宜湾朝保の墓
「 尚家宜湾家之墓 」 と刻まれた墓碑
今では拝みをする人も居ないのか墓は雑草に覆われていた
高平良万歳で知られる高平良御鎖の屋敷のあった高平良山。
近世琉球の礎を敷いた羽地朝秀の墓、宜野湾御殿の墓、平良(テーラ)馬場、
それに宜湾朝保の墓、蔡温の墓一帯は西原間切りの平良村に含まれていた。
末吉宮のチャーギ山の裏側に当たる場所にある蔡温の墓から、
約250mほど離れた墓地に宜湾朝保の墓がある。
儀保方面から行けば、大名公民館の横の脇道を入った下之御嶽の裏側辺りになる。
今では拝みが行われていないのか?墓の周囲は深い雑草に覆われていた。
宜湾 朝保 ( ぎわん ちょうほ )
道光3年(尚灝20年・1823年)3月5日 - 光緒2年(尚泰29年・1876年)8月6日)は、
琉球王国末期の著名な政治家で歌人であり、琉球の五偉人の一人である。
当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。
小禄御殿の支流である向氏宜湾殿内(系祖・六世前川親方朝年)の12世。
首里の生まれである。唐名は向有恆。
父の宜野湾親方朝昆(唐名は向廷楷)は、尚育王時代の三司官であった。
父が亡くなり、朝保は13歳で家をつぎ、宜野湾間切を領した。
当初は、宜野湾の家名を名乗っていたが、
1875年(明治8年)に尚泰王の次男・尚寅が宜野湾間切を賜り
宜野湾王子と称するようになったため、宜野湾の名を避け、宜湾と称するようになった。
また宜湾朝保は、琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家でもある。
十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代に、
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は
維新を祝う使者として東京に派遣された。
そこで新政府から琉球を日本の藩とし、
国王・尚泰を藩王とする詔勅が下され、
使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢と自国の立場を鑑みこれを受諾した。
以降、琉球を日本に取り込むための施策、琉球処分が段階的に行われていった。
亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、
宜湾はこの様子を 「 衆官の議、もっぱら己の門閥を保つを先にする 」 と評し
「 ただ国家を安んずる 」 ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。
しかし親清派の士族達からは 「 売国奴 」 と呼ばれ、
激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。
彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。
「 野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ 」 宜湾朝保
幕末は、鹿児島に使し、歌人の八田知紀に和歌を学び、帰琉して別業を営み、
悠然亭と命じ、自分は松風斎と号し、歌を講じた。
のち福崎季連と相携え、琉球歌壇の基礎を築いた。
明治5年(1872年)、東京滞在中、吹上離宮の歌会に陪侍し、
「 水石契久 動きなき御世を心のいはかねにかけてたえせぬ滝の白糸 」 と詠み、
天皇のお褒めを頂いた。
一説に、上り口説、下り口説、四季口説は朝保の作であるという。
宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、
琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。