戸、道路、橋梁等の開さくをすすめたことで知られている。




熊本県天草市早浦   「 宮が島 」 と二浦町

2013-02-06 05:11:58 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



女大蛇がつくったと言われる 「 宮が島 」







400mでズームアップすると鳥居がハッキリと見える








饅頭のようにこんもりとした 「 宮が島 」




天草下島に行くと、いつも気になるのが羊角湾に浮かぶ海上コテージと早浦に浮かぶ宮が島である。
今日はその 「 宮が島 」 について書いてみたい。

早浦には神代の時代に池の窪の大きな池に女大蛇が棲んでいた。
また、そこに大きな大蛇松がそびえていた。
女大蛇はその大大蛇松から飛び上がって高い山をすくい上げて海の中に放り込んだ。
その時に出来たのが 「 宮が島 」 と言われている。







二浦郵便局







二浦小学校




「宮が島」を過ぎて県道35号線 ( 牛深天草線 ) を二浦町を走っていると
二浦小学校と二浦郵便局の前を通過する。

毎度のことであるが、いろんな地域で小学校などを目にすると、
ここでも生活が営まれているんだと思う。




沖縄県宮古島 「 タカツキャ瀬南東方灯標 」

2013-02-06 05:10:23 | 宮古の灯台







灯台表番号 / 7182
ふりがな / たかつきゃせなんとうほうとうひょう
標識名称 / タカツキャ瀬南東方灯標
所在地 / 西浜埼(沖縄県宮古島市)の西方約8.4km
北緯  / 24-46-38
東経  / 125-10-41
頭標 / 黒色円すい形頭標2個(縦掲、両頂点下向き)付
塗色 / 上部黄下部黒塗
灯質 / 群急閃白光 毎15秒に6急閃光と1長閃光
光度 / 実効光度 25カンデラ
光達距離 / 3.5海里
平均水面上~頂部の高さ / 5.0m 
平均水面上~灯火の高さ / 4.9m
業務開始年月日 / 昭和52年3月29日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)




沖縄県宮古島市  「 建設中の伊良部大橋の間をゆく 」

2013-02-05 05:10:33 | 沖縄の橋



建設中の伊良部大橋をくぐる


























































橋の主要部である鋼床版箱桁のパーツは地元で作られている













宮古島の平良港から多良間島へ行く途中に建設中の伊良部大橋の下をくぐる。

伊良部大橋(いらぶおおはし)は、沖縄県宮古島市の宮古島と伊良部島とを結ぶ予定の橋。
2006年3月18日に起工し、2014年の開通を目指している。
全長3,540mで、完成すれば、2006年に完成した新北九州空港連絡橋を抜き、
通行料金を徴収しない橋としては日本最長となる。

宮古島の平良港トゥリバー地区と伊良部島東南部の長山の浜近辺を結ぶ橋で、
建設中の沖縄県道252号平良下地島空港線の一部となる予定である。

橋梁の構造は、一般部がPC連続箱桁橋、主航路部が鋼床版箱桁橋とされ、
本橋部分の全長は3,540mに及ぶ。
また、取付道路は2,960mで、伊良部島側取付道路の一部は600mの海中道路とされる予定。
本橋部分と取付道路を合計すると、全長は6,500mとなる。

橋梁の幅員は8.5mで、幅3mの片側1車線道路の両側に幅1.25mの路肩が設けられる。
主航路部は、船舶の通航のために、支間長180m、クリアランス27mとされる。

伊良部大橋の建設により、交通の利便性向上を通じて、医療・教育水準の向上、物流の拡大、観光の活性化、
下地島空港の有効利用などの効果が期待されている。

2007、宮古島側では仮桟橋、伊良部島側では仮桟橋と海中道路の工事が行われているところである。
主航路部は鋼中路アーチ橋を計画していたが、風洞実験で耐久性に問題があることが判明。
再検討した結果、2008年に鋼床版箱桁橋に変更。
同部分の実施設計が1年遅れたため、完成が当初計画の2013年3月から2014年3月と1年遅れることとなった。
2012年6月、橋中央部の箱げたを架設するための大型の起重機(フローティング・クレーン)船が、
台風の影響を避けるため、兵庫県の母港に戻っており、
気象条件から宮古島に再度呼び戻すのは2013年4月ごろになる見込みなった。
このため、完成が予定よりもさらに10カ月ほど遅れ、2015年1月ごろになる見通し。




熊本県天草市 「 轟 橋 ( とどろばし ) 」

2013-02-05 05:07:35 | 熊本の石橋



上流側から見た 「 轟 橋 」









轟の名がついた淵になった場所から落水が轟く








下流側から見た轟橋







新しい橋の奥に石組みが見える







自然石の上に築かれたアーチ







轟橋の説明板







橋の近くにある龍神さん







裏には龍王と書かれている









鈴木塚之碑














今井九右衛門代官の碑







鉾立てかけ石













橋の袂にある 「 轟橋の架橋記念碑 」







轟橋と刻まれた石






上から見ると石橋だとは気付き難い












所在地 / 熊本県天草市河浦町今田
架橋  /  大正3年 ( 1914年 )
石工  /  江嵜仁吉
長さ   /  12.50m   幅   /  5.05m
拱矢  /   6.10m   径間  /  9.25m 
単一アーチ ( コンクリートで拡幅 )



轟橋は、芦刈橋と同じように大正3年に今田川に架けられた橋で、
天草郡内に残る数少ない石橋である。
深い谷川に両岸の力強い岩盤を基礎として架かる非常に男性的な橋である。
アーチを描く石橋は原型を残しているものの、
近年の交通量の増加にともない橋面は舗装され、
事故防止のためガードレールが設置されている。

天草下島のほぼ中央にあたるため、
島内の交通や交易の要所として重要な役割を果たしていたことが窺える。


轟公園 撰文 鶴田文史
 
 とどろ鳴る滝のあるこの地は、今村のほぼ中心に存在する自然と歴史の轟公園だ。
天草の乱後の再興に尽力された鈴木重成代官をおまつりした”鈴木塚”や、
今村の山林を村民共同体の区有林として保証してくれた今井九右衛門代官碑などがあり、
轟の滝の淵には雨乞いを神に祈願した弁天竜王鉾様がまつってあった。

 轟の鈴木塚の側にある元禄13年銘の手水鉢は、天草で一番古い手水鉢だ。
今村の庄屋さんは松本家、代々村民のために尽くされたその足跡があちこちにある。
今村の地域は明治・大正期に田中栄蔵氏の旭炭鉱が盛況だった所で、
大正3年に架けられた芦刈橋と轟橋は、人の工による天草有数の石橋文化眼鏡橋である。
この轟公園は、鬱蒼とした自然の中に歴史と人工の遺跡があり、
雨のときの滝は勇壮で自然と歴史と人工が、三位一体に凝縮している所なのだ。
 今村区
 轟公園保存会