
選手管理棟から見た競輪場 ( ホームベース側がスタート・ゴールになる )

1コーナーから2コーナーそしてバックにかけて
西宮競輪の初開催は1949年3月25日。
当時はやぐらの上に木製のパネル120枚を張り合わせた周長300mバンクとして開場。
当時のバンクはパネルが安定せず振動で選手の力が極端に奪われることや、
落車した時に木のささくれが肌に入り込んで擦過傷がひどいことなどから
不評が相次いだと言われている。
甲子園競輪場とともに、1964年に廃止されるまで、
他の競輪場では開催に及び腰だった女子競輪を積極的に開催した。
1966年には、木製パネルからアスファルトに変更。
同年、当時存在した特別競輪(現在のGI)「全国都道府県選抜競輪」が開催された(優勝は高原永伍)。
1978年、当球場に人工芝が敷設されたことに合わせてバンクを改修。
外野の人工芝部分にやぐらを立て、走路を333m ( いわゆる「 さんさんバンク 」 ) に延長した。
以後、西宮競輪が廃止されるまでこのバンクで開催された。
1978年と1984年には特別競輪「オールスター競輪」が開催された。
それ以降は特別競輪の開催はなかったが、1996年2月下旬に一部のトップレーサーを集めて
「震災復興特別競輪」(全国場外発売を実施)が3月の開設記念とは別に開催された。
震災の影響により1995年3月末まで開催を休止したが、
同年4月より再開。この年の開設記念は中止となった。
左中間からバックスクリーン寄りの部分には競輪開催のための運営本部と
払戻金を表示するための電光掲示板が設置された。
競輪以外の時は扉が閉まり、一時期は野球場用の広告看板が掛けられた。
1982年に大型映像装置がバックスクリーンに設置されるとオッズ表示、
レースリプレーの上映も開始された。
元々野球場のため、スペースの都合で空調完備の特別観覧席の設置が難しく、
永きにわたり特別観覧席の設置は見送られてきた
(実際には一部に空調完備の特別観覧席を設置していたものの、
収容人員が限られることから団体客などごく少人数に限られ、一般客は利用できなかった)。
スタンド観戦では 「 夏季は暑く冬季は寒い 」 と観客には不評であり、
空調完備の特別観覧席の設置を求める声が強かったことや、観客人員が減少していたこともあり、
集客の目玉として、主要な野球の試合が行われなくなった1998年、
大型映像装置を競輪の運営本部上部の電光板に代えて設置し、
バックスクリーンを取り壊したその跡地に全天候型・ガラス張りの特別観覧席を設置して、
競輪場としての顔をより一層充実させた。
売り上げは1992年をピークに減少し続け、
施行者である兵庫県の外郭団体兵庫県市町競輪事務組合
( 兵庫県下の19市1町による一部事務組合 ) の赤字経営も災いし、
積立金も底を尽き出したことから、廃止が取りざたされるようになる。
廃止止む無し、という情勢となったが、ファンのためにと、一転存続を決定する。
ただ、その後は場内の観戦エリア・発売窓口が限定された。
経費削減などの努力もされたが、それでも収支が好転しなかったため甲子園競輪場とともに、
兵庫県市町競輪事務組合が開催を廃止することを決定した。
2002年3月、毎年3月の恒例行事だった開設記念競輪 ( GⅢ ) 「 阪急ダイヤモンド賞 」
( 優勝者には阪急電鉄から副賞として、かつてあったダイヤモンドクロスに因んで、
1カラット相当のダイヤモンドが贈られた ) を最後に53年の歴史に幕を下ろし、
またその追い討ちを掛けるように球場自体もその年の末閉鎖された。
現在では清算が完了したが、最終的には黒字であったという。
明日はそんな西宮競輪場の想い出について書きたいと思います。