
沖縄最初の歴史書を作った「 羽地朝秀の墓 」

墓庭の石碑は薄くなっていたが 「 贈 正五位 羽地朝秀之墓 」 と刻まれている
今年、いろんな場所で石橋、馬場跡、灯台、文化財などを探訪したが、
何よりも探し出せて一番うれしかったのが、この羽地朝秀の墓である。
今まで3年以上、5度目の探訪にして初めて見つけ出した墓である。
これまで、この付近の墓の名前を覚えるくらい巡ったが、
探し出せないので、「 もう、諦めよう 」 と思って、
首里大名町の公民館の前に停めていた車に行って帰り支度をしていたら、
公民館から出て来たおじいさんと会って、
羽地朝秀の墓のことを訊ねたら、「 付いて来なさい 」 と、
墓の入り口まで連れて行ってくれた。
自分一人では何時間かかっても探し出せない場所にその墓はあった。
「 ゆっくり見て行ったらいいさぁ 」 と、言っておじいさんは行ったが、
それは、長年の夢が叶った墓の探訪だった。
羽地朝秀 ( はねじちょうしゅう ) の墓は、
沖縄県那覇市首里平良町の通称チャーギ山にある
琉球王国の摂政・羽地王子朝秀の墓である。
墓様式は亀甲墓の祖型をなす独特の形をしている。
羽地朝秀の墓は、正確には朝秀個人の墓ではなく、
琉球王族・羽地御殿の歴代墓(家族墓)である。
羽地御殿は、小禄御殿二世・尚弘業・浦添王子朝喬の三男・羽地王子朝元を系祖とする
御殿 ( うどぅん、王家分家 ) である。
羽地朝秀の墓は、朝秀の父・朝泰の代に国王から拝領したもので、
当初は堀込墓であったが、後年現在の亀甲墓の形に似た姿に改修されたといわれる。
形は亀甲墓に似ているが、屋根は亀甲形ではなく、かまぼこ形をしており、
亀甲墓に特有の臼 ( ウーシ ) や袖石 ( スディイシ ) といった諸要素も欠いている。
また、亀甲墓に比べて、地面からマユ(眉)と呼ばれる墓室正面の屋根までの高さも高く、
墓口も大きい。
墓室前には庭を囲む袖垣があるが、戦前の写真と比べると、
上部が崩壊したのか高さが低くなっている。
墓口近くの墓庭には 「 贈 正五位 羽地朝秀之墓 」 の文字を刻んだ石碑が
1922(大正11)年に建立されている。