「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県久米島  ・  沖縄の文化財  「 宇江城グスク 」

2012-10-17 14:11:35 | 沖縄の文化財







宇江城グスク
The Ruins of Uegusuku Castle
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年1月17日 
Designaed Date : January 17,1974
所在地 : 沖縄県島尻郡久米島町仲里村字宇江城山田原
Location : Nakazato-son,Kumejima-cho,Shimajiri -gun,Okinawa-ken



宇江城城は宇江城岳の頂上に築かれた県内でも最も高い所にあるグスクで、
地元ではウィーグスクとも呼ばれている。
『 具志川間切旧記 』 によると、
このグスクは伊敷索按司の二男、中城按司がこの地をグスクと決め、
武久知樽金 ( むくち たるかね ) が城を造ったといわれているが、
城は尚 真王の時代に首里政府軍によって滅ぼされた。
グスク内には物見跡といわれている東側部分が最もよく残っていて、
板状の輝石安山岩が使用されている。
西側は米軍の基地で大部分が破壊されている。
城内からはグスク時代の土器や中国製の青磁などが見つかっており、
中国との貿易の歴史を理解する上で重要な遺跡である。


The gusuku was built on the top of Mt.Uegusuku, and is the highest one in Okinawa.
It is locally called Uigusuku. According to Gushikawa Magiri Kyuki,
this gusuku was built by Mukuchi Tarukane by the order of Aji Nakagusuku who was the
second son of Aji Ishikinawa.
It was destroyed by the military of Shuri monarchy in the period of King Sho-Shin.

沖縄県久米島  「 宇江城 ( うえぐすく ) グスク 」

2012-10-17 13:38:02 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



輝石安山岩を積み重ねた城壁








宇江城グスクの遠望







一段上にある主郭







累々と積まれた城壁






グスク内の主郭にある拝所







主郭にある井戸跡







主郭広場








グスク頂部から宇江城集落と比屋定集落方面を望む








グスクの向うに自衛隊のレーダー基地が見える












その造りから勝連グスクを連想させる宇江城グスクは、御肝高杜と美称されるグスクである。

宇江城グスクは、伊敷索按司の二男・中城按司によって築かれたといわれている。
グスクは最初、大城山に築くはずであったが、
堂之比屋(どうのひや)の音知小原(おとちこばら)という女が御嶽から出てきて、
「神のお告げとしてグスクは仲城がよい」といって走り去った。
そこで、中城按司は大城をやめ仲城山に築いたとされる。
築城の際6キロ~7キロ離れた白瀬川から手渡しで石を運んだというグスクは、
主郭と二の郭からなり、具志川グスク同様に輝石安山岩を平たく積み上げた
見事な城壁で築かれているが、
二の郭の石垣は米軍の基地建設でほとんど破壊され、
現在も自衛隊の施設内にあるが、原形をとどめていない。

中山軍が久米島に兵を進めて来たとき、最初に伊敷索グスクを攻め落とし、
続いて宇江グスクを攻めたが堅固なため、なかなか落ちなかった。
そこで中山軍は鉾先を変え、先に弟の具志川グスクを攻め落とした。
父の伊敷索按司もやられ、弟の真仁古樽按司もやられたことで、
中城按司は覚悟を決めて、一子を重臣の堂之比屋に託して行方をくらます。
しばらくして琉球王府は中城按司の遺子を宇江グスクの城主にすると伝えたが、
堂之比屋は遺子を殺して、自らが城主の印を受けに首里へ向った。
王に印をもらい城主となって島に帰って来た堂之比屋は、
宇江城グスクの城門付近で馬がつまずいて転倒し、
その時抜け落ちた自分の剣が刺さって死んだという。
それ以後、宇江城グスクは廃城になってしまったと伝えられる。



宇江城グスクの祭儀のときに謡われたと思われる 「 おもろ 」 がある。

一くめのこいしのか     ( 久米のこいしのが )
おきもたかもりや      ( 御肝高杜は )
くにまさり しよわちへ   ( 国を繁栄させたまいて )

又ももうらこいしのか    ( 百浦こいしのが )
又くめの中くすく      ( 久米の中城 )
又とよむ中くすく      ( 名高い中城 )


宇江城グスクへのアクセス
宇江城グスクへは、国道242号線を真謝集落を過ぎて比屋定バンタ方向へ進み、
比屋定バンタ手前の宇江城看板から左に入り道なりに2Kほど山を登って行くとグスクへ到着する。
駐車は、グスクの入り口に駐車できる。




久米島の 「 び 」 を飲んだ

2012-10-17 13:17:21 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







昨日、土場にある砕石などを片付けて、
ユンボをユニックに乗せて倉庫まで積んで帰って格納して下水の仕事が終わった。
次に仕事が入るまでしばらく休みである。
それで夕べは気兼ね無しに泡盛を飲んだ。

爽やかなブルーの瓶に入った泡盛は、
久米島の久米仙と同じ久米島町宇江城(ウエグスク)の古酒(クース)で、
味、香り、コクともに泡盛の旨味をしっかりと引き出した古酒である。
25度なので軽く滑らかな味わいは、初心者にもお薦めの泡盛である。






長崎県長崎市 「 肥前端島炭坑 ( 軍艦島 ) 」

2012-10-17 12:43:48 | 近代化産業遺産・土木遺産



その姿が戦艦 「 土佐 」 に似ているところからその名がついた軍艦島









長崎・端島 「 軍艦島 」








突き当たりにある端島小学校と貯炭ベルトコンベアーの支柱







丘の上に立つ幹部職員社宅 ( 風呂付 )







