唐津くんちの紹介で、今回が最後になる14番目の七宝丸。
江川町の七宝丸は、1876年(明治9)大石町住、田中市次正信、
大工、宮崎和助・塗師須賀仲三郎によって製作された。
曳山に関する資料としては昭和61年修復総塗替の際、龍頭の中から木札が発見された。
この発見により製作者および製作期間が明確に判明した。
曳山には赤獅子と青獅子などの対となるものがあり、七宝丸の製作にあたり、
中国の古事の中に龍頭鶏首の船による貴族の船遊びの記録をもとに、
当時の製作者が大石町に住んでいたため、
大石町の船として龍頭の七宝丸を製作したものと推測される。
七宝丸は長さがあるので、栓木(支柱)が二本使われ、重心は前におかれ、
カジ取りがうまくいくように設計されている。
こ曳山の特徴は太陽に玉を頂いた屋形と磁器の龍のツメと歯であり、
しかも屋形自体が左右に動くように工夫されていることである。
船体は木組みの一閑張りで、龍頭と頸は芯まで紙の一閑張りとなっている。
幅は2㍍、長さ約6.3㍍、重さは3㌧である。
七宝丸には七つの宝がある。
まず、船の上に①宝珠、船尾に②軍配と③打出の小槌が竿に立てられ、
④隠れ蓑と⑤宝袋が飾り付けられており、
船の横の勾欄間には⑥まが玉が互い違いに配され、
欄干の前には⑦一対の巻物がはめこまれている。
その他、笠の後方には長寿のまき絵と鍵。
また、後方の宝袋には松竹梅の折鶴のまき絵が描かれている。
また、曳山の屏風の松竹の絵は、唐津藩絵師・武谷雪渓(大石町住)が描いたものである。
曳山は原則として、製作年代順に曳山を曳くことになっている。
しかし、水主町と江川町の曳山は製作年代が同じであるため、
4日の「町廻り」の日には江川町の14番曳山が先に曳かれ、
水主町の13番曳山がその後に続く。
そして、順路の途中の坊主町の角で江川町が曳山を曳き込み、
水主町が追い越して曳山の順番を入れ替わる習慣がある。
これは他にない習慣である。
[参考・転載:唐津くんち「ガイドブック」(1991)] より