「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県諫早市 ・ 石橋で日本最初の重要文化財 【 諫早眼鏡橋 】

2012-11-15 00:12:09 | 長崎の石橋



石橋で日本最初の重要文化財 【 諫早眼鏡橋 】









橋の近くにある 「 説明板 」














幅広の扁平アーチが特徴的な石橋








どっしりと構えた中央橋脚の水切り








橋の欄干は神社を思わせる親柱や支持柱が立っている







輪石には環厚の大きな石が使われ、要石付近の頂部は薄くなっている







路盤には薄い石板が敷かれている







階段とスロープを繰り返す独特な造り







神社や寺院の参道橋を思わせる階段などの造り







かつてこの眼鏡橋が架かっていた本明川











所在地 / 長崎県諫早市高城町771-2 ( 諫早公園内 )
架橋  /  天保10年 ( 1839年 )
石工  /  不明
長さ   /   49.25m   幅   /  5.5m
拱矢  /   8.2m   径間  /  19.12m 
二連アーチ




諫早眼鏡橋(めがねばし)は長崎県諫早市高城町の諫早公園内の池に架かる石造二連アーチ橋で、
石橋としては日本で初めて国の重要文化財に指定された。

橋の長さは49.25mで長崎の眼鏡橋の約2倍、幅5.5m、石の数は約2800個が使用されている。
1839年(天保10年)、現在地から約500メートル離れた本明川に架けられた。
世話人たちは「水害でも流されない頑丈な橋」を目指し、
長崎の眼鏡橋を参考に架けたといわれている。
芥川賞を受賞した作家野呂邦暢は『諫早菖蒲日記』で洪水に弱い諫早のことを書いているが、
眼鏡橋は世話人たちの願い通りの出来で、以後一度も流されることはなかった。

1957年(昭和32年)に起きた諫早大水害では、死者・行方不明者580人以上の犠牲者が出た。
眼鏡橋は欄干の一部が損傷しただけだったが、眼鏡橋がせき止めた流木やガレキが水の流れを変え、
被害を拡大したとの指摘がなされた。
水害後の復興策では川幅拡張工事に合わせ爆破解体する案も浮上したが、
当時の野村儀平市長らが街のシンボルかつ文化財として保存することを強調、
さまざまな働きかけで1958年(昭和33年)、日本の石橋として初めて国の重要文化財に指定された。
このため、1959年(昭和34年)から1960年にかけて諫早公園への移設工事が行われ、
今日も美しい姿を水面に写している。
移設工事時に石工たちが参考資料として作った1/5モデルが埼玉県所沢市のユネスコ村に移された。


長崎の眼鏡橋は拱矢比が2.0の半円アーチであるが、
諫早眼鏡橋は応力上不安定で応力計算も半円アーチに比べて複雑である拱矢比が
3.0の2/3欠円の幅広アーチを採用しているため、やや扁平に見える。
その理由としては川幅、人力であつかえる石の重量
(大部分が1.2t内外が使用されていた)などが考えられる。
拱矢比3.0以上の石橋としては鹿児島市の稲荷橋・
太鼓橋・新上橋や八代市の君が淵橋・新免橋や大牟田市の早鐘眼橋等がある。
一方3.0~半円に近い石橋は九州地方だけでも 600基以上あるという。

諫早の眼鏡橋の特徴は中央橋脚部分に上流と下流のどちらにも水切りがついていることと、
橋面が入口の階段からスロープを上り、頂上部からスロープを下り、階段から平坦部に至る。
これを繰り返すのは他に例の無い通路部を持つことであろう。
この造りは、神社やお寺に架かる参道橋に似ている。

九州の石造アーチ橋の技術は中国人によって17世紀中期頃から入ったと謂われている。
諫早眼鏡橋は19世紀中期に建造されているので
それまでの長崎におけるアーチ橋技術に加えて、肥後の石工がオランダの技術を学んだことから、
少なからずもオランダの影響があったと思われる。

水害の被害を出さないために移設された諫早の石橋であるが、
個人的には本明川に架かる架橋当時の姿で見たかったものである。




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