鉱員社宅 ( 屋上・幼稚園 )







煉瓦造りの総合事務所








殺伐とした廃墟に煉瓦の赤い色が映える








巻き上げ櫓と第二竪坑坑口桟橋跡








仕上げ工場







鍛冶工場







地下に共同浴場、1階に理髪店や郵便局が設置されていた31号棟鉱員社宅







大正5年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造の30号棟高層アパート








天川と呼ばれる接着剤を用いた石積み工法 ( 天川の護岸 )








島の拡張にともなう石積みの防波堤








鉱員たちの心のよりどころとなった端島神社








旧・石炭積み込み桟橋橋台










■ 所在地 /  長崎県長崎市高島町端島
■ 操 業  /  1877年~1974年 ( 明治20年~昭和49年 )
■ 近代化産業遺産



その島は戦艦土佐に似ているところから 「 軍艦島 」 と呼ばれている。

昭和49年の閉山まで地下1000mの海底炭田を掘削していた炭鉱のための洋上都市である。
もともとは小さな瀬だったところを埋め立て、
縦480m×横160mの面積に最盛期は5000人以上の人がひしめきあった。
狭い土地に多くの人が集中し、建物は高層化が進んだ。
大正5年に建設された最古の鉄筋コンクリートの30号棟アパートも残っている。
幼稚園、小学校、中学校、病院、売店、理髪店、交番、神社、映画館などを兼ね備えた町となった。
さらに島内には竪坑、選炭場、貯炭場、積み込み桟橋などの炭鉱設備が面積の多くを占めていた。
国内で最も良質な石炭を産出することで有名だった端島も、採算の悪化にともない閉山し、
閉山後は無人島になり、すぐに荒廃した。

大正から昭和期の高層アパート群という価値のある建築と特異な炭鉱都市の遺構。
そして炭鉱関連施設は近代化を雄弁に物語っている。


本来ならば、動画で一気にお見せしたいところだったが、
撮影の途中でバッテリーが切れてしまったため、
映像ではなく画像で紹介することになりました。

長崎県長崎市  ・  ぶらり長崎市 ② ( 長崎歴史文化博物館と史跡 )

2012-10-17 11:47:36 | 探訪 ・ ドライブ



長崎歴史文化博物館
























2005年 ( 平成17年 )11月に開館。
長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い、
両者が運営・管理を民間企業の乃村工藝社に委託する指定管理者制度をとっている。
館のメインテーマは「近世長崎の海外交流史」だが、民間企業が運営していることもあり、
さまざまなジャンルの企画展や集客イベントを積極的に行っている。
名誉館長には脚本家の市川森一、初代館長は前常磐大学学長の大堀哲が就任した。


施設は、歴史文化展示ゾーン、長崎奉行所ゾーン、長崎歴史情報コーナー、
伝統工芸体験工房、資料閲覧室、ショップ・レストランがある。
その他の施設として、企画展示室、イベントの間、イベント広場、ホールがある。

長崎奉行所立山役所の御白洲では、土、日、祝日に20分ほどの寸劇が行なわれて、
当時の裁判の様子を再現している。
開始時間は11:00、12:00、14:00、15:00、16:00。
寸劇終了後は記念撮影時間が設けてある。
寸劇は、県内の大学生や県民が寸劇ボランティアとして約21名参加している。

同館で上映される長崎奉行の一年を描いた立体映画には
俳優の風間杜夫が長崎奉行・遠山景晋役で出演している。






長崎歴史文化博物館の前にある 「 長崎会所跡 」












長崎会所跡は、延宝3年 ( 1675年 ) 、糸割符会所に置かれた市法会所は、
元禄11年 ( 1698年 ) 、長崎会所と改称され、
オランダや中国との貿易業務と幕府の銀運上 ( 税の徴収 ) や
市中への銀配分などを行っていた。
長崎奉行の支配下で、正徳新令以降、その職員は会所調役 ( 2人 ) 以下、
会所目付 ( 2人 ) 、吟味役 ( 8人 ) など、240人を数えた。
敷地は544坪 ( 約1795㎡ ) であった。
明治7年 ( 1874年 ) に裁判官の官舎となった。






サン・フランシスコ教会 ( 修道院 ) 跡











この教会は慶長16年 ( 1611年 ) にアスンシオン神父によって建て始められた。
しかし、慶長19年 ( 1614年 ) に破壊されてしまった。
のち、桜町牢が置かれ、中浦ジュリアンや金鰐次兵衛など
多くのキリシタンが捕らえられ、改宗を強いられたりした。







長崎東京間郵便線路開通起点の跡











郵便線路はそれまでの飛脚 ( 文書・金銭・小荷物などを運んだ人夫 ) に代わる
手紙を送る方法で、明治4年 ( 1871年 ) 3月1日、東京ー大阪間に開通。
12月5日には長崎まで延長され、明治5年 ( 1872年 ) 7月には
ほぼ全国に開通した。
この郵便線路は東京ー長崎の場合、東海道、山陽道、西海道の各宿駅をリレーされるもので、
飛脚便では190時間だったが、半分の95時間に短縮された。
この地に長崎郵便役所が置かれ、明治8年( 1875年 ) 本博多郵便局と改称された。