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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県佐世保市世知原 「 高観寺橋 ( こうかんじばし ) 」

2016-01-18 07:39:41 | 長崎の石橋






















所在地  / 世知原町       佐々川
橋長  / 15.5m   橋幅 / 4.2m   
径間  / 14.5m
架橋  /  昭和4年 ( 1929年 )


高観寺橋は、国道54号線沿いの 「 高観寺バス停 」 付近にあり、
現在はご覧のとおり、壁石は後で新しく造られた物で、
当時のものは輪石だけが遺されたカタチになっている。
そのため重厚さは欠けるが、
昭和4年架橋のわりに輪石に年代以上の歴史を感じさせる。



長崎県佐世保市世知原町 「 小岩橋 」

2016-01-09 02:51:41 | 長崎の石橋































所在地  /  長崎県佐世保市世知原町上野原
竜ノ氏川
橋長  /  2.9m  橋幅  /  1.35m
橋高  /  2.8m
単径間桁橋


小岩橋は佐々川支流の竜ノ氏川に架かる橋で、
両岸に築かれた石垣を橋台としている。
長さ2.9m、幅1.35m、厚さ45㎝の大きな自然石の板石を架け渡している。
分類としては桁橋にあたり、佐々川世知原の石橋では唯一の桁橋である。

架橋の年代については不明であるが、江戸時代までさかのぼる可能性を秘めている。


長崎県佐世保市世知原町 「 竜ノ氏 ( りゅうのじ ) 橋 」

2016-01-07 14:28:41 | 長崎の石橋














所在地 / 世知原町上野原 竜ノ氏 ( りゅうのうじ )

橋長  / 4.0m   橋幅  / 3.4m
径間  / 3.8m   拱矢  / 1.8m
環厚  / 42cm
架橋  / 大正15年 ( 1926年 )


正月休みでやっと石橋の編集に入ることが出来たので、
世知原 ( せちばる ) 町の石橋群18基を探訪順に
随時紹介して行きたいと思っています。

一番最初に訪れた竜ノ氏橋は、佐々川支流の竜ノ氏川に架かる橋で、
現在も現役の橋として活躍している橋である。

アーチの輪石には砂岩を使い、壁石には安山岩を用いている。
壁石は大小の安山岩の自然石を割り、
割面を外側にして積み上げられている。
石の大きさは不揃いで、 「 乱れ積み 」 という積み方で積まれている。
橋自体の保存状態も良く、下流側から見ると
川床の砂岩と半円に描かれたアーチが見れる。


長崎市 「 銕橋 ( くろがねばし ) の親柱 」

2014-05-19 04:58:41 | 長崎の石橋














「 くろがね橋の石柱 」
中島川に架けられた 「 銕橋 ( くろがね橋 ) 」 は、
明治元年(一八六二年)八月に、日本最初の鉄の橋として、
長崎製鉄所によって造られました。
「てつばし」の愛称で今も長崎市民に親しまれています。
この石柱は当時橋の両側にあったもので漢字の「銕橋」と、
変体かなで「くろがねばし」と彫られていたものが、
なかよく並べて建てられてものです。

           石柱の横の説明より
  


      
                
銕橋 ( くろがねばし ) は、長崎市の中島川に架かる橋で、
初代「銕橋」は日本初の鉄橋とされている。
1868年(明治元年)8月1日に渡り初めが行われた。
銕橋ができる前は「大橋」「第十五橋」などと呼ばれる木造橋が架かっていたが、
1867年(慶応3年)の豪雨で橋が大破。
それ以前も何度も水害被害を受け流失、大破していることから、
有志らが世話人となり、長崎製鉄所の鉄を使い鉄橋を造った。
オランダ人技師ホーゲル設計、製鉄所頭取の本木昌造の陣頭指揮による。
長さ27メートル、幅6メートル程。
1937年(昭和6年)に鉄筋コンクリート製の2代目に架け替えられた。

現在は国道324号の一部になっており、河口から数えて6番目の橋で、
築町と浜町を結んでいる。
現在も、 「 くろがねばし 」 ではなく、 「 てつばし 」 の呼び名で親しまれており、
地元テレビ局などは、後者の読みを用いる。


長崎市 「 中島川の袋橋 」

2014-05-11 05:01:41 | 長崎の石橋



長崎市 「 中島川の袋橋 」







































日本最古の眼鏡橋の30mほど下流にあり、
架設年月は不明であるが、眼鏡橋についで古いとの説もある。
たびたびの洪水にも流出を免れているようでもある。
ひとつ上流の眼鏡橋は日本最古の石橋ということで有名で大事にされているが、
この袋橋は石橋という感覚があまりないのか?
この橋の上から 「 眼鏡橋 」 を写している人は多いが、
この橋を特別に意識するわけでもなく、
通常の橋として見られているようである。





長崎市 「 眼鏡橋 」

2014-05-08 06:20:41 | 長崎の石橋



長崎市 「 眼鏡橋 」























































橋の袂にある 「 黙子如定 ( もくすにょじょう ) 」 の像

















眼鏡橋は長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋で、
架橋時、琉球王国だった天女橋 を除くと、日本初の石造りアーチ橋である。
1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定されている。

橋の長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。
1634年(寛永11年)興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう)が架けた。
1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している。
その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、
流失することなく度重なる水害に耐えてきた。
1982年(昭和57年)の長崎大水害では中島川の橋が流失したが、
眼鏡橋は半分程度損壊するという深刻な被害を受けたものの流失は免れた。

修復のための部分解体調査で江戸期のものとみられる階段跡が
左岸橋端から見つかったため、従来はスロープとなっていた橋端は階段へと変更された。
橋端は1873年(明治6年)頃、人力車通行のために階段をなくしたものと見られる。
ただし眼鏡橋は1948年(昭和28年)以後、車両の通行が禁止されている。


長崎市 「 森 橋 と 唐人屋敷の堀 」

2014-03-21 05:53:41 | 長崎の石橋



唐人屋敷の堀に架かる 「 森 橋 」











































かつて森伊三次が住んでいた家





森橋は、地元の富豪・森伊三次氏の寄贈で唐人屋敷敷地境の堀に架けられた
アーチ型の石橋 ( アーチの差し渡し ( 径間 ) 2.9m ・ 橋幅2.8m ) 。
親柱に「明治二十五年一月架」(1892年)と彫られている。
また、 「 寄附者 森伊 」 (その下は剥離)の文字がみられる。


森伊三次 ( もりいそうじ ) 氏は、
1870年(明治3)、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受け道路、橋を整備した地元の富豪。
現在の茂里町地区は、当時 「 浦上村里郷 」 と呼ばれていた。
ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。
森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、
この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は 「 森町 」 と呼ばれていたが、
1913年(大正2)、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、
自らの名前から里が茂 ( 森 ) る ( 栄える ) ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
1897年(明治30)現在の浦上駅 ( 旧長崎駅 ) まで鉄道が開通し、
森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。


唐人屋敷の堀は、来舶唐人が居住していた唐人屋敷は当時(1689~1859年)、
内外を隔絶するために周囲を練塀で囲み、
その外側に水堀や空掘を設け、さらに竹矢来で二重に囲まれていた。
その当時の堀の跡が、川底に石が敷き詰められた森橋、天后堂裏の側溝や、
森橋、榮橋の付近にみられる



長崎県諫早市 ・ 石橋で日本最初の重要文化財 【 諫早眼鏡橋 】

2012-11-15 00:12:09 | 長崎の石橋



石橋で日本最初の重要文化財 【 諫早眼鏡橋 】









橋の近くにある 「 説明板 」














幅広の扁平アーチが特徴的な石橋








どっしりと構えた中央橋脚の水切り








橋の欄干は神社を思わせる親柱や支持柱が立っている







輪石には環厚の大きな石が使われ、要石付近の頂部は薄くなっている







路盤には薄い石板が敷かれている







階段とスロープを繰り返す独特な造り







神社や寺院の参道橋を思わせる階段などの造り







かつてこの眼鏡橋が架かっていた本明川











所在地 / 長崎県諫早市高城町771-2 ( 諫早公園内 )
架橋  /  天保10年 ( 1839年 )
石工  /  不明
長さ   /   49.25m   幅   /  5.5m
拱矢  /   8.2m   径間  /  19.12m 
二連アーチ




諫早眼鏡橋(めがねばし)は長崎県諫早市高城町の諫早公園内の池に架かる石造二連アーチ橋で、
石橋としては日本で初めて国の重要文化財に指定された。

橋の長さは49.25mで長崎の眼鏡橋の約2倍、幅5.5m、石の数は約2800個が使用されている。
1839年(天保10年)、現在地から約500メートル離れた本明川に架けられた。
世話人たちは「水害でも流されない頑丈な橋」を目指し、
長崎の眼鏡橋を参考に架けたといわれている。
芥川賞を受賞した作家野呂邦暢は『諫早菖蒲日記』で洪水に弱い諫早のことを書いているが、
眼鏡橋は世話人たちの願い通りの出来で、以後一度も流されることはなかった。

1957年(昭和32年)に起きた諫早大水害では、死者・行方不明者580人以上の犠牲者が出た。
眼鏡橋は欄干の一部が損傷しただけだったが、眼鏡橋がせき止めた流木やガレキが水の流れを変え、
被害を拡大したとの指摘がなされた。
水害後の復興策では川幅拡張工事に合わせ爆破解体する案も浮上したが、
当時の野村儀平市長らが街のシンボルかつ文化財として保存することを強調、
さまざまな働きかけで1958年(昭和33年)、日本の石橋として初めて国の重要文化財に指定された。
このため、1959年(昭和34年)から1960年にかけて諫早公園への移設工事が行われ、
今日も美しい姿を水面に写している。
移設工事時に石工たちが参考資料として作った1/5モデルが埼玉県所沢市のユネスコ村に移された。


長崎の眼鏡橋は拱矢比が2.0の半円アーチであるが、
諫早眼鏡橋は応力上不安定で応力計算も半円アーチに比べて複雑である拱矢比が
3.0の2/3欠円の幅広アーチを採用しているため、やや扁平に見える。
その理由としては川幅、人力であつかえる石の重量
(大部分が1.2t内外が使用されていた)などが考えられる。
拱矢比3.0以上の石橋としては鹿児島市の稲荷橋・
太鼓橋・新上橋や八代市の君が淵橋・新免橋や大牟田市の早鐘眼橋等がある。
一方3.0~半円に近い石橋は九州地方だけでも 600基以上あるという。

諫早の眼鏡橋の特徴は中央橋脚部分に上流と下流のどちらにも水切りがついていることと、
橋面が入口の階段からスロープを上り、頂上部からスロープを下り、階段から平坦部に至る。
これを繰り返すのは他に例の無い通路部を持つことであろう。
この造りは、神社やお寺に架かる参道橋に似ている。

九州の石造アーチ橋の技術は中国人によって17世紀中期頃から入ったと謂われている。
諫早眼鏡橋は19世紀中期に建造されているので
それまでの長崎におけるアーチ橋技術に加えて、肥後の石工がオランダの技術を学んだことから、
少なからずもオランダの影響があったと思われる。

水害の被害を出さないために移設された諫早の石橋であるが、
個人的には本明川に架かる架橋当時の姿で見たかったものである